村松藩の朝鮮通信使馳走役

                          村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 鎖国中の江戸時代において、日本が唯一国交を開いていたのが朝鮮であった。慶長12(1607)年以来、12回の朝鮮通信使が来日しているが、はじめの3回は日本側の和平の求めに対する回答と、豊臣秀吉の朝鮮侵略の戦後処理の解決のため、中でも朝鮮人捕虜の刷還(悪いことをとり去ってもとの所へもどすこと)のためにきたので、回答兼刷還使とよばれている。6回目以降は徳川将軍の襲職の祝賀のために来日している。そして江戸城で将軍に拝謁して朝鮮国王の親書を提出し、かわりに将軍から返書をもらって帰るのだが、20~30日くらい江戸に滞在した。
 越後3万石の村松藩では、このうちの2回に朝鮮通信使馳走役を勤めている。

  享保度の朝鮮通信使馳走役
 はじめは、享保4(1719)年に8代将軍徳川吉宗の襲職の祝賀のために来日した第9回朝鮮通信使の馳走役である。この時は、当時満20歳の第4代藩主堀左京亮直為が、東海道藤沢宿における一行の接待役を幕府から仰せつけられた。
 通信使の一行は総員475名(日本側の資料による)で来日したが、大坂の淀で乗ってきた船を降りたため、ここに110名が滞留し、残りの365名が江戸に上った。ほかに案内と警護のために対馬藩主宗方誠をはじめ藩士約800名が従い、駕籠や荷物を運ぶ者約1000名、馬800頭余の都合3000名を超える大行列であった。元来、幕府はこういうことには金を出さないので、道中にあたる大名が馳走役を命じられた。直為公が藤沢宿の馳走役を命じられたのは、ここが天領のため押しつけられたものである。従ってこれにかかる莫大な費用は、藩や領民の負担となり、通常の年貢のほかに賦課金が徴収されたものと思われる。
 この時の通信使は、正使洪致中、副使黄璿、従事官李明彦の3使をはじめ、25名ほどの通訳官、ほかに武芸、医薬、書画、芸能などの分野で、当時、朝鮮で第一級の人たちを選りすぐって構成され、各地で歓待をうけている。
 直為が通信使の馳走役を拝命したのが享保4年2月15日。その時は在邑のため、22日に国元に奉書が届けられた。3月8日には追って書付が到着し、天和2(1682)年の馳走の例に従うようにとの指示を受けている。直為は5月20日に江戸に向けて村松を出発した。これは例年の参勤交替の出発日とほぼ同じである。同月24日、京都所司代から通信使一行が4月11日に朝鮮国を出発したことと、馳走のための村松藩側の人数を6月下旬までに差し出すように通達があった。6月17日には馳走の人数として、御先御用のほか士分22名、徒の雇いの者16名が国元を出発している。翌18日、馳走のための資金が国元から送られた。
 往路通信使一行が藤沢宿に到着したのが9月25日で、ここに1泊し、翌26日には品川に向けて出発している。藤沢宿は現在の藤沢市藤沢1~5丁目、本町1~4丁目にあったという。堀大膳勤書『覚』によると、直為が馳走のために藤沢についたのは同月23日で、用人堀定右衛門政長も御供のうえ、3使への使者を勤めている。
 享保度の通信使側の記録としては、正使洪致中の『東槎録』、製述官申維翰の『海游録』、軍官鄭后僑の『扶桑紀行』、軍官金潝の『扶桑録』が残されている。このうち『東槎録』『海游録』『扶桑録』は『大系朝鮮通信使』第五巻(明石書店)に印影版で収録されており、うち『海游録』のみは平凡社から邦訳のものが刊行されている(『東洋文庫』二五二)。
 25日の藤沢宿到着のもようは、『東槎録』には、

 二十五日甲午晴。次藤沢
  平明行数十余里。暫憩路傍茶屋。(中略)夕抵藤沢宿站所。館即閭舎頗狭窄矣。堀左京亮※
  直治以※館伴。来問候。仍呈干菓子一器。各以三行所呈。分送※島主及奉行裁判処。護行奉
  行言于首訳。曰朝者江戸所留奉行送言。以為使行到江戸之日。※関白将率其両児子観光云。
  軍物前棐必令斉整行中必着華鮮之服俥為誇耀之地為可云。
  是日行八十里。
     ※直治(直為の初名)
      館伴(客を接待する役人)
      島主(対馬藩主宗方誠)
      関白(将軍吉宗)

 とある。『扶桑録』のほうは、「二十五日甲午晴(中略)渡馬入川(現相模川)舟橋日哺至藤沢。一名富士沢。地属相模州。館于狭窄。堀左京亮真治(直治の誤記)呈菓子」と簡単に記している。
 この日、通信使一行は明け方に小田原を出発し、大磯で昼食をとって、日暮れに藤沢に到着した。城下町小田原での精麗な宿舎(『海游録』)にくらべ、宿場である藤沢の宿舎は村里の家のようで、狭くて満足のいくものではなかった。ここで御馳走奉行(館伴)の直為が正使を訪問して、一行に干菓子を進呈した。菓子はあとで随行の宗方誠、および奉行や裁判のところに分け与えられた。
 なお、記録中の里数は朝鮮式の数値である。
 また、護行の奉行の言によると、朝方、対馬藩の江戸在留の奉行から連絡があり、通信使一行が江戸入りする日に、将軍吉宗が両子を連れて道辺に出て行列を見物するという。そのため一行は威儀を糺し、服装や俥も華やかにして御覧を耀かすようにとのことであった。
 行列は寛永13年の例では、先頭に笛や太鼓の演奏で舞踊が演じられ、途中にもあらゆる種類の楽器の演奏が行われ、まだ軍楽隊のない日本には珍しいもので、ほかに日本人の護衛や荷駄などをいれると、行列が通りすぎるのに五時間ほどかかったと書かれている。
 翌日の出発については、『東槎録』に、「二十六日乙未晴。次品川。暁発行ヒ(似たようなハングル文字)十余里。天色始曙。(後略)」とあり、『扶桑録』は、「二十六日乙未晴。(中略)是日未明発行。(後略)」と記す。『海游録』『扶桑紀行』には残念ながら村松藩側の消息は伝えていないが、夜半に地震のあったことを記録している。
 往路の9月25日の馳走については、『村松小史』に「無滞相済候」むね国元にも知らせが届き、一同恐悦を申し上げたとある。
 一行は江戸に27日に到着し、翌10月15日に無事役目を終えて帰途についた。
 次の16日には帰路藤沢宿について、ふたたび直為の接待を受けた。『東槎録』に、

 十六日乙卯雨終日。次藤沢
  寅時発行々数十里。雨乍冒渡※六郷江。午抵神奈川。黒田甲斐守長治以館伴。来候。呈柿梨
  葡萄一篭。分与行中。飯後即発。到藤沢。堀左京亮直治館伴。来候。仍呈素麺一箱。分与轎
  夫。
       ※六郷江(現多摩川)

 とある。『扶桑録』は往路のみの分しか残ってなく、帰路のものはない。
 直為の進呈した素麺は轎を担ぐ人夫に分け与えられた。もともとこの進物は儀礼的なもので、ほかの宿でも同様のことが行われていた。正使の轎には日本側から多くの人夫がつけられていた。
 翌17日の未明に通信使一行は藤沢を発ったが、前日に続いて雨に降られてしまった。『東槎録』に、「十七日丙辰陰洒雨。次小田原。未明発行抵大磯站館。(後略)」とあり、村松藩の接待はなんとか終了した。
 馳走役は通信使一行の食事や宿泊の世話をするのはもちろんであるが、対馬藩一行、および人夫等の世話もしなければならなかった。対馬藩が費用を負担したのは自領内での分だけで、後は馳走役がいっさいの面倒をみることになる。当然村松藩の人達の旅費や宿泊費も必要だったわけで、いったいどれくらいの費用がかかったのか気になるが、資料が手元にない。一説では通信使のための費用は、1回あたり日本側全体で100万両くらいといわれている。ほかにも一行の通過する道路の清掃や、途中の村々の建物などが見苦しくないよう、修繕の監督など、受持ち区域をきめて全責任を負わされたようである。宿場での警備は村松藩側もやったであろうから、かなりの人員が注ぎこまれたものであろう。
 大変なのは食事の支度で、朝鮮人は肉食のため、各地での饗応に牛や猪、豚、鶏、卵などが用意されている。このほかに魚介類や野菜、果物、菓子、酒が必要であった。通信使一行はほぼ9か月にわたる長旅だったため、料理人も随行している。日本食だけでは堪えられなかったようである。従って料理は日本人と朝鮮人が協力して作ったという。
 参考までに福岡藩の通信使馳走の記録によると、家老2名を接待責任者とし、1000石・2000石級の重臣を惣奉行、信使御馳走奉行、上々官御馳走奉行、下官御馳走奉行に選任し、ほかに鳥獣奉行や八百屋・魚屋奉行まできめている。
 村松藩の通信使馳走はこの時がはじめてであるが、藩の人たちが通信使一行を見たのははじめてではない。8年前の正徳元(1711)年に第8回の通信使が来日した際、行列が下谷広小路にある村松藩上屋敷の前を通過している。『践好録』(『朝鮮通信使と日本人』学生社所載)に、

 十月三日 賜享
  旅館ヲ発シテ門外ヨリ西ニ行キ、広徳寺前ヲ経テ東叡山ノ麓ヲ左ニ廻リ、二王門ノ前ヨリ南
  行シ、井上筑後守屋輔(鋪)ノ前ヲ過キ、本多信濃守屋敷ノ前ヲ経、筋違橋ノ御門ニ入リ
  (後略)

 とあって、この日一行は浅草の東本願寺(現在の台東区西浅草1丁目にある東京本願寺)の宿舎を出発して上野の山下に出、下谷御成街道を南下して江戸城に登っている。通信使の通る沿道には見物人が押し寄せ、沿道の屋敷は門や窓をあけて見物したという。上屋敷(現千代田区外神田3丁目8番と16番の大部分ほか)にいた村松藩の人たちも見物したであろうから、通信使一行の行列がどのようなものか、この時に記憶されたであろう。ただし村松藩の場合は辻番所を抱えていたから、警備の責任もあり、必ずしも観光気分だけでは済まなかった。

  明和度の朝鮮通信使節馳走役
 次の村松藩の馳走役は、第11回の朝鮮通信使が来た明和元(=宝暦14、1764)年で、5代藩主堀直堯が拝命している。
 この時は10代将軍家治の襲職の祝賀のため、正使趙曮、副使李仁培、従事官金相翊をはじめとして、総員462名で来日し、うち106名が大坂に留まり、残りの356名が2月18日に江戸の宿舎である東本願寺に到着した。享保4年の時と同様、約800名の対馬藩の案内・警護役が随行している。帰国のために一行が3月11日に東本願寺の宿舎を去るまで、25日の間江戸に滞留している。
 この時の直堯の馳走の内容は、『越後村松堀家譜』に、「宝暦十四申甲年二月十六日朝鮮人来聘。同三月十一日出立ニ付為馳走。馬鞍皆具七疋遠州舞坂迄差出候様被仰付差出」としている。つまりこの時の馳走は宿泊の世話ではなく、乗り物の提供であった。
 舞坂は現在の静岡県浜名郡舞阪町舞阪で、浜名湖と遠州灘に挟まれた地である。通信使一行が舞坂を通過したのは3月27日であるから、東本願寺から舞坂まで、17日間、一行を鞍馬に乗せて同行したことになる。享保度の資料ではあるが、10万石以下の大名の提供する馬は中馬と称し、幕府の役人から受け取った馬に鞍をつけ、役人を配したものという。中馬1頭につき両口1名、足軽1名、手笠持1名、沓箱持1名、提灯持1名がついたから、村松藩の場合、馬7頭分35名と指揮の役人が随行したことになる。これに通信使一行の中官が騎乗したものである。10万石以上の大名の場合は自分持ちの馬を提供して上官を乗せ、これを上馬と称した。
 明和度の一行の行程は、正使趙曮の『海槎日記』によると、3月11日の朝出発。朝は雨に降られたが晩には曇りとなり、品川宿に泊まっている。翌12日は神奈川で昼休みをとり、藤沢で泊まった。この日も朝は雨となり、道中泥のために滑って苦労をするが、のちに雨は止んでいる。13日の朝は晴れたが晩に曇り、夜にふたたび雨となった。この日は大磯で昼休みをとり、小田原で宿泊。14日は曇り、雨ののち夕方になって晴れる。雨の中を泥を衝いて箱根の険路を登る。箱根の関所では羅卒や中下官は馬を降りたが、上次官や小童傔従の輩は下馬せずに通行した。箱根の山上の旧館で昼休みをとり、昏はじめてからようやく三島に到着した。「艱辛」をして山を越え、三島についた時には「人困馬疲」の状態であった。15日と16日は雨に祟られ、富士川の舟橋が毀れて渡れないため、三島に逗留せざるをえなかった。17日にはなんとか三島を出発し、昼頃に次の宿の吉原に到着した。この日は正使趙曮の誕生日であった。18日と19日は晴れたが、富士川の舟橋の修理がまだ完成しないために足留めとなった。仰ぎ見る富士山はまだ腰以上が雪である。20日は晴れたので出発。富士川を渡り、清水の清見寺で昼休みをとり、初更に宿舎の江尻(清水市江尻)についた。21日、江尻を出発した一行は安倍川を渡り、駿河州(府中)において昼休みをとり、藤枝に至って1泊した。この日は雨であった。22日から24日までの3日間は大井川が渡れず、またもや足留めとなった。25日の朝は雨だったが晩には晴れた。一行は藤枝を出発して大井川を肩輿に乗って渡る。金谷で昼休みをとり、懸川(掛川)で1泊をする。26日は(直)晴れ。見付で昼休みをとり、天竜川を渡って夕刻に浜松に到着した。27日に浜松を発って舞坂から舟で浜名湖を渡り、新居関で昼休みをとった。村松藩の役目はここ舞坂で終了した。

  おわりに
 朝鮮通信使馳走役は、村松人が正式に外国人と交渉をもった記録としては初めてのものであろう。当時の朝鮮は文治国家で、学問や芸術の先進国とみなされており、そのため通信使の宿舎には多くの文人・墨客や商人などが押しかけて、筆談をしたり、詩や絵に賛を書いてもらったという。
 村松藩の馳走役では、異文化交流というほどの関係は無理だったと思われるが、「外国」というものを強く印象づけたことは想像できる。ほかに何か通信使ゆかりの資料などが、村松側から出てくことを希望する。
 この原稿が印刷されるころには、日本人拉致被害者の刷還が完了し、日朝間の友好な関係ができていることを願うものである。そのためには先人の智恵に学ぶ必要があるだろう。友好というのは手間暇と金のかかるものである。互いに尊敬できる国になるためには、寛容と忍耐が必要であろう。

 (2003年3月村松郷土史研究会発行の『郷土村松60』に発表したものを流用しています)