村松出身のジャーナリスト松井広吉

                             村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 松井広吉(ひろきち)は慶応2(1866)年11月に新潟県村松町(現五泉市村松)で生まれ、『万朝報』編集長や『松陽新報』主筆などを勤めた。柏軒と号したが、これを筆名で用いたため、世間的には松井柏軒で知られていた。父は正恒といい、祖父宥吉は明治5年に村松藩3万石の士族で、旧禄は5人扶持給米7石であった。
 まだ小学生だった明治12年(1879)1月から、村松町大手通りの堀岶陰(蒲生済助重修)の養正塾に学び、岶陰から大きな影響を受けた。
 堀岶陰は、幕末に下野勘平とともに村松藩の尊王攘夷派正義党の主導者であった。明治9年に養正塾を開いて多くの人材を育て、同13年に村松における自由民権運動の主唱者として、国会開設懇望協議会の委員となり、11月に開催された第2回国会期成同盟大会に出席している。
 養正塾では『日本外史』や『国史略』、『十八史略』、『歴史綱鑑補』などを教わり、漢詩の作法も課題とされた。また岶陰が読んでいたブルンチユリーの『政治学』や、成島柳北の『朝野新聞』などを貸し与えられて読んだ。そのためか政治に興味を持つようになり、自由民権などにも関心を持った。
 このころから『新潟新聞』に投書をし、掲載されると心中いささか得意であった。また政治運動にもたずさわり、先輩の尻馬にのって演説などもして、そのことを『越佐毎日新聞』に記事を書いて送ったりしているが、これが生涯の活動の原点となった。
 さらに通学のため上京したが、途中長岡に1泊した際、『越佐毎日新聞』の社主大橋佐平の長男新太郎がわざわざ宿を訪ねている。
 大橋佐平は長岡の人で、一介の木羽剥ぎ職人から『北越新聞』、『越佐毎日新聞』を創刊し、明治19年に上京して出版社博文館を創業した。同26年に外遊し、帰国後に内外通信社を設立した。維新前には勤王家として奔走し、長岡藩士に襲われてあやうく命拾いしたこともあるという。
 息子の大橋新太郎はのちに博文館社長となり、衆議院議員や貴族院議員を勤めた。
 広吉は東京で英学者林包明や経済学をフランス人マッペルに学んだ。そして通学のかたわら時々論文を書いて越佐毎日新聞社に送った。ほかにも村松士族の赤沢常容が数寄屋橋の下宿屋で越秀社を創立し、時事を評論する雑誌を発行したのでこれにも執筆した。
 広吉は上京してから中江兆民訳のルソー『民約論』や馬場辰猪の『天賦人権論』などを読んだが、なお若干の疑いを抱きつつ、むしろドイツ系の政治学説を好んだ。
 帰郷後の明治15年9月に、数え年17歳で村松校(のち村松尋常小学校)の教員となり、月俸は4円であったが11月に辞職した。

  越佐毎日新聞時代
 翌明治16年10月に大橋佐平に招かれ、長岡市裏一之町の越佐毎日新聞に入社した。ここで論説記者となり、毎日のように社説を書いていた。はじめは大橋家に寄宿していたが、のちに表町の横丁に下宿した。
 このころ大橋佐平著の『北越名士伝』(明治18年刊)を代筆し、高橋竹之介の校閲を受けた。広吉は維新後に長岡藩の家老となった三島億次郎や古老らに取材し、人物を赤裸々に描き出そうと、河井継之助が妻の髪をつかんで引き摺り廻したことや、遊郭で乱暴を働いたことなどを書いたが、高橋のため削られてしまった。
 この本を執筆した功績により、月給を1円上げられて8円となった。やがて編集を任されて助手もつくようになると、助手の1人小池盛吉郎に英語をグラマーまで教えた。このころには松島剛訳のスペンサー『進化論』、有賀長雄の『社会学』などを好んで耽読した。

  博文館時代
 広吉は明治20年5月に大橋新太郎と上京し、さきに本郷弓町に出ていた佐平が出版社博文館を創立するのを手伝い、雑誌発刊に参画した。雑誌『日本大家論集』があたって博文館は日本橋本石町に移転、新太郎と広吉は長岡にもどった。
 この帰郷の際、広吉は1人で六日町から長岡まで早船で魚野川から信濃川を下り、「群山萬壑送輕舟。欵乃聲々翠欲浮。水合信川々勢大。挂帆如箭下奔流」の詩を詠んだ。
 『日本大家論集』は他社の諸雑誌に載った論文を送ってもらって満載したもので、原稿料がいらないため、1冊15銭ていどの破格の値段で飛ぶように売れた。当時の雑誌は安くても30銭以上、あるいは4~50銭もしたので、一般庶民には高嶺の花であった。この廉価本の普及を、広吉は「一言で尽せば確かに文化の向上に大貢献をした。(中略)博文館が従来のレコードを破る大廉売主義を執った為、書籍も雑誌も汎く民衆に読まるゝに至ったから、其れから齎らす知識普及の効果は決して没すべきではない」(『四十五年記者生活』)と自負している。
 そののちアイデアマンの佐平が発刊した雑誌『日本之女学』、『日本之法律』、『日本之実業』が次々に成功したため、同21年3月に新太郎と広吉は越佐毎日新聞社を譲渡して上京し、佐平を助けることに専念した。
 『日本大家論集』は陸(くが)実、三宅雪嶺、志賀重昂、今外三郎の発行する雑誌『日本人』などで全部剽窃だと批判された。そのせいか、のちに内務省から著作権法にあたる版権条例が公布されるにおよび、この雑誌は廃刊となった。しかしそのころには博文館も十分に儲けて経済基盤も確立しており、さらに努力の結果、ついに日本一の大出版社にのし上がった。
 明治23年6月に、広吉は処女作『日本内閣論』を書いて博文館から出版した。杉浦重剛序で本文160頁、正価15銭であった。
 さらに2作目として、文科大学教授内藤耻叟校閲の『日本帝国史』を出版したが、正価30銭でよく売れた。ところが嵯峨正作に自著『日本史綱』の剽窃として告訴すると申し入れがあり、もとよりこれから多く引用していたので、絶版を条件に和解した。
 これに発奮した広吉は、毎日のように図書館に通って多くの参考書を調べ、文部省の史編順序を基礎に諸資料を消化したうえ、前より詳密なものを書き、明治24年10月に『新撰大日本帝国史 全』として博文館から出版した。このころ広吉は博文館を退社して中央新聞に移っている。ふたたび嵯峨の遺族から交渉があったが、今度は広吉も十分に勉強していて、嵯峨の『日本史綱』も『学芸史林』からの無断引用の多いことを知っていたので、これを盾に要求をはねのけた。しかしこの本は志賀重昂に『出版月評』でさかんに批判された。広吉はよい機会だからと同誌に寄稿したが、廃刊となって掲載は実現しなかった。
 のちに広吉が中央新聞社にいたころ、条約励行論で六派聨合に各新聞が参加したが、志賀が聨合会の幹事をしていたため、広吉のみ参加しなかった。徳富蘇峰が心配して広吉を訪ねて仲介したが、もとより志賀の批判は独断的で資料のあつかいが粗雑だと思い、反感はもっていなかったので和解し、その後はしばしば東京ホテルの会合に出席した。
 『新撰大日本帝国史 全』は602頁の日本史で、題詞を内藤耻叟、跋を北村紫山が書いている。この本はとにかくさかんに売れ、日清戦争後は戦争始末を付記したのでいよいよ重宝がられて、のちのちこの本を学生時代に読んだという「堂々たる」人が諸方にいて広吉を恐縮させた。
 『日本帝国史』と同じころ『和漢名家詩集』を出版した。これは村松士族で早稲田を出た詩の好きな片岡孤筇(こきょう)と上野の図書館に日参し、自分の蔵書をもあさって、最も好きな漢詩を集めて編集したもので、格別苦労はしなかったが、当時も詩人の間でかなり評判だったという。
 旧村松藩主の奥田直弘は才気英発で、一時は郵船株の買占めなどに成功して鼻息の荒い時があった。それで片岡に託して広吉に選挙資金を2万円まで出すから国会議員になるよう勧めた。かわりに政界その他の情報を速報しろという条件のため、広吉は記者を天職とする身として情報が投機に利用されるのを嫌い、また言論の自由を持つ身として、議員などになるのは自ら屈するものだという持論から断った。
 この博文館時代には雑誌『日本之政治』と『日本之文華』を担当しており、そのため神田末広町の幸田露伴のところにも出入りした。床に将棋版が置いてあるので戦いを挑むと、君もやるかとニコニコしながら対局した。ところが何回やっても歯がたたない。のちに露伴は2段の実力があると聞いてがっかりした。
 このころ博文館の後輩に小説家の広津柳浪がいる。当時広津は生活費にも困っていたので広吉が金を貸してやったりした。広津は尾崎紅葉の主宰する硯友社同人の小説家となり、下層社会の悲惨事を描写し、書いたものは深刻小説とか悲惨小説と呼ばれた。小説家広津和郎の父である。広津は昭和2年になって、『時事新報』に博文館入社当時のことを書いて連載したが、これには広吉のことも詳しく書いてあるという。
 ある年の暮に、広津が団子坂の家にきて越年しろと勧めるので、広吉は小鴨2羽を手みやげに訪ねていった。ところが大晦日というのにご馳走は昆布鱈だけ、しかも井戸端で顔を洗うのに洗面器がなく、丼で洗わされてびっくりし、そうそうに駿河台の下宿へ逃げ帰った。
 この広津の紹介で、広吉は牛込横寺町の尾崎紅葉宅にも出入りした。ここには硯友社の同人である小説家の川上眉山、巌谷小波、石橋思案などが集まり、江戸弁でしゃれ通していた。のちに紅葉が佐渡に遊びにいく際、広吉から越後弁を聞いて克明にメモしていたという。
 長岡出身の小金井良精博士の夫人喜美子は森鴎外の妹で、『日本之文華』に寄稿していた。その文中に「くちなは」というのがあり、広吉は知らないので千駄木の鴎外邸まで聞きにいき、主人に笑われたという。
 ほかにも博文館ではのちに東京市の助役になった宮川鉄次郎、『経世新報』を自分で発行した川崎紫山や、鳥取、滋賀、福井などの県知事を歴任した川島純幹と親しく、漢詩人として一家をなした服部轍は飲み仲間ですこぶる気があったという。
 この博文館時代に、広吉は品川弥二郎に親しく接するようになった。はじめ『日本之実業』の取材で代々木の品川邸を訪ねた。品川は田舎出の少年記者に少しも隔てなく熱をこめて話すので、広吉はなんとも良い気持ちに浸った。話が勤王のことにおよぶと、品川は威儀を正していろいろ話をした。広吉は社長の大橋佐平も勤王家であったというと、品川は一度会いたいといい、佐平とも交際するようになった。
 品川弥二郎は長州藩の出身で松下村塾に学び、尊王攘夷運動に挺身して、維新後はイギリスやドイツに留学した。明治24年には第1次松方正義内閣の内務大臣を勤め、のちに枢密顧問官となった。さらに国民協会を結成して自由民権派に対抗した藩閥主義者であった。
 のちに中央新聞社に移ってからも広吉は品川のところに出入りし、伊藤内閣引退勧告問題で広吉が論じ立てていると、品川は青筋をたてて「小僧ッ、何を知って議論に及ぶか」と一喝したが、数日後に広吉のいった通りになると、「松井ッ、君の論が宜(よ)かったなあ」と哄笑した。のちに品川が広吉を信用したのは、愚痴と金のことをいった例がないと、人伝てに聞かされた。明治33年2月26日に品川が亡くなった時、広吉は通夜にかけつけ、入棺式にも立ちあった。
 明治22年に広吉は念願のアメリカ遊学を果たした。出発に際し大橋新太郎が送別会を開いてくれ、旅行用具いっさいをプレゼントし、横浜まで見送りにきて現金入りの財布まで贈っている。
また三井物産社長の益田孝(号鈍翁)も自宅で送別会を催し、国民協会の大岡育造や水田南陽、徳富蘇峰、三遊亭円遊らを招待してくれた。
 広吉は遊学中に主として新聞について研究したが、社会的にも国際的にも、あらゆる誤解をとくのを使命とすべきと考え、それが真の平和をもたらすと確信して、以来、新聞の使命はここにあると定義した。
 また、広吉は大橋佐平と親交のある勝海舟の赤坂氷川町の屋敷にもしばしば出入りした。勝は西郷隆盛をほめちぎって、その絶筆の詩に勝自らが解説を加えた拓本や、自分の編集した亡友帖などをくれ、さかんに揮毫もしてくれた。広吉が時事問題でなにか議論を吹きかけると、「それァお前が政府を取ってから実行して見りァ宜い」とばかり、鼻先であしらわれて閉口した。

  中央新聞時代
 明治23年の秋から、広吉は広津柳浪の紹介で大岡育造が経営する中央新聞に入社し、同33年まで10年間勤務した。それで博文館と半日ずつ勤めることになり、月給は双方から半分づつもらうこととし、銀座4丁目の新聞社へも通うようになった。結局博文館のほうは止めてしまったが、新聞社の給料は半分のままだった。それでも帝都の新聞界の桧舞台に立つことになり満足していた。
 そのころ大岡は山口県選出の衆議院議員をしており、記者としてニュースの捉えかたや扱いかた、批評に関して天性のものがあったが、残念ながら文章が書けない。それで広吉に自分の考えを話して記事にしてもらった。そのため、広吉の政治思想は大岡から大きな影響を受けた。はじめ大岡は西郷従道や品川弥二郎の国民協会に属し、のちに伊藤博文について政友会の組織立ち上げにあずかり、以来、同会の長老として衆議院議長や文部大臣に就任した。しかし、広吉のほうは1度も政党に籍を置いたことはなく、思想的には一貫しているものの、堀岶陰仕込みのブルンチュリーの学説を守って、いつも第三者の立場を厳守したと自負している。
 明治24~5年ころ、広吉は西郷従道が国民協会の会頭として東北を遊説するのに途中から加わった。酒田での演説会で当時26~7歳の広吉も酒田築港論をぶったものの、聴衆にやじり倒されてしまった。同行した社長の大岡育造に、新聞の名誉にも関わるから、以後「貴公の演説を封じる」といわれ、後年許可が出るまで演説はしなかった。最上川を舟で下る時、広吉は雨具を持たないので油紙を買って洋服の上にかぶっていた。西郷はつくづく広吉を見て、「アナタは不自由はせぬが銭を持てぬ」と批評したので、大岡がハタと手を拍って、その評まことに的中ですなというと、一行はどっと笑った。続けて西郷は一同に向かい、「自分の兄(西郷隆盛)も丁度此の様な調子であった」と述懐したという。
 明治27年8月1日に日清戦争がはじまり、翌28年に入ると、広吉は小松宮大総督府付きの従軍記者として中国に渡ることになり、2月下旬に送別会が行われた。
 まず広島に行って宿舎に待機し、4月13日になってようやく佐倉丸に乗船して旅順に行き、ここを中心に記事を書いていたが、検閲が厳しく、全文を抹殺されることもあった。
4月17日そうそうに日清講和条約が調印されたが、ロシア、ドイツ、フランス3国がこれに干渉してきたため緊張が続き、旅順にいた第1軍司令官山県有朋が尾張丸で帰国すると聞いて、広吉はこれに便乗した。船中、広吉は山県の部屋に勝手に押しかけてはじめて面会し、ドイツ建国の話などをした。
 広吉は明治25から6年にかけて、『日本百傑伝 第1~5編』5冊を博文館から出版した。同誌の6~8編は川崎三郎の著となっている。続いて同27年には『戦国時代』、『英清鴉片戦史』、『英仏聨合征清戦史』の3冊を同社から出版した。さらに翌28年に『米国南北戦争史』、『露土戦史』、『伊太利独立戦史』、『クリミヤ戦史』を博文館から精力的に出している。
 後年、自伝『四十五年記者生活』を出版したが、そのうち幸徳秋水に関する記事は、『幸徳秋水全集 別巻1』(明治文献)にそのまま収録されている。
 それによると、広吉は日清戦争に従軍するため、明治28年4月に広島の宿舎に逗留中、交際のあった小泉策太郎が訪ねてきて、落ちぶれて広島の「ケチな新聞」(『広島新聞』)で働いている当時26歳の秋水を、ふたたび中央で活躍できるよう頼まれた。そこで秋水に面談したところ、温和な容貌で「しねくね」しているので、テキパキしたことを好む大岡とは合わないと思ったが、ともかく推薦状を書いてやった。6月初めに帰社してみると、意外にも秋水は編集局に採用されて翻訳の仕事をしていた。やがて2人は親しくなり、共に酒を飲んだり遊里に行ったりし、秋水の結婚式にも参列している。
 中央新聞社にいたころ、ある夜本郷西片町の広吉宅に泊まりこんだ秋水は、今はもはや自由民権の時代ではない、必ず新旗幟を立てなければならないとして、社会主義を研究するといいだした。そのあと石川半山や村松柳江も加わって、ともかく社会主義を研究してみようということになったが、広吉はあくまでも反対してこれには加担しなかった。その後、主義は「氷炭相容れ」なかったものの、秋水との友情は終生絶えることがなかった。
 また中央新聞在社中は、博文館時代からの友人広津柳浪や、のちに大橋新太郎の妹婿になる渡辺音羽、川上眉山、石橋思案、江見水蔭とも仲がよかった。ほかにも同僚に田山花袋、石川半山、小林天竜、松居松葉、岡本綺堂などがいた。
 中央新聞時代の広吉はずいぶん筆が早くなっており、記者生活に入ったころは1論文を1日かけて書いていたが、ついには1日4論文を書くまでに上達した。そのためやはり速筆の小林天竜と2人で衆議院の傍聴を担当したこともあった。
 中央新聞社にいる時に結婚し、本郷区駒込浅嘉町99番地に住んでいた。広吉の勤務ぶりはずいぶんわがままで、社長の大岡を悩ませた。当時は痔のためゴムの円座に坐ったり、立ったままテーブルによりかかって原稿を書いたりした。とかく休みがちで、風邪をひいたといってドテラを着て出社したこともあった。
 広吉が伊藤博文と親しくなったのは博文館時代で、『四十五年記者生活』では世界的な政治家と持ち上げている。条約励行論の起ったころ、伊藤は新聞が自分のいったことのうち都合のよいところだけ採り上げて攻撃するといって、広吉ほか数人の記者しか面会しない、というまで信用するようになった。
 明治33年のことと思われるが、伊藤は自分でも政党を持つ必要を感じ、3月下旬にその準備のため信州に旅行し、大岡育造、大橋音羽、広吉ほか11名ほどが随行した。
 旅先のホテルでは伊藤のため新しい特別風呂まで作ってまっていた。広吉は自分ら陣笠だけ古い風呂に入れるのは差別だと憤慨し、勝手にそこへ入りこんで湯番の老人に背中まで流させ、冗談口をきいていると、誰かが浴室の戸を開け、また急にバタリと閉めた。広吉はメガネを外していたので誰か見えなかったが、あとで伊藤だとわかった。
 ところがこれが大橋音羽のいたずらで『報知新聞』に報道され、伊藤がおおいに怒ったなどと尾ひれがついた。あとで伊藤と面会した時この話をすると、伊藤は怒ったのでなく、他人が入浴しているのに空いているといって入湯を促したので、宿の者に注意したのだという。
 これは世間話として広まったと見え、後年、広吉の息子が徳富蘇峰にあった時、君の父は今も伊藤公の湯へ侵入した元気はあるかね、と面白がられた。
 のちに広吉が『万朝報』で、伊藤が大磯の別宅へ芸妓などを呼び入れるのを批判すると、面会の時に、あそこは別荘以下だから誰を引き入れてもよかろう、ずいぶん思いきったことを書いたものだな、と苦笑された。
 明治32年に広吉はふたたびアメリカに遊学した。ここでワシントンの日本公使館に伊藤博文の紹介状を持ち、小村寿太郎公使を訪ねて面識を得た。1日、小村と同館顧問スチーブンソンの案内で国会議事堂を見学した。別の日には同館書記官の船越光之丞男爵の案内で、ホワイトハウスやワシントン記念碑を見学した。船越がドイツ公使館に転任する時に送別の晩餐会が催され、ここでのちに日露戦争で勇名をはせる武官秋山真之大尉と知り合い、帰国の際には駅まで見送ってもらった。
 明治33年の夏に中国で拳匪の乱が起き、広吉は社命で北京に行くことになった。ところが国交が断絶して船がなくなり、広島連隊の用船に記者団とともに便乗したが、大陸ではすでに戦闘がはじまり、上陸した太沽には中国兵の死体がころがっていた。途中から汽車に乗る予定だったがこれも停まっており、やむなく広島連隊について徒歩で天津に向かった。しかし渇きと疲労に苦しめられ落伍する兵が続出した。天津の対岸から小舟で渡ったが、我慢できず舟べりから真黒なドロドロした水をすくって飲み、しばらく下痢に悩まされた。またこの岸辺では、野犬が口を血に染めて中国兵の死骸をむさぼる凄惨な光景も目撃した。
 帰社してみると、広吉名義の従軍記が発表されていた。聞くと、広吉が出発したきり音沙汰ないため、馬関や門司の新聞に載っている御用船員の話を総合してでっち上げたという。これは流言飛語に尾ひれをつけたひどいもので、広吉はすっかりまいってしまった。

  万朝報時代
 それで健康回復と夏休みをかねて家で腐っていると、2年前に朝報社に移っていた幸徳秋水の推薦があり、明治33年8月に黒岩涙香の朝報社に入社し、約7年間在社した。
 広吉の入社について、「黒岩涙香外伝」(鈴木珠述・鈴木勉記。『別冊幻影城1』)には、「明治三十二年には万朝報にとって大きな飛躍の年であった。涙香は、まず、そのころ青年思想家として有名であった内村鑑三、幸徳秋水、円城寺天山、松井柏軒、斯波貞吉の諸氏を招聘して社説を担当させ、また、当時広く青年の間に勃興しはじめた文学熱に対応して懸賞読者文芸の募集を行って、特色をつけることにつとめ〈都〉、〈やまと〉、〈東京朝日〉、〈中央〉新聞などの競争紙に対し、読者の獲得に、いろいろの奇策を弄して狂奔していた」と書かれている。
 『万朝報』は鋭い社会記事や論説を載せる一方、黒岩の探偵小説やスキャンダラスな三面記事を載せ、公称15万部で東京一の発行部数を誇っていた。当時、朝報社は京橋三十間堀2丁目1番地の借家にあったが、社の発展にともない明治34年7月から京橋区弓町21番地に移転した。このころの朝報社は編集者約50名、事務員をあわせて90余名で、時期は不明だが広吉はここで編集長を勤めた。
 朝報社には社会主義者の堺利彦や川上清、石川三四郎、研究者の斯波貞吉などがいて、社会主義に反対なのは広吉と山県五十雄であった。秋水は堺としじゅう同一行動をとったが、広吉は堺とも私的な交わりが深かった。またここには内村鑑三が前年1月から英文欄の主筆をしており、明治31年5月に退社、のち同33年9月に客員として復帰した。
 秋水は明治36年10月10日に堺や内村と3人で非戦論を唱え、朝報社が日露戦争の開戦を支持したことに反対して退社、堺とともに社会主義の『週刊平民新聞』を数寄屋橋で発行した。広吉はしばしばここを訪れている。青年層に人気のあった内村が去ると『万朝報』の売り上げは落ちはじめ、最盛期は終わりをつげた。
 広吉は朝報社時代に雑誌『中央公論』の編集を依頼されたが断った。しかしその後、巻頭論文だけでも書いてくれというので引き受け、二足の草鞋を履くことになった。
 日露戦争では、小村寿太郎外相や寺内正毅陸相から内密に外交や軍事上の機密を聞き、日本軍の実力の程度も知っていたので、世論に逆らい『中央公論』に講和論を発表した。広吉はここで日本がこれ以上戦争を続けても連戦連勝とはいかず、アメリカのルーズベルト大統領が講和の斡旋をしてくれるなら、機会を逸すべきでないと主張した。また広吉は弟をはじめ従弟など一族6人が出征し、そのうち3人が負傷していたので、人道上これ以上戦争を続けるのは罪悪である、と断じた。当時全国の新聞や雑誌で講和論を唱えたのは、『中央公論』と高橋光威の『大阪新報』だけという。広吉はのちに『四十五年記者生活』の中で、自らの記者生活中に最も自由にいいたいことを書けたのが、この『中央公論』誌であったと述べている。
 この時、広吉は小林や寺内に必ず秘密は守るからすべてを打ち明けるよう依頼し、表面的な取材では得られない事態の本質を理解でき、道を誤ることがなかった。これは日ごろ『ロンドンタイムズ』の論文が英国内はもちろん、列国にまで重く見られるのは、たんに主筆の見識だけでなく、主筆自ら関係の諸大臣や各党の指導者、各国の大使や公使、各階級の主な人たちに克明に取材し、その中の最も正当な説をもとに、自分の判断を加えた結果であるとしてこれを見習った。
 広吉が『中央公論』の仕事をはじめたころは発行部数が4000部に満たなかったが、じょじょに増えて3万部となるにおよんで、社長の麻田駒之助は雑誌成金といわれるようになった。広吉が同社の仕事をやめたのは大正時代になってからである。
 山路愛山は『独立評論』の中で、『万朝報』の「松井柏軒は編輯長なり。彼れは好人物なり。物に頓着せざるものなり。彼れは他人に自己の縄張を侵されても敢て頓着せざる御心好(おこころよし)なり。小林(慶次郎)が嘗て編輯長たりしや彼れは名に於ても実に於ても編輯長にして頗る権力を揮ひ、自ら外勤部を指揮して縦横自在に切って廻はしたれども柏軒に至っては此の如きこと能はず彼れは唯原稿の行数を数へ、字句の配置を按排する名のみの編輯長たるに止まるのみ。彼れは小林の為めに数ば(しばしば)其職権内に干渉せらるれども未だ嘗て之に抗したることなきなり。松居松葉は三面の編輯長なり。彼れは柏軒の如き好々先生に非ず。彼れは好んで自ら用ふるの傾向あり」と書かれている(二巻一号。明治三十七年一月)。
 政治好きの広吉が社内の権力闘争に無関心であったとして、意外な一面を見せている。しかしこの広吉を無能なように書いた山路の説は、広吉のそれまでの経歴からして不自然であろう。
 『文章世界』では、「日露戦争前に於ける同社の編輯局が内村鑑三、円城寺天山、幸徳秋水、小林天竜、松井柏軒、堺枯川(利彦)、天城安政、伊藤銀月氏など、何れも一代の俊秀を網羅して、言論界に覇を称した」(明治四十四年一月号)と書かれており、また別の号に、「論説の柏軒、天山、琴湖、中で天山の統計的経済論は今でも評判、柏軒は達筆で有名、夫れに文章が若々しくて分り易い」(明治三十九年一月号)と評されている。
 ほかにも千葉亀雄の『新聞十六講』に、「いやさういへば、かつては山陰道落ちをして、資本家新聞の記者でありながら、資本家痛撃をやって居た松井柏軒氏も、〝万朝〟から〝中央公論〟へ、その人を見るやうな応揚で、それでいてぴたりと対象を掴む論文も、その当時では長く呼び物であった」(『千葉亀雄著作集3 評論3』ゆまに書房)とあって、広吉がけして原稿の行数を数えるだけの人物でないことを物語っている。
 明治37年2月に日露戦争がはじまると、編集の仕事も多忙をきわめるようになった。広吉は芝の三田から通勤するのが不便となり、新聞社で社宅として借りてくれた銀座2丁目東仲通りにある煉瓦造りの家に引越した。
 広吉が再度の米国遊学から帰ったころ、秋水は千駄木に住んでいた。広吉が訪ねるとマルクスの英訳本『資本論』があった。広吉はのちにこれを借りて読んでいるが、マンチェスター紡績業の発達や、統計、工業機械の発明が失業者を生まず、生産を増大するとともに、ますます労働力を必要とする説などに興味を抱いた。

  やまと新聞時代
 明治40年に、広吉は政治家の松下軍治が社長を勤める山県有朋系のやまと新聞社に移った。
 ここで大正3(1914)年1月23日に海軍の収賄が発覚したシーメンス事件で、山本権兵衛内閣攻撃の運動を、黒岩涙香や松下軍治らとともに展開した。
 野党が内閣弾劾案を国会に提出した2月10日に、日比谷公園で国民大会が開かれ、その流れが政府の御用新聞となっていた中央新聞社を襲おうとして警官隊と衝突し、現場にいた東京日々新聞社の記者が警察官に切られ負傷した。同社が警視庁に抗議したが取りあわない。間もなく原敬内相の私邸を訪ねた東京朝日新聞社の記者も原邸の壮士に殴られて負傷した。
 そこで記者たちは新聞記者倶楽部に集まり、黒岩涙香が中心となって倒閣運動をはじめた。16日に黒岩や広吉が代表として衆議院の原敬を訪ね、記者会決議文を提出して謝罪を求めたが拒否された。各社はこれを書きたて、23日には全国記者大会を開いて原敬の辞任要求を決議し、大阪、福島、福岡でも記者大会を開いて気勢をあげた。
 さらに黒岩、松下、広吉ら代表が内大臣伏見宮邸に赴いて請願書を提出し、これが大正天皇に上覧されることになった。これらの決議文や請願書はほとんど広吉が書いたという。
 これが世間に知れると世論も盛り上がり、貴族院の内閣に対する態度を硬化させた。3月14日の貴族院の予算決議で海軍軍事費の全額削除が可決され、予算不成立につき山本内閣の命運は尽きた。
 広吉はのちに、「余の四十余年の記者生活を回顧して、政治的に新聞紙の機能を発揮すると共に、実際運動中最も組織的であり、大規模であり、又熾烈であって、而して著しく功績を奏したのは、山本内閣の倒壊であらう」と自負している。
 この記者倶楽部は桂太郎内閣の逓信大臣後藤新平が広吉に金を渡して作らせたもので、多分に政治的なものであった。記者倶楽部が桂の政敵山本権兵衛を攻撃したのも、このいきさつを無視することができない。そのころ三田に住んでいた広吉は、三田の桂邸によく出入りしていた。ある日、桂から「何等獲る所もないのに尽力するのを感謝するとて挨拶された」。
 やまと新聞時代に、代々木に移った幸徳秋水の家が刑事に見張られるようになると、ここを訪れた広吉も一緒に尾行されることもあったが、気にもとめなかった。秋水は再婚して、夫人を名古屋の夫人の姉夫婦にあずけ、この家では大逆事件の管野スガと同棲していた。
 ある雨の日に広吉は秋水の家を訪ね、例のように声高な談論のついでに、管野との男女関係について切り出すと、秋水は手をふって黙らせた。聞けば管野は別室で読書をしているという。やがて昼になり管野が食事を運んできた。秋水はひそかに管野は結核で捨てるに忍びないから、なんとか保護しなければならぬという。また老母が生きている間は決して無分別はしないから安心してくれ、としみじみ語り、しかし今の地位では同志に推されて心ないこともしなければならず、苦慮していると打ち明けた。
 秋水の才能と人柄を愛した広吉は、なんとか秋水を救うため、郷里の土佐に隠退させるよう各方面に働きかけ、警視総監の亀井英三郎とも相談したりしている。
 亀井は広吉が明治44年に太平洋通信で桂太郎内閣の辞職をスクープした際、桂が機密漏洩を怒って亀井に厳重な調査を命じたが、尽力して助けてくれたことがあった。平田東助が内務大臣をしていたころ、記者団を官邸で饗応したことがあった。そのあと亀井は洋食では殺風景だろうと、広吉と福田和五郎の2人を誘って烏森の「浜の家」で2次会をした。その時亀井は下から広吉が妙な連中とつきあっていると報告がきたと忠告したが、広吉はもとよりやましいことがないので気にもとめなかった。
 ほかにも衆議院議員の細野次郎や小泉策太郎も秋水の救済に動いたが、結局、明治43年6月に彼は捕らえられて市ヶ谷監獄に収監された。入獄後も、広吉は旧友へのせめてもの誼みとして、1か月近く毎日弁当を差し入れている。翌44年1月24日に秋水は刑死し、そのあと彼の母多治子が、このような子をもって皇室にも世間にも申しわけがないといって、郷里の土佐で自刃した。広吉は『四十五年記者生活』の中で、「賦性大の親孝行たる秋水は、斯の事あった為、恐らく死しても冥し能はぬであらう。余は母氏の志を悲しむと同時に、又秋水の為にも数掬の涙を禁じ能はぬ」と追悼している。
 広吉が桂太郎と知りあったのはかなり古く、明治22年に初遊学した時、当時陸軍大臣の桂が遊学上のアドバイスを与え、その親切に広吉は深く感銘していた。
 スクープの時は別に叱言もいわれず、一言「酷いことを遣ったな」といわれただけだった。ある日広吉は桂に向かい、小生新聞記者となって30年近くなるが、もし官吏になっていれば、相当の年金もついて老後も安泰に過ごせるものを、あるのは借金ばかり、せめて30年の記念に小さな書斎でも作りたい、その時には奉加帳を回すから、閣下に1番に記帳を願いたいというと、桂は腹をかかえて笑い、いや、面白い計画だ、1番に筆をとろうと快諾した。30年目になった時、桂は大病で鎌倉に療養しており、奉加帳は計画だおれとなった。
 大正2年10月10日に桂が没し、広吉も病をおして葬儀に参列したが、国葬でなかったので大いに憤慨した。広吉は桂の日英同盟、日露戦争、日韓併合における功績を高く評価し、明治から大正にかけての政界の第一人者で、伊藤博文や山県有朋より上であるとまで書いている。
 内村鑑三は大正8年5月28日の日記に、「夜、東京駅楼上において、『やまと新聞』の松井柏軒氏、『万朝報』の斯波貞吉氏、京城『ソール・プレス』の山県五十雄氏、ほかに神戸の好本督氏と共に会食した。最も楽しき会合であった。青年会事件、朝鮮事件、米価騰貴問題等について語り、最後に、来世存在問題について談じ、次回の会合を約して別れた。宗教家の陰険手段に気持ちを悪しくしつつありしこの際、旧(ふる)き新聞記者仲間との会合はことに楽しく感じた」(『内村鑑三日記書簡全集 1』教文館)と率直な気持ちを書きとめている。
 この新聞記者晩餐会は清新会といい、山県五十雄らが明治28年にはじめたもので、毎月1回槍屋町の清新軒で晩餐をともにし、24年も続いていた。前年9月26日の内村の日記には、「これ、われらが過去20余年間、継続し来たりし、ほとんど毎月の例会である。余がこの世について教えらるるは、主としてこの会合においてである。ゆえに、余にとりては最も有益なる会合である。余はめったに、この会合に欠席したることはない」(前掲書)と述べている。
 清新会は黒岩涙香が退会し、幸徳秋水と堺利彦が社会主義運動に走って会を抜けると、内村鑑三、山県五十雄、斯波貞吉、松井広吉の4人だけになったが、のちには東京駅内の精養軒でも会合した。
 明治39年8月に新潟県柏崎において、内村鑑三の柏崎夏期懇話会が開かれた。ここの7日朝の講演で、内村は「松井柏軒に、吾々は今度越後をとりに来たのである、福音を以て来たのである。吾々は今に何をやるかも知れる。それはよい武器(『新約聖書』を指す)を以て居るからである」(鈴木範久著『内村鑑三談話』。岩波書店)といって、広吉のことを持ち出している。内村は広吉が越後人であることを知っていて、柏崎に行く前に彼とそのような話をしたのであろう。広吉はすでに有名人であった。

  大連新聞時代
 大正9年の春に広吉は立川卓堂の招きと小泉策太郎の勧めにより、満州の大連に渡って、立川や小沢太兵衛とともに『大連新聞』の創刊にたずさわった。
 大正9年7月8日の内村の日記では、「『やまと新聞』の松井柏軒君が大連に転じて以来、われらはただの二人と成ったのである」といって、斯波貞吉と2人だけの会食をしている。それでも「この夜、相変わらずまた楽しき会合であった」(前掲書)と結んでいる。
 大連には立川卓堂をはじめ漢詩人が多く広吉を喜ばせた。村松士族の片岡孤筇もここにいて優れた詩を作っていたが、大正15年1月に同地で客死した。
 広吉は大正10年に同社を辞職して2月に帰国したから、大連にはほぼ1年しかいなかった。
 大連から戻ってもすぐには就職せず、半年ほど執筆活動に専心した。この年10月に香川悦次と共編で『大浦兼武伝』を博文館から出版している。この本は大浦兼武の没後に記念事業として409頁の伝記が出版されたもので、香川と広吉が編集を委嘱されている。香川がもっぱら取材し、広吉が主として執筆した。
 広吉が大浦と知りあったのは、やまと新聞社移籍の際に大浦の周旋があったからで、以後しばしば大浦邸に出入りした。屋敷の1階の応接室はいつも来客がいっぱいで、急いでも1時間や2時間は待たされるが、広吉は特別待遇で2階の1室で会見した。帰りは大浦自身が必ず玄関まで見送り、広吉はのちに「余の識る貴紳中で、始終一貫、士に対する礼を欠かなんだのは、実に子爵の特色であった」と書いてその厚遇にむくいている。
 大浦は鹿児島県の出身で邏卒小頭からたたき上げ、島根、山口、熊本の各県知事、警視総監、逓信、農商務、内務の各大臣を歴任し、大正7年10月1日に69歳で没した。清廉潔白な政治家で、大臣というのに局長クラスの手狭な家に住み、その人物を慕って徳富蘇峰などもよく出入りしていた。大浦の没後に偲ぶ会が結成され、年1回命日に麻布区の大浦邸に集まって飲食を共にした。会員は大隈重信をはじめ、河野広中、浜口雄幸、徳富蘇峰、若槻礼次郎、黒岩周六(涙香)、松井広吉ら126名であった。

  松陽新報時代
 大正10年の暮に岡崎国臣に招かれ、島根県松江の『松陽新報』の主筆となった。
広吉は単身出発して鳥取市でのちに日赤鳥取支部病院長となる弟の堀猪三郎の家に1泊し、そこから雪をついて松江に行き入社した。翌年1月15日に妻が次男乙郎に送られてきて、家を持って妻と女中の3人で生活をはじめた。
 松江時代には細かい英文とつきあうことはやめ、余暇に漢詩を楽しみとした。松江は文人大名松平不昧公の城下町で、優れた漢詩人が多く、広吉には居心地のよい所であった。それで広吉は新聞に全国でもめずらしい漢詩投稿欄を設け、横山耐雪に選定を依頼した。
 昭和4(1929)年に博文館から広吉の『四十五年記者生活』が出版された。これは自伝風の本で、記者生活中に見たり聞いたりしたことを書いた裏話的なものである。本稿もほとんどこの本に拠っている。
 『四十五年記者生活』は『松陽新報』に連載したものを、大橋新太郎のたっての依頼で本にしたものである。この本が出た時、業界紙『新聞之新聞』は次のように伝えている(『伝記叢書117 四十五年記者生活』解説より孫引き。大空社)。

 松陽新報主筆松井広吉氏は明治、大正、昭和の側面史とも云ふべき「記者生活四十五年史」を
 近日東京博文館から発行することになった。同著は氏が去る大正十五年の終り頃から執筆し、
 一ケ年半の久しきに渉り同紙上夕刊に執筆したもので、氏は周知の如く操觚界の重鎮で、曽て
 は中央新聞、万朝報、中央公論に堂々の筆陣を張り、その文名夙に高く、伊藤春畝公(博文
 )、桂公(太郎)等に親灸し、その他知名の政治家、文人墨客に親交あり。先年宮内省歴史編
 纂官に擬せられしも辞退して、新聞事業に始終せられたもので、新聞学研究会のオーソリチ
 ー千葉亀雄氏は山路愛山、福地桜痴と並称して斯界三名文家と推讃している。同書刊行に際
 して、大橋新太郎氏は同書出版を要望して止まず、遂に承諾刊行を依頼するに至ったもので
 ある。

 またこの本の中に幸徳秋水の記述や評価のあることを、一橋大学教授の山本武利は、「幸徳への言及が困難な昭和戦前期において、〝大逆事件の真相、怨むべき母の自刃〟についてふれ、そしてその死を悼んでいることは、幸徳との友情が篤かったこと、また松井の性格が権力を恐れなかったことの証左であろう」(前掲書解説)と論評している。
 そしてこの本の価値を、「この時期の出版界をリードした博文館、とくにその創業期の資料として、本書の価値はきわめて高い」とし、また「『中央新聞』、『万朝報』、『やまと新聞』という東京の新聞史の資料として見逃せない。とくに『万朝報』の全盛期に在社しただけに、また三紙とも現存していないだけに、本書はこの期の文献として貴重である。さらに三紙にかかわった多種多様の人物の行動や思想を知るにも本書は格好のものである」といい、「このように本書は著者自身のジャーナリストとしての実績よりも、著者のかかわった出版社、新聞社、そして政治家、ジャーナリストの重要性から、その文献的価値が大きいといえる」(同)と高く評価している。
 広吉の著書として他にも『支那三国時代』、『柏軒論集』などがあるというが、国会図書館や都立図書館にもなく内容は不明である。
 後年は糖尿病に苦しみ、昭和12(1937)年1月10日に東京荏原の自宅において72歳で没した。略歴は『日本人名大事典 第五巻』(平凡社)、『新訂増補 人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前)編 す~わ』(日外アソシエーツ)、『越佐人物誌』(牧田利平編、野島出版)、『新潟県年鑑』に掲載されている。

  ま と め
 結局のところ広吉は初志をつらぬいて生涯1ジャーナリストであった。
 今では彼のことを知っている者はほとんどいない。しかし彼が明治・大正・昭和にかけて社会に与えた影響は決して小さくない。若いころに堀岶陰や大橋佐平に可愛がられたように、どこにでも飛び込んでいって誰とでも親しくなる人柄が活動の幅を広げた。右派の品川弥二郎や左派の幸徳秋水とも平気で付き合い、誰からも何からも貪欲に吸収した。黒岩が広吉を高く買って『万朝報』の編集長に据えたのも、おそらくそういうところであろう。黒岩は反対に社交を好まず、少数の友人とひっそり交際するような性格の人であった。これはジャーナリストとして弱点であったが、広吉は政財官界への顔の広さと、豊富な情報収集力で黒岩を補ったのだろう。
 政権の中枢に入りこみながらも、いいたいことは書くという明治人らしい気骨を持ちあわせていた。無欲のため金力や権力を恐れず、おのれの節を曲げず、また好んでそのような人物と交際した。幕末の村松藩では多くの藩士が自分の思想に殉じたが、広吉もその伝統の中ではぐくまれ、幸運も手伝って大きく天分を発揮することができた。
 平成5年に『四十五年記者生活』が大空社の『伝記叢書』で復刻されたのも、広吉の仕事が再評価されることを期待してであろう。新聞が世論をリードし、時代を作ってきたことを考えれば、広吉もまた日本が現在このような姿にあることに何らかの役割を果たしたわけである。政治的には日露戦争の終結に尽力し、山本内閣の倒閣に奔走し、さらに多くの政治的、文化的な影響を社会に与えた。その意味で彼の生涯や思想をさらに研究、再検討する必要があるだろう。

   (2007年3月村松郷土史研究会発行の『郷土村松64』に発表したものを流用しています)