松浦静山と村松藩主堀侯

                        村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 松浦静山は肥前平戸藩6万1,700石の第9代藩主で、宝暦10(1760)年3月7日に生まれ、安永4(1775)年に家督を継いで壱岐守清を称した。
 62歳で引退してから、それまで師事していた幕府の儒者大学頭林述斎の勧めにより、その日文政4(1821)年11月17日甲子の夜から筆を執り、天保12(1841)年6月29日に81歳で没するまでに厖大な著作を書き続けた。その最初の夜にちなんで『甲子夜話』と名づけた。正編100巻、続編100巻、3編78巻におよび、現在、東洋文庫『甲子夜話』(平凡社)として6冊、同『甲子夜話続編』8冊、同『甲子夜話三篇』6冊、『未完甲子夜話』(有光書房)3冊として読むことができる。内容は大名や旗本等の逸話、広く世間に伝わる珍しい話を蒐集し、20年にわたって1日も休まずに書き続けたという。
 その中に越後村松藩3万石の堀侯に関する記事がいくつかあるので紹介したい。

  大名行列の行装
 初めに出てくるのは『甲子夜話』巻四十一[一](寛政3=1791年筆記)で、「都下諸大名の往還するに、その行装、尋常と殊なるあり。眼に留まる所をここに挙ぐ」として、72項目を記している。その一つ。

 ●榊原氏[高田侯]、溝口氏[新発田侯]、堀氏[村松侯]、細川氏[熊本侯]、毛利氏[萩侯]は、二本
 槍を徒士の先と駕後に持たするなり。外には見ず。立花氏[柳川侯]の二本槍は、徒士の先に二
 本一行に持つ。是も類なし。

 意味は不明だが、二本槍は他にも出てくるので、その配置を問題にしているようである。大名行列は権力誇示の儀式でもあるが、また非常時に備えての陣立てでもあるため、各家の軍法に基づいたといわれている。ちなみに村松藩の軍法は、上杉謙信を流祖とする越後要門流であった。

  湯島聖堂再建普請手伝
 次に7代堀直方が、江戸の湯島聖堂再建の普請御手伝を命じられたことが『甲子夜話』巻六十九[二三]に載っている。

 是より先き寛政十一年(1799)の十月十日、本多伯耆守[田中城主四万石]、堀又七郎[飯田城
 主二万石(名代大久保佐渡守)]、松平近江守[広島支侯三万石(名代堀近江守)]、堀左京亮
 [村松領主三万石]、小出信濃守[園部領主二万六千余石]、右の五氏を召て聖堂御再建普請御手
 伝を命ぜられ[柳間に於て閣老列座、豆州申達せりとぞ]

 とあり、他に帰藩中の六侯にも孔廟の助役が命じられた。これは『続徳川実紀』(吉川弘文館)第一篇の同日の項、「十日聖堂再建により。本多伯耆守忠温。堀又七郎親寚。松平近江守長員。堀左京亮直方。小出信濃守英筠に助役の事命ぜらる。云々」の記事に対応している。
 この工事は湯島聖堂内の大成殿の改築であった。普請御手伝は大名に課せられた一種の軍役で、大名が直接工事をするのではなく、幕府の勘定所がおこなって諸藩に費用だけ負担させた。しかし大名側は担当の幕府の役人に多額の贈答を必要としたという。そのため、藩では領内にこの工事の費用として3000両の御用金を課している。
 さらに夜話の同条に、完成後の翌12年3月望(陰暦15日)には「松平江州、堀京兆、小出信州も、助役のこと労せられて各時服[十]を賜りぬ」とある。京兆は左京職・右京職の唐名。

  三条地震
 『甲子夜話続篇』巻二十六[五]には、文政11(1828)年11月12日に起きた三条地震の村松藩領での被害を載せている。

 一、 堀丹波守様より以奉礼御知申来。
 丹波守様御領分越後国蒲原郡見付駅并下田郷近辺、去月十二日辰中刻地震強、処々破損等左之
 通。

 以下、領内の被害を数値で記しているが、潰家1043軒、半潰家371軒、潰焼家159軒、破損
家321軒、川欠2000間程、江筋潰3475間程、即死人230人、怪我人226人他の大惨事となっている。
 『村松町史 上巻』掲載の数とわずかな違いしかないため、細かいところは省略する。守は9代堀直央(1797~1861)のこと。なお、城下は震源地から離れているので、大きな被害はなかったようである。

  心形刀流伊庭道場
 次にこの堀直央と静山の交際の逸話が3話記されているが、きっかけは当の『甲子夜話三篇』巻六十九[五]に書いてあるので、そのまま掲載する。

 ○予が剣技も久しきことにて、幼年の頃は一刀流を学び、廿余に及んで心形刀流の旨を慕ひつ
 ゝ、遂に改流してより今に逮べり。又師なりし鷃斎(あんさい)より、何(いか)なる観所(
 みどころ)か、印可をも授りて、亦今日に至れり。又越後の村松侯堀氏も、其先代、心形刀の
 開祖、伊庭是水が[常吟子と号す]印可の門弟なりしが、于今伊庭の剣門と伝懇にして彼代々
 侯家に往来す。予亦彼家と殊派と雖ども、其流は同きを以て、侯家と其思外ならず。且柳班
 の故を以ても、彼先熟意なりしが、予既に退隠してよりは、今侯とは未だ面識ならざりしを、
 計らざる所にして値(あ)ふことを得たり。其後の書。
    静山様御直覧                         丹波守
                              [堀氏。今の村松侯]
 益御安康奉賀候。然ば昨日は於弓町(弓町は、観世大夫が宅。能の桟鋪なり)初而拝顔
 仕、品々御馳走頂戴、御懇命被成下、重々難レ有奉存候。失敬申上候段奉恐入候。
 其上御先罷帰り恐入候。右御厚礼申上候。扠又私宅え御来駕も可成下候段蒙仰、難
 有仕合奉存候。いづれ是より御閑日相伺、御入相願申候。其の節伊庭八郎治(八郎治は、
 号常球子。是水の家孫。今其門の師なり)罷出候様御沙汰に付、早速申聞候処、いつ成
 共罷出候段申越候。何も昨日之御礼申上度、如此御座候。頓首。
    四月九日

 4月9日は天保11(1840)年で、記事が書かれたのは8月末ころであろう。4月9日現在、静山は80歳、直央は42歳であった。
 これによると、静山は隠居の身であるために直央とはこの日が初対面であったが、代々の堀侯とは同じ江戸城柳の間詰のため、懇意にしていたという。静山の在任期間から推測すると、懇意の堀侯とは5代直堯、6代直教、7代直方、8代直庸の4人になるが、参勤交代などもあるから多少のずれはあるかもしれない。松浦家は代々長命の家系で、静山は在任期間も長かった。
 柳の間は10万石未満の外様大名77家(時代により変化)が登城する際の詰め所となっていたが、参勤交代のつごうで2班に分かれていたから、いつも全員が詰めていたわけではない。ここには席次があり、松浦家は3位、堀家は23位であった。ただし直央が嘉永3(1850)年に無城の陣屋大名から城主格に栄進してから、席次も少し上がったと思われる。
 夜話では二人の初対面を江戸京橋弓町の観世大夫の宅としているが、直央の能好みは町史にも記されている通りで、梅若三郎に師事したとある。静山もまた能に対する造詣が深かった。
 手紙によると、静山は直央の心形刀流の師伊庭八郎治を同席させてくれるよう依頼している。静山は伝記によると「心影刀流(ママ)の伊庭八郎治」に随って蘊奥を究めたとあり、堀家訪問ののちに八郎治に面識を得、その剣風を慕って入門したものであろう。80歳になって心形刀流の奥義を究めようという執念は敬服に値する。
 心形刀流は心の錬磨を第1とし、技を作るのは第2とした。文政・天保のころは武士も遊惰に流れたが、伊庭道場の門弟たちは短衣長剣のバンカラ姿で江戸の市中を闊歩し、他流の人たちを羨ましがらせたという。
 静山ははじめ心形刀流の分流である甲州派の鷃斎に学んで印可を与えられたが、鷃斎は2代軍兵衛秀康からの分流の末で、岩間鷃斎利生(常稽子)といい、静山は彼から常静子の号を贈られている。
 一方、堀家では藩主をはじめ江戸勤番の家臣たちが宗家の伊庭道場で学んでいた。村松藩の上屋敷は下谷広小路(現千代田区外神田3丁目)にあり、下谷御徒士町の伊庭道場はここから蔵前通りを東にわずか360mのところにあった。
 村松藩では藩主の直堯のほか、管見では速水滝右衛門忠郷(常成子。天明4年=1784没)が軍兵衛秀矩から免許を与えられて藩の師役となり、代々子孫が師役を相続している。他にも永井此面長倚が文化9(1812)年に皆伝奥義を授けられ、天保10(1839)年に小島郡太左衛門正備が軍兵衛秀業から皆伝印可を授けられている。
 心形刀流は天和2(1682)年に伊庭是水軒秀明(~1713常吟子)が創流し、以来、2代軍兵衛秀康(常全子)―3代軍兵衛直保(常備子)―4代八郎治秀直(常勇子)―5代軍兵衛秀矩(常明子)―6代八郎治秀長(常球子)―7代軍兵衛秀淵(常成子)―8代軍兵衛秀業(常同子)―9代軍兵衛秀俊(常心子)―10代想太郎と続いた。心形刀流は門人の中から実力、人格ともに優れた者に宗家を相続させたため、養子相続が多い。5代軍兵衛秀矩は村松藩士林某の子であったが、4代目の養子となった。なお、秀矩の子は跡を継がずに分家し、秀矩の養子となって6代目を継いだのが八郎治秀長で、堀直央や松浦静山らに心形刀流を教えた。秀長は文政2(1819)年正月に村松藩の寄合でもあり、3人扶持を支給されていた。
 静山の書いている「又越後の村松侯堀氏も、其先代、心形刀の開祖、伊庭是水が[常吟子と号す]印可の門弟なりし」については不明であるが、『村松町史 上巻』には、村松藩が心形刀流を取り立てたのは直堯の代からとある(これも根拠不明)。
 佐藤久の「村松藩武芸小史」(『郷土村松34』)に、第5代藩主堀直堯(1715~1785)が4代目常勇子秀直(~1762)から与えられた印可状が掲載されている。

    印状之事
 夫心形刀の儀 公年月時日之修行、当流不残奉相伝者也、然至於其妙処更難伝也、於是切磋琢
 磨積久而後至於形刀円覚是教外別伝心鏡之徳也、故奉目録免置事可任於精也、仝非私用名利称
 人之本心爲門葉繁采之也 請文以血印之永代可爲贈伝刀之目録許也、且某村秀於群依清志深今
 印可奉許焉者也
 仍而如件
      先伊庭軍兵衛二男
      伊庭八郎治
      藤原常勇子
   宝暦六丙子年五月天晴日  秀 直花押
   藤原直堯公

 ただし当時の『郷土村松』は校正をしてないらしく、誤植だらけなので、100%は信用しないほうがよい(「繁采」は「繁栄」か。全体に意味不明)。
 松浦家は堀家同様武門の誉れが高く、静山は真田松代侯、大関黒羽侯とともに天下の三勇と称されている。武芸は射術をはじめ、槍、炮、居合、柔術、剣術の達人であり、傍ら鍛冶、淬刀、鋳鍔等に長じた。他にも儒学、和歌、連歌、有職、能、鞠、絵画のほか、川柳、琴、三味線の俗にも通じ、ことごとくに一見識を備えていたという。茶道のみは自ら深入りしなかったと謙遜しているが、松浦家は先祖の鎮真以来、鎮真流茶道の宗家であった。
 直央もまた身長6尺余の偉丈夫で武をたしなみ、兵学、剣術、槍術、馬術、水泳に通じ、中でも馬術は曲垣平九郎のように芝の愛宕山を馬で登り、「妙技神に入る」と称された。剣は心形刀流の剣術と大森流の居合を学んで自ら神伝流を創始した。神伝流は直央の子直張や年寄(家老)堀右衛門三郎直儔ら上級藩士たちが学んで村松に伝えられた。このうち直央に習った伊藤景敦の伝流を村上市の野本達也が伝承しており、昭和60(1985)年5月18日に村松町の日枝神社で同流の演武を披露している。
 直央は他にも書や絵に優れた作品を多く残しており、能や打毬、相撲を好んだという。また物事に積極的で果断な性格をしており、当時の武士階級が遊惰に流れている中、この2人は相照らすものがあったのだろう。ともに幕末の困難な時期を、誤らずに指導力を発揮している。
 直央は家臣たちから崇敬され、没後の翌文久2(1862)年に村松の本堂山に直央神社が創建されて祭神となった。村松藩主で神として祀られたのは直央1人だけである。「堀直央」といっても村松以外ではほとんど知られていないが、上野公園内の大仏山に建立された上野大仏を作ったのがこの直央であった。大仏は直央が天保14(1843)年に新鋳したものの、安政2(1855)年の大地震と、大正12(1923)年の関東大震災で首が落ち、現在は顔の部分だけが残っている。「これ以上落ちない」と縁起をかついで合格祈願に訪れる受験生が多いと、最近マスコミをにぎわしている。

  八木鼻の奇勝
 直央の逸話の2つ目は、『甲子夜話三篇』巻六十六[六](天保11年5月末の筆記)に掲載されている。

 [六]村松の堀氏[三万石。丹波守]に招かれ、宴席の話中、予、侯の封邑は越後なれば、定めし
 熊多からん、真写して賜はれと云たれば、否(いや)、さほどにも居ず。されども、時として
 は獲とること有るゆゑ、俄には描き難し。帰邑して獲ば、早くも摸て参らせん。又曰。鹿は先
 年は多く居たれど、今は絶て無し。又兎を問たれば、是は多く有り。されども他と異なるは、
 雪国なれど、夏分は雪無し。其時は兎皆かや毛(げ)にして、尋常の如し。雪むら消たるほど
 は、かや毛と白毛の斑なり。雪積れるに及べば、世に所有の白兎にして、有る者悉く純白な
 りと。予聞て拍掌せり。
    (下書せり兎変のこと、今に其異を念ゐしが、其後六郷侯の人に邂逅せしとき、其話を
    云けるに、彼侯領地の兎も如レ其也と。然れば雪寒の国は、越後にも限らずと覚ふ。六
    郷の封邑は、出羽国本莊なり)。

 町史には直央が絵を能くし、作品を神社や功績のあった家臣、領民に与えたとある。直央の絵は大名たちの間にも知られていたものらしい。
 直央の逸話の3つ目は、前の話のすぐ後に続いている。

 ○丹州又話せしは、西国の其領には大石有りやと。予曰。無し。丹州云ふ。拙邑には大石有て
 、長大三十町ばかり、其間に巌穴二つ有て、鷹これに巣くふ。又滝水有て其上を走るなど。予
 因て図を乞たれば、描きて与へんと答ふ。丹州画を善くせり。

 この大石は村松藩領下田村(現三条市のうち)八木鼻の奇勝のことであろう。現在も観光地になっており、インターネット「八木鼻」で検索すると豪快な画像を見ることができる。
 『郷土資料辞典―新潟県・観光と旅』(人文社)によると、八木鼻は「その中でも有名な奇勝で、激流が岩を噛んでほとばしる西岸に、一〇〇m以上もの断崖がそそり立ち、思わず声をあげるほどの偉観をみせている」とあり、さらに「この絶壁には、ハヤブサが巣をつくり、時おり敏しょうな飛翔ぶりを見せては人々を喜ばせている。ハヤブサはタカの一種で、本来は九月ごろに日本に渡来し、四月ごろまで滞在する渡り鳥であるが、ここ八木鼻では、一年中巣を営み、県の特別天然記念物として保護されている」とある。静山に見せたら、それこそ「拍掌」したことであろう。

(1994年5月村松町郷土史研究会発行の『郷土村松51』に発表したものに説明のため加筆しています)