村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
源氏の英雄渡辺綱が、京都九条の羅生門において鬼神の腕を切り落とした際、門前に証拠として建てたという禁札(金札)が、東京の港区三田3丁目の御田八幡神社の什宝として秘蔵されている。
謡曲『羅生門』によると、京の源頼光館における酒宴の席で、平井保昌と綱が羅生門に鬼神が住む住まぬで頗る論争となり、綱は頼光が懐中から取り出した印の金札を賜り、羅生門に行って「しるしの札を、取り出だし、壇上に立て置き、帰らんとする」と鬼神が現れて大立ち回りとなり、ついに鬼神の片腕を切り落とした。
歌舞伎『茨木』ではこれを「証の高札」、軍記物語『前太平記』では「印の札」とする。
御田八幡神社の什宝については、港区教育委員会の出した『三田と芝―その1―』(昭和50年刊)で紹介されている。
文字は読めないところもあり、
勅許
羅生門□
為退治□
天□二年
二月
摂津守源臣
御田八幡神社の禁札『三田と芝―その1―』より引用
と載せている。禁札は綱が頼光から賜ったものであるから、さしずめ頼光直筆ということになろうか。
同書にこの禁札の写真が載せてあるが、すでに風化のためか、木目も露わに文字もところどころ欠け、古色蒼然としている。そして「この高札は古くから当社に伝えられ、社伝によれば鬼退治で有名な渡辺綱に関係のあるものというが、他にそれを伝える資料を欠くため詳細は不明である。(中略)写真を掲げておいたので後考をまちたい」としている。
御田八幡神社は、和同2(709)年、あるいは寛仁年間(1017~1020)に牧岡(目黒区三田)に創建された式内社稗田神社と伝え、寛弘2(1005)年に窪三田(港区三田1丁目)に遷座したという。現在、讃岐会館と香川県職員住宅の敷地が、窪三田時代の御田八幡旧跡と伝えている。
慶長12(1607)年に至り、快尊法師が開山となって別当寺の八幡山宝蔵寺が開かれ、御田八幡の社務を司るようになった。八幡信仰からのちに神社も徳川将軍家にちなむ源氏の氏神として篤く信仰されることとなる。さらに窪三田から現在地の三田3丁目への移転は、江戸時代の正保年中(1644~8)とも、寛文2(1662)年の正遷宮ともいう。寛文元年には輪王寺守澄法親王から眺海山無量院の院号を賜り、徳川家の菩提寺である天台宗上野寛永寺の末寺となるにおよんで、徳川幕府との結びつきは強いものとなった。
この寛文のころには金平(きんぴら)浄瑠璃といわれる古浄瑠璃が江戸で流行した。源の頼光をはじめ、四天王の武蔵守渡辺の源五綱、坂田の金時、碓井の定光、占部の季武、および一人武者の平井保昌、さらに四天王の子供三田の源次郎竹綱、坂田の金平ら子四天王が荒唐無稽な大活躍をする。これが江戸っ子たちに大受けをした。
万治4(1661)年の浄瑠璃本にすでに『三田八幡ゆらい』があったというが、寛文元年刊の『綱金時最後』には三田の源二郎竹つなが登場している。寛文3年刊の『渡辺三田合戦』(第一書房『新群書類従九』所収)には、「とをるのおとゞより五代のそん、みたの左衛門もとつな」の一子「むさしの国のぢう人、わたなべの源五つな」が三田の庄に城を構え、甲斐、駿河両国の管領「高はし左京の大ぶきよしげ」の3万余騎の大軍と戦っている。
江戸地誌の中で三田と綱に関する最も古い記述は、寛文2年刊の浅井了意撰『江戸名所記』(続群書類従完成会)のようである。田町の八幡の項に、「此宮は渡辺の綱を神にいはいけり。綱を三田源五と名づけしは、この三田の里より出し故也といへり。此事おぼつかなし。綱は津の国の渡辺より出たるもの也。此故に渡辺を姓とせり。又ある人いはく、わたなべの綱は、三田にくだりて後に身まかりしを、神にいはいたりといへり。かやうにさだかならぬ事のためしなきにもあらず」と記している。
このころには三田を綱の旧跡とする説が広まっていたようだが、三田駿河守綱勝など綱を通し字とする三田一族の伝承を、箕田源氏の綱と混同したと説く松涛軒長秋編『江戸名所図絵』(人物往来社)、小山田与清著『松屋筆記』などもある。
妖怪ブームの盛んな文化文政期(1804~30)になると、無量院中興の別当権大僧都慧中のキャンペーンにより、同神社と綱の関係はさらに深まったようだ。
慧中自筆の文書に「眺海山無量院 別当俗姓嵯峨源氏 七十代後胤」と書いているところから、この人も渡辺氏か松浦氏の一門であろうが、出自については不明である。明治維新の神仏分離で別当は復飾して神主職となり、石田弾正を称した。ただし嵯峨源氏の慧中も由緒は少し怪しく、『御府内社寺備考
続編』(神谷政順編 1829文政12年完成 東京都神社庁)に次のように載せている。
寛平年中人皇五十二代嵯峨帝皇子左大臣融源姓を賜る、其子右大臣光其子宮内卿播磨守燈其
子左右衛門尉、固此所に住して綱を産、箕田源氏別当渡辺丹後守と云、其生産の地今会津侯邸
地也、綱此産神を信じ数多の朝敵を亡し変化魔道を平げ、合戦に臨んで勝ずといふ事なし、源
家の武名勇威を末代に輝す、依之俗に綱八幡と称し奉る、云々
この慧中が、御田八幡に禁札をもたらした人であった。
同『備考』によると、禁札を頼光が東寺(教王護国寺)の長者職(ナンバーワン)である京都東山安井宮の境内に奉納したという。御田八幡開帳の際に拝借して霊宝とし、諸人に拝見させていたが、文化5(1808)年に慧中が山門登山の時、西塔光円院に助銀をしたため、安井門主から同神社に譲り渡されたものという。その時の許状の写しとして、
当金毘羅社に伝来羅生門禁札、今般就願武州稗田八幡宮ニ奉納被為在者也、而執達如件、
文化六年己巳奉(季)三月
以榎木式部秀達贈之
とある。榎木(または榎本)は安井門跡の執達という。禁札は高さ一尺二寸、横幅二尺余の杉板とある。
この禁札のことは松浦静山の『甲子夜話』巻二十九にも記されている。それによると、先年、松浦家に禁札の真の写しといって図を贈った者があった。それを松屋(小山田)与静に問い合わせたところ、やがて松屋が録に掲載したという。録は『松屋筆記』のことらしいが、国会図書館の蔵本は欠巻が多く、禁札の記事は見当たらない。したがって『夜話』に転載された『筆記』のコメントを引用すると、「羅生門金札考―東寺什物に、渡辺綱が羅生門の金札とてあるよし、世に其の摸本をもてはやせり。されどいとうけがたきものにて、もとは『羅生門』の謡曲、又は『前太平記』などにより作り出したるものとみゆ」となる。
図の上に記文があったそうで、続けて「其の本の書入に云」として、
東寺之什物也。曰二渡辺綱之金札一杉板也。厚二寸計也。惣体雨朽、而文字少高、板之裏中有二
堅柱之跡一。上笠木少残有。且有二釘一本一。従二天延二(974)年一至二寛保三癸亥(1743)
年一迄、七百七十年成也。此年将軍吉宗公、因二公尋一従二東寺長者職安井門跡一、下二武城一。
臣渋谷山城守良信写レ之図也。可レ秘。此図誠文武之徳、而変化退治之勅験也。於レ今是以
有二転魔之神妙一也。可レ懼。敬白。
渋谷良信は『寛政重修諸家譜』によると、もとは紀州藩士だったが、享保6(1716)年に吉宗に従い入府して幕臣となり、のちに3000石を知行した。御側役などを勤め、宝暦3(1753)年に致仕している。
続けて禁札の文面を載せている。
勅誼
羅生門変化
為退治蒙此
札畢
天延二年
二月
摂津守源朝臣
禁札の写し『燕石雑志』「鬼神論」より引用
他にも『夜話』には禁札の図そのものも載せている。静山は幕府の儒者林述斎に師事したから、怪力乱神を語らず、禁札の話を「かたがた取用べくもあらぬえせごとなり」と一蹴している。
この禁札の模本のことは、曲亭馬琴著『燕石雑志』(1811文化8年刊 吉川弘文館『日本随筆大成』所収)にも採りあげられており、「鬼神論」の中に、「亦彼の頼光朝臣、綱に命じて羅城門に建てる所の榜示今なほ京師なる某の家蔵とすといふ。予今ごろこの檄(ふだ)を模したる墨本一幅を得たり。つらつらこれを閲するに疑ひなきにしもあらず。その檄半析(さかばさけ)てその文全からざれども、変化退治の告文なり。いと不審」とある。
同書は文化6(1809)年の上梓、静山の『夜話』執筆は文政4(1821)年から天保12(1841)年の間、『備考』は文政10(1827)年の書上だから、文化文政期にはこの禁札の話は世間に知られていたらしい。
上掲の図は『燕石雑志』から引用したものであるが、『夜話』に掲載の図も、『三田と芝』に載る写真も内容はほぼ同じである。写しのためわずかに字形が違っているほか、木がさらに風化しているだけで、ネタは同じであることがわかる。ただし『夜話』の図の下の方に「化」、「臣」らしい3文字の上端がわずかに見える。
真偽はともかく、御田八幡は綱にゆかりの神社として繁盛したらしく、江戸時代には人々に親しまれ、節分厄除が著名であった。
「金札」のことを『日本国語大辞典』(小学館)には次のように記している(その略)。
1金の札または金色の札。
2帝王の書状を敬っていう語、つまり勅書。
3江戸時代に諸藩が発行した金貨代用の紙幣。
4明治元年から二年に発行された太政官金札と民部省金札。
5閻魔の庁で善人がその名前を書いてもらい、極楽へ行けるという金製の札。
6能の「金札」や「羅生門」で用いる小道具。将棋の駒を大きくした形の薄板に、表裏ともに
金箔を押したもの。
7江戸上野に立てられた「両大師」と書いた金色の大師札。
8謡曲の演目「金札」。
また「禁札」はこれとは別で、禁制の条項を記した立て札とある。
渡辺綱が羅生門の前に建てたという金札は、禁札とも書かれるが、港区の御田八幡神社の什宝の文面からすれば勅書であるから、金札とするのが正しいだろう。
羅生門の金札について記した一番古い年代は、筆者の知るところでは『甲子夜話』の中の禁札の記文「寛保三(1743)年」であるが、記文そのものの考証はされていない。この年、将軍吉宗の尋ねにより、東寺長者職の安井門跡から金札を江戸に下したという。
『徳川実紀』(吉川弘文館)の中の「有徳院殿(吉宗)御実紀付録」に、「万機の御暇には。古き武器を広く御捜索あり。諸国寺社の什物まで。あまた召て御覧ぜられ。木様(器用)にうつされ、あるは紙にもうつしなどして御考の料に備へられぬ」とあり、また「市井の骨董等が売ひさぐものをも購り求められ。また諸家の藏物は御覧じたるうへ。盛意にかなはせ給ひしは。後みづからも模写したまひ。近臣または画工に命じて多くうつさせ給へり。諸国の寺社の縁起。絵巻ものゝ類も。(中略)今奥に藏られし模本の類。多くはこの時のものなりとぞ」とあって、将軍吉宗が全国から武具、古文書、絵などを江戸に運ばせて閲覧し、価値があると判断した物を絵師や書家などに模写させ、自も写して文庫に収めたという。これからして、『夜話』の記文は全く根も葉もない話ではないようである。
続いて斎藤月岺著『武江年表』(平凡社)の宝暦11(1761)年辛巳の条に、「○三田八幡宮開帳(綱が金札とて霊宝に出せり)」と載せている。
同じく明和5(1768)年戊子の条に、「○三月二十日より、三田八幡宮開帳(霊宝に金札かくれみのと号するもの出る)」とある。
『武江年表』そのものは後代の嘉永3(1850)年刊であり、記事の出典も不明であるが、内容はかなり信用できるといわれている。御田八幡神社が金札を安井門跡からから譲り受けたのは文化6(1809)年であるから、この2回の出展は貸し出しを受けたものだろう。
明和5年当時は金札と「かくれみの」がセット公開されたらしいが、いつの頃にか「かくれみの」の方は無くなっている。
隠れ蓑は高橋昌明著『酒呑童子の誕生』(中公新書)に解説されており、中世においてこれを被ることによって身を隠すことができるものという。これがサントリー美術館蔵の『酒伝童子絵巻』では不思議な帽子兜となっていて、頼光一行が大江山に向かう途中、神の化現の翁たちから酒とともに与えられている。この帽子兜を被っていたため、一行は正体を見破られなくてすんだ。羅生門で茨木童子の片腕を切った綱が、大江山でもう一度退治できたのも、この帽子兜のおかげである。
そののち、江戸時代中期の人山岡凌明(1712~80)著『類聚名物考』(成立年未詳)には、禁札宮として次のように記しているという(物集高見・同高量著『広文庫』より引用。名著普及会)。
[武徳安民記三]伏見騒動の所、干レ時神君敵寄来らば、此の上の台へのぼり、禁札宮の辺に丸
く屯し可二一戦一云々、○是れは俗の伝えに、源頼光の家来渡辺綱が、羅生門にて鬼にあひし
時に、禁札持ち行きしといふ事あり、すなはちその所に神を祭りて、禁札宮といふなるべし、
その札今は楫井宮の御什物となりて有りとて、先に見し事も有りしなり、根もなき事にて、
あまつさへ金札羅生門などいふにてもしるべし、
金札宮は現在も京都市伏見区鷹匠町にあり、天太玉命を祭神とする。社名の由来は、伏見に住む天太玉命の化身の白菊という翁のことを聞いた清和天皇が、金札に白菊明神と書いて奉納したからという(『京都大事典』淡交社)。従ってこの金札宮は、羅生門の金札とは関係ないようである。
『類聚名物考』に「先に見し事も有りしなり」とあるのは、宝暦11年と明和5年の、三田八幡宮開帳の時に出展された金札の記事に符号する。ただし「楫(梶)井宮の御什物」とあるのは安井宮の誤りか。
『名物考』のあとは、『御府内社寺備考』『燕石雑志』『松屋筆記』『甲子夜話』と、この金札の記事が続いている。明治以降にも『新撰東京名所図絵』(東陽堂)、東京市編『東京案内』(明治文献)、『芝区誌』(東京市芝区役所)、『三田と芝』(港区教育委員会)に紹介されているが、『新撰東京名所図会』では「又羅生門鬼退治の金札一面、渡辺綱が奉納寄進せしものとぞ、荒唐笑ふべし」と手厳しく否定する。
この金札の文面について、曲亭馬琴は、羅城門(らいせいもん)のことを「今の人は羅生門と書て、これをらせうもんと読はわろし。らせいもんと唱ふべきにや。小世継物語、宇治拾遺物語等に、柏原の御時らいせい門の高きをきらせらるゝとあり。らせうもんは僻読なるべし」と疑問を呈している。
後に松浦静山も、その著『甲子夜話』の中で、この読み方について「誤なり」と記し、「又蒙二此札一といへること、いかなる心にか」と批判し、さらに「勅諠の諠の字心得難し。こは詔の字の言篇をおもひまがへて、ふと書たるものなるべし。諠は音暄、与レ諼同。詐、忘、譁、囂などの義あれど、宣、詔の意は字書にたえてなし。是も文盲人が妄作せる証なり」としている。しかし、金札の文字は「金札も禁札とこそいふべけれ」とする。
また『夜話』には「勅諠」を「勅誼」とも書いている。誼ははかる、または物事のよしあしを論じるの意だから、「勅誼」は意味は通じるが、そのような用例があったのかどうかは辞書にもない。
金札に記されている年、つまり綱が羅生門の変化を退治したという天延2(974)年について一言つけ加えると、この年に源頼光は27歳で、官職には就いていたが、その身分は低かったと思われる。39歳でようやく春宮権大進となり、45歳で備前守を兼任(遙任)し、このころようやく従5位下くらいになっている。従って頼光は天延2年に勅宣を書ける地位にはなかった。金札に書かれているような摂津守になったのは、治安元(1021)年74歳になってからと考えられている(朧谷寿著『源頼光』吉川弘文館)。
しかし頼光の四天王伝説は古くから渡辺党の人たちに受け入れられていたようで、『渡辺総官家系図』の綱の傍注に、「源氏別当、内舎人五位、源頼光郎等、四天王其最也、天下第一之弓上手也」と書かれている。『渡辺総官家系図』は『続群書類従』所収の渡辺系図の原本で、内容はほとんど同じである。応永8(1401)年の書入れのある32代渡辺強までは同筆となっており、以後異筆で書き継がれている。つまり応永のころの渡辺党の人たちは、系図に書かれているように四天王伝説を信じていた。
さらに『尊卑分脈』系図では綱を「内舎人 源次別当、源次敦・子となし養育云々、但し仁明天皇四代孫、頼光朝臣郎等四天其一」としており、こちらのほうが『渡辺総官家系図』に書き直される以前の祖本の写しと考えられ、さらに古くから四天王伝説が信じられていたようだ。
ついでにいえば、渡辺綱が伝説のように、武蔵守や丹後守など、国守に任じられた事実はまったくない。
なお、御田八幡神社が金札を譲りうけたという安井宮は、はじめは京都市右京区太秦安井において、後白河天皇の皇女殷富門院亮子内親王の御所で、安井御所と呼ばれていたが、高倉宮以仁王の遺児道尊僧正が譲りうけて、鎌倉時代初期の建久4(1193)年に蓮華光院とした(一説に治承元年とも)。元禄8(1695)年に至って洛東観勝寺に併合し、東山区東大路通松原上ルに移転した。また『元亨釈書』によると、観勝寺の祖大円は源頼政の孫という。
禁札はこの寺の鎮守安井金毘羅宮に伝来のものと、『備考』に記している。鎮守の創建は治承元(1177)年とも、元禄8年ともいわれているが、崇徳天皇、大物主神、源頼政を祀っている。この安井金毘羅宮は絵馬の奉納で知られ、現在の金毘羅絵馬館はかつての絵馬堂を改造したものという。明治になってから観勝寺は廃絶し、現在は安井金毘羅宮のみが残っている。
それでは将軍吉宗をはじめ江戸の人々をマンマと騙したこの禁札は、一体誰が作ったのであろうか。後考をまっていたのでは真相は永遠にわからない。答えは大田南畝(蜀山人、1749~1823)の随筆『一話一言』(1779安永8年~1820文政3年の執筆)に書いてあった。巻十二の「池田氏筆記」の条に、
一安井宮御門跡ニ、昔綱羅城門ニ札ヲタテシト云、其札今ニアリ。
芙蓉云、此モノ天延年中綱カノ地ニ建シモノニ非ズ、後世ニ作リシモノナルベシ。
南畝云、先年江戸ニテ開帳セシ時ノモノ、ナラビニ石摺ニテ今ノコレルハ、河口田阿ノ作
ナリト物語ナリ、河口は河内ノ人ニテ桂園ト号ス、名ヲ惟寅ト云、画ヲ善ス、自ラ巨勢金
岡ノ流ト称セリ、近年八十余ニテ没ス。(『日本随筆大成別巻 一話一言2』吉川弘文館)
とあって、禁札は河内の人河口田阿の贋作という。田阿は浮世絵師北尾派の挿絵師なので、戯作者でもある南畝とは親しい間柄だったという。天明2(1782)年12月17日には蔦屋重三郎宅で催されたふぐ汁の会に、2人は黄表紙作家、挿絵師ら8名とともに招待されている(『大田南畝全集』月報4巻三「南畝耕読」。インターネット『大田南畝全集』さ行 http://www.ne.jp
/asahi/kato/yoshio/sa4.htmlより引用)。従って南畝の証言は100パーセント信じてよいだろう。「画を善す」というだけあって、杉板の朽ちかたがリアルである。
(前半は平成8年1月全国渡辺会発行の『氏談渡辺氏 第32号』、後半は同9年1月発行の『同
第35号』に発表したものを流用しています)