渡辺好明
地方史研究家。村松郷土史研究会会員。昭和16(1941)年生まれ。新潟市出身
著 書
- 越後村松藩の戊辰戦争
越後の小藩3万石の村松藩からみた北越戊辰戦争史です。これまで150年にわたって伝説化された長岡史観の見直しが必要となるだろう。したがって、ここでは河井継之助は伝説上の英雄ではなく、等身大の人物として書かれている。
村松藩は新政府軍寄りの正義党グループと、会津藩寄りの佐幕党に分裂して抗争があり、いわゆる村松7士事件が起きて佐幕党が勝利した。そののち会津藩や長岡藩の圧力で奥羽越列藩同盟に加盟、藩論は新政府寄りにも関わらず戦争に巻き込まれた。参戦後も正義党の近藤貢や吉田又内、五十嵐関八が同盟軍として戦うのに抗議して自刃している。
7月29日に同盟軍が総敗軍となると、藩ではこのまま同盟軍にしたがうべきか、即時に新政府軍に恭順するか、最後の苦しい決断を迫られ、翌8月1日に開城を決定、藩主堀直賀以下およそ半数の家臣数百名は村松を退去し、米沢に向けて撤退を開始した。しかし正義党は9歳になる前藩主直休の弟貞次郎を擁立して新政府軍に降伏、以後、会津追討に従軍した。
8月28日に米沢藩が降伏すると、米沢に滞在していた村松藩撤退組も9月17日に降伏を申し出た。撤退組は武装解除され、10月11日に米沢兵の護衛で村松に送り返されたが、途中、矢部万平、稲毛源之右衛門、坪井静作が自刃し、前田又八は村松到着後に自刃した。また、家老の堀右衛門三郎と軍事掛りの斎藤久七は明治2年5月24日に戦犯として処刑され、ほかにも4名が獄死した。
このように列藩の圧力と藩内抗争により、村松藩では7士を入れて20名の殉難者を出している。しかし戦死者自体は27名と多くはなかった。村松藩と列藩同盟、および新政府軍との関係をていねいに書いています。
北越戊辰戦争は奥羽越列藩同盟軍18藩8,000余名と新政府軍44藩3万余名(最終兵力)による総力戦でした。参戦の藩は、
同盟軍:新発田藩、長岡藩、村松藩、村上藩、三根山藩、黒川藩、本国越後以外の藩:
会津藩、米沢藩、桑名藩、上ノ山藩、庄内藩、仙台藩、山形藩、天童藩、沼津藩、佐倉
藩、水戸藩、幕府歩兵
新政府軍:加賀藩、薩摩藩、尾張藩、広島藩、長州藩、福井藩、彦根藩、土佐藩、高田
藩、小倉藩、小浜藩、富山藩、松代藩、佐賀藩、大垣藩、大垣新田藩、新発田藩、高崎
藩、明石藩、岩国藩、松本藩、上田藩、飫肥藩、長府藩、高遠藩、福知山藩、佐土原藩
、高鍋藩、足守藩、飯山藩、高島藩、与板藩、飯田藩、竜岡藩、三日月藩、岩村田藩、
須坂藩、椎谷藩、野村藩、三日市藩、小野藩、三根山藩、小松藩、峯山藩ほか十津川親
兵、徴兵など
- ヴィルヘルム・グンデルト伝
ヴィルヘルム・グンデルトWilhelm Gundertは、ドイツのノーベル賞作家で詩人でもあるヘルマン・ヘッセの従弟で、ハレ大学とチュービンゲン大学神学部で神学と哲学を専攻し、プロテスタントのキリスト教伝道者となった。1904(明治37)年に内村鑑三の『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』を翻訳し、父の経営するグンデルト書店から出版して、その縁で06年26歳の時に内村を頼って来日、56歳まで、途中二年間帰国しているものの、日本に約三十年間滞在した。そのうち、新潟県村松町(現五泉市のうち)に5年間住んで伝道を行い、ほかにも旧制の第一高等学校や熊本の第五高等学校、水戸高等学校でドイツ語の講師を5年ずつ勤めた。そして村松時代から日本の文化や宗教を研究するようになり、一時帰国してハンブルク大学で学んだ。ふたたび来日して、水戸高等学校の講師時代に「日本の能楽における神道」の論文を書き、これをもって、ハンブルク大学で哲学博士号を取得した。さらに日独文化協会の主事(ドイツ側代表)として日本とドイツの文化交流に多大な貢献をし、帰国後は日本学の権威となって、ハンブルク大学教授、哲学科々長、および総長、副総長の要職を勤めたが、第二次世界大戦後は、ナチスに協力したといって公職を追放された。戦後は名著といわれる『東洋の抒情詩』を出版し、晩年には『碧巌録』を翻訳してその業績を不動のものとし、日本政府から勲二等瑞宝章を授与され、日本学士院の名誉会員に推挙された。
- 蕗のとうを摘む子供等―長沢佑作品集
長沢佑はプロレタリア詩人で小説家、また農民運動家であった。1910年2月17日に、新潟県中蒲原郡大蒲原村大字長橋(現五泉市長橋)で、自小作農の父猶蔵、母ヨネの4男として生まれた。22年3月に尋常小学校を卒業し、そのあと村松町の親戚斎藤又三郎の私塾で2年ほど学び、翌年から五泉町の呉服店に3年間奉公した。26年に同店をやめ、16歳で先輩に誘われて上京したが、1か月ほどで帰郷した。17歳でふたたび上京、高円寺の河野ホームベイカリーに就職したものの、28年8月に18歳で帰郷し、約2年間、全国農民組合新潟県連南部地区の常任書記を勤めた。佑は兄弘の感化を受け、非合法の無産青年同盟部員として小作争議を闘った。19歳の時に「貧農のうたへる詩」を『戦旗』の発表、20歳でふたたび上京し、さらに金沢や大阪を放浪した。31年に東京でパン屋の店員となり、日本プロレタリア作家同盟とプロレタリア詩人会に参加した。32年に詩「蕗のとうを摘む子供等」、小説「部署」を『プロレタリア文学』に発表。32年12月から作家同盟の新潟支部書記長となり、支部の機関誌『旗風』を発行した。翌年1月に逮捕され、間もなく釈放されたが、このころから結核を発症し、沼垂初生町の同志の家で2月17日に没した。没後の35年にモスクワ外国労働者出版所から小説「部署」日本語版が出版された。詩人の松永伍一は、のちに「蕗のとうを摘む子供等」と「貧農のうたへる詩」の2編は、『日本プロレタリア詩集』数冊の中でも出色のものと評価している。
- 渡辺好明著・発行
- 471頁 A5版(私家本)
- 定価 2,400円(送料共)
- 発行日 2017年9月1日
- 郵便振替口座 00140-0-763429
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- 渡辺好明著・発行
- 355頁 A5版(私家本)
- 定価 2,000円(送料共)
- 発行日 2019年1月31日
- 郵便振替口座 00140-0-763429
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- 渡辺好明編集・発行
- A5版 315頁
- 定価1,600円(送料共)
- 発行日 2010年2月17日
- 郵便振替口座 00140-0-763429
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