村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
長沢佑(たすく)はプロレタリア詩人で小説家、また農民運動家であった。明治43(1910)年2月17日午前3時に、大蒲原村大字長橋(現五泉市長橋)甲261番地に、父猶蔵(なおぞう)、母ヨネの4男に生まれた。父の猶蔵は長橋地内で田10町歩、山林20~30町歩を所有する小地主長沢八郎次の長女ヨネの女婿となり、田2反歩をもらって分家、はじめは自小作農をしていたが、のちに耕地を買い集め、最盛期には1町2反歩ほどの自作地と、6反歩の小作地を所有する零細地主となった。猶蔵は大蒲原村全域に協調的な農民組織を作り、また貯金組合の宝農会を作って農民の福利を図った。この組織に推されて大正の末期には村会議員選挙にも出ている。佑には姉トミ、兄正男(生後すぐ没)、同弘、同稔、妹トヨ、弟正五、同民衛(8歳で没)がいた。
佑は2歳の時に囲炉裏に落ちて火傷をし、左手の4指が癒着して生涯握ったままとなった。
村立五箇尋常小学校に入学したが、成績は中の上くらいで、学科以外のことに興味をもち、奇想天外のことをいったりしたという。大正11(1922)年に卒業して、4か月ほど村松町御徒士町の親戚安中国市郎家に子守りとして住み込んだ。そのあと村松町下根木町の親戚斎藤又三郎が経営する私塾に入って、漢文、国語、数学を学んだが、2年ほどして同
12年から五泉町の若狭屋呉服店(生家の地主をしていた)に小僧として3年間奉公した。
和元(1926)年に同店をやめ、若狭屋で一緒に働いていた先輩吉田久平に誘われて17歳で上京、2人で月遅れの雑誌の通信販売(古雑誌の行商とも)をしたが失敗し、1か月ほどで帰郷した。18歳でふたたび上京し、杉並区高円寺のパン屋河野ホームベイカリーに就職した。
そのころプロレタリア作家の前田河広一郎、立野信之、伊福部隆彦らと知りあい、文学に興味を持つようになった。パン屋の経営者河野某はアメリカに18年住んでいた文化人でもあり、同じくアメリカ帰りの前田河とは親しかったようである。前田河と立野は、青野季吉、葉山嘉樹、林房雄、蔵原惟人、村山知義、平林たい子らとともにプロレタリア芸術連盟を脱退し、中野重治、鹿地亘、千田是也、武田麟太郎、窪川鶴次郎らと袂を別って、昭和2年6月19日に労農芸術家連盟(略称労芸)を結成し、機関紙『文芸戦線』を創刊(7月号)した。
しかしこの年11月には蔵原、林、村山、立野らが青野たちと対立して脱退している。そして蔵原らはただちに前衛芸術家同盟(略称前芸)を組織し、この11月からプロレタリア文学運動はプロ芸、労芸、前芸の三派分立期に入った。
19歳となった佑は、同3年8月に河野ホームベイカリーが倒産したため帰郷し、同5年夏までの約2年間、長兄弘の推薦で全国農民組合新潟県連南部地区(現在の五泉市域に相当)の常任書記として、村松町新道の桐生新吉方の2階に置かれた事務所に勤務した。佑は この兄から思想的感化を受け、農民運動活動家の中では非合法派の先鋭分子であった。
当時の農民組合は、大正11年4月に賀川豊彦と杉山元治郎が協議して、全国組織の日本農民組合を結成した。同年11月には鈴木文治が提唱して左派系の日本農民組合関東同盟を組織し、階級闘争的な指導を行なってしだいに新潟県下に影響を強めた。五泉・村松地方では、大正14年11月に大蒲原村笹野町の志田三郎次が関東同盟の影響で小作組合に加盟し、運動を行なっていたが、翌15年3月25日に、川東村、橋田村、巣本村、菅名村、川内村、十全村、大蒲原村、五泉町、村松町の農民約800名をもって南部郷農民連合会が結成された。そして警察官が警戒にあたる中、川東村の石田宥全を組合長に、志田三郎次を副組合長に選出し、本部から派遣された稲村隆一や三宅正一らが演説した。
大正時代の小作料は、村松地方の平均で50パーセント、大蒲原村でも43パーセントという高率で、小作農民は所得税がほとんどいらなかったものの、戸数割りの高額な村税を負担していたので、慢性的な生活苦にあえいでいた。地主と小作の関係は封建的な主従関係が強かったという。それまでの小作料は村松藩政時代からの慣習で、どんなに不作でも免除はなく、地主の温情でまけてもらったとしても、せいぜい5パーセント程度だったという。
日農関東同盟は大正15年に廃止となり、本部の下に直接府県連合会が設けられた。日農新潟県連は翌昭和2年に早くも分裂し、右派と中間派による全日農県連と、労農党と結んだ左派系主流派の日農とに分かれた。しかし翌3年8月にはふたたび全国農民組合新潟県連として統合されている。
昭和3年はここ数十年来の旱魃にみまわれ、稲作の被害は甚大であった。この年の大蒲原村の作柄は5割といわれ、地主に43パーセントの小作料を払うと7パーセントしか残らず、肥料代などを払えば、一家で一年間重労働しても小作側の収入はゼロということになる。つまり不作の際でも地主の懐は痛まず、小作だけが一方的に損害を蒙るというシステムになっていた。小作争議はこのような理不尽にたいする闘いであったが、支配階級から見れば、その反抗は危険分子による煽動で、実力行使は「犯罪」ということになる。
そのため、南部地区の小作側227名は地主42名にたいして、個別に小作料の4割の減免から全免を要求し、容れられない場合は不納の姿勢を示した。驚いた地主側は調停に持ちこんだが解決せず、翌4年7月16日に強硬派の村松町の谷貫一郎や大蒲原村中野橋の鈴木尚衛が中心となり、村松郷地主同盟会を結成して抗争が激化した。ところがこの4年も旱魃のため、大蒲原村での作柄は3割減という2年続きの不作となり、事態はますます深刻となった。
日本でも大正14年に普通選挙法が成立し、昭和3年から実施されて、大地主や豪商以外の人も投票できる(ただし25歳以上の男子のみ)ようになったが、それと引きかえに導入されたのが治安維持法で、運用に当ったのが特高制度であった。つまりそれによって世論を操作し、体制に反抗する危険分子を排除するのが目的である。
昭和3年3月15日にはこの治安維持法が発動されて、全国的な大弾圧(いわゆる3・15)が行なわれ、1600名におよぶ社会主義者が逮捕された。この時南部郷では安中作市郎が逮捕され、オルガナイザーの野口伝兵衛、稲村隆一が逮捕された。佑の兄長沢弘は昭和3年に無産青年部員をしていたが、翌4年3月15日に、前年の3・15事件を記念して村松町で行われたデモの主導者の1人であった。3・15事件に次いで4年の4・16事件では全国で800余名の大検挙が行なわれ、弘も被疑者として逮捕されたものの、証拠不十分で無罪となり釈放された。このころ大蒲原小作争議が本格化していたが、同4年の4・16事件で弘が検挙されてから長沢家の家運が傾き、昭和7年末から8年春には家屋敷も売り払われ、ついに一家離散となった。
この4・16事件に連座して、県連常任書記の本名山添直こと松山止才、県連五泉出張所の書記浅沼喜美、南部地区の無産青年部員長谷川周一、長沢弘、吉田豊太郎、羽賀多七らが逮捕された。
一方、プロレタリア文学運動の方は、3・15の弾圧に対抗して左翼文芸家による統一組織とし、わずか10日後の3月25日に全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)が結成され、同年の5月号から機関紙『戦旗』が創刊された。これには蔵原惟人、中野重治、三好十郎、 小林多喜二、徳永直、立野信之、壺井繁治、高見順などが参加している。
この創刊号に蔵原は「プロレタリア・レアリズムへの道」と題する論文を発表しているが、そこで作家の主体と方法に関して、「戦闘的プロレタリアートの前衛の眼をもって」現実を追及するプロレタリア・リアリズムを主張している。ここでいう戦闘的プロレタリアートの前衛とは、当時の日本共産党およびその系列の革命家を意味したという。
そしてこれ以後蔵原の日本共産党入党をはじめとして、小林多喜二、中野重治、宮本顕治、窪川鶴次郎、佐多稲子、宮本百合子、立野信之、村山知義らが続々と入党した。
そんな中で佑21歳の時に生まれたのが『戦旗』昭和4年9月号(10月号とも)に載った「貧農のうたへる詩」であった。この詩は『日本現代詩大系』、『村松町史
下卷』、『荘厳なる詩祭』、『日本プロレタリア詩集』に収載されている。したがって内容についてはそれらを参照のこと。
昭和5(1930)年はじめになると、追い討ちをかけるように世界大恐慌が日本に伝播して昭和大恐慌となり、都会においては大量の失業者が発生し、農村も窮乏していく中で、日本は中国大陸に活路を求めて侵略を企て、翌6年9月には満州事変が強行された。さらに同7年には5・15事件が起きて、日本は右傾化の度を強め、軍国主義化して行った。
同5年に兄の弘は全国農民組合の大蒲原村長橋班の指導者であったが、村松警察署のたび重なる説得により、3月29日に班員35名とともに組合を脱退、そののち内務省お墨付きの体制的な団体修養団支部を組織し、無産青年部員とは敵対するようになった。
この昭和5年には、村松警察署の仲介で両者が歩みよりをした結果、秋から翌6年中にかけて多くの争議は和解が成立した。たとえば大蒲原事件に大きく係わった地主谷貫一郎ほか16名、小作人志田岩五郎ほか149名による大蒲原村・十全村・村松町地内の争議は、昭和3年と4年度分は平均5割の減免とし、未納分については向こう2年間の分納とし、5年度以降5年間の定免は平均約2割7分減ということで、同5年7月24日に一部が解決した。
大蒲原6・23事件は同5年6月23日の朝に、五泉町に住む地主塚野清一が係争中の田に雇い人10名を入れて耕作しようとしたため、組合員約30名が駆けつけて追いはらった。夜になって集まっていた組合員約200名は、10時ころ大蒲原村長をしていた地主鈴木尚衛宅を襲撃しようと押しかけ、10名の警察官の制止を振りきって投石し、さらに斎藤喜代太郎宅にも投石した。その後応援の警察官がきて乱闘となり、南部地区臨時書記の中野文夫ら13名が逮捕された。
8月2日になって、ふたたび塚野は係争田に雇い人16名の「決死隊」を入れて稲刈りをはじめた。これにたいし、組合員は130名が参集して投石を開始、警察官が阻止して抵抗する4名を逮捕した。夜7時ころに組合側は動員をかけて250名を集め、ふたたび鈴木尚衛宅を襲おうと示威運動をはじめた。途中で警察官26名と乱闘となり、抜剣した警察官と、棍棒と投石で渡りあったが、南部地区常任書記羽賀多七ら82名が逮捕され、うち42名が起訴された。その際、警察官7名と、組合員5名が負傷した。このうち組合員3名は警察官に切られたもので、組合側はこれを明らかに取締りの範囲を逸脱し、人権蹂躙もはなはだしいとして、新潟地方検事局に告発した。大蒲原村8.2事件である。
そしてこの昭和5年は一転して豊作となったが、こんどは米をはじめとする農産物の価格が暴落して、全国的に豊作飢饉が襲い、埼玉県では一家心中をするものまで現れたという。
佑は八月事件のあとにふたたび上京し、納豆売り、玄米パン売り、牛乳配達などをしながら金沢や大阪の知人を頼って放浪していたようである。同年12月に詩「カフエ展望」を書いている。同6年には東京でパン屋の店員となり、日本プロレタリア作家同盟(略称ナルプ)とプロレタリア詩人会に参加した。この夏に8歳年上のプロレタリア作家細野孝二郎と知りあい友人になった。
細野はのちに「同志長沢佑の死を悼む」の中で、佑のことを次のように書いている。
最初私が会ったのは君が「部署」(プロレタリア文学一九三二年三月号)を発表した前の年の夏だった。その時君が僕に与えた第一印象は「むき出しの百姓」と云った感じだった。鍬を握ったり肥桶を担いだりして来たという共通点を持っていたセイか、それからすぐ私は君に対して何か特別な親しみを感じた。君も後で私にそんな風なことを喋ったことがある。君はよく私の家へやって来た。そして作家同盟に入る迄のこと、主に田舎にいた頃のことを泌々とした口調で話した。子守り、丁稚奉公、農民組合の書記、君の一家が離散する当時のこと。(君の兄が四・一六でやられたことがその動因だった)。
この昭和6年、『日本プロレタリア詩集』1931年版に佑の「貧農のうたへる詩」が収載された。ほかにも詩「白い魔の手」が『プロレタリア詩』同6年9月号に、同11月号に「レポーター」、『ナップ』11月号に「母へ」、『プロレタリア詩』12月号に「冬」が掲載された。
昭和6年11月に全日本無産者芸術連盟(ナップ)は新たに日本プロレタリア文化連盟(略称コップ)に組織替えされ、日本プロレタリア作家同盟も傘下に入り、機関誌『プロレタリア文学』が翌7年1月に創刊された。
佑は同7年の『プロレタリア詩』1月号に「親父の言葉」を発表、『プロレタリア文学』2月号に詩「蕗のとうを摘む子供等」(のち『プロレタリア詩集』1932年版に収載)、同3月号に小説「部署」を発表した。
蕗のとうを摘む子供等
――東北の兄弟を救へ
三月の午後
雪解けの土堤つ原で
子供らが蕗のとうを摘んでゐる
やせこけたくびすぢ
血の気のない頬の色
ざるの中を覗き込んで
淋しそうに微笑んだ少女の横顔のいたいたしさ
おゝ 飢えと寒さの中に
今も凶作地の子供等は
熱心に蕗のとうを摘んでゐる
子供等よ!
お前らの兄んちやんは
何をして警察(××)に縛られたのか
何の為に満州へ送られて行つたのか
姉さん達はどうして都会から帰つて来たのか
お前らは知つてるね
何十年の間、お前らの父ちやんから税金を捲きあげてゐた政府(××)は
お前らの生活を保証してくれたか?
おまんまのかわりに
苦い蕗のとうを喰ふお前らの小さな胸にも
今は強い憎悪(××)が燃えてゐる
天災だと云つて
しらを切つたのはど奴だ!
「困るのは小作だけではない」
さう云つた代議士(地主)の言葉にウソがなかつたか
子供等よ! いつ地主の子供が
お前等と一緒に蕗のとうを摘みに行つたか
いつ、地主のお膳に
ぬか団子が転つてゐたか
修身講話が次から次へとウソになつて現れて来たいま
おゝ お前らのあたまも「学校」から離れる
北風の吹く夕暮れ
母親は馬カゴのもち草を
河つぷちで洗つてる
子供らはざるを抱へて家路へ急ぐ
背中の児は空腹を訴へて泣き
背負つた子供は寒さに震へる
だが、見るがよい
水洟をたらした男の児等の面がまへを!
児を背負つた少女の瞳を!
おゝ 凶作地の子供等よ!
その顔に現れた反抗と憎悪をもつて
兄んちやんのやうな強(き)つい人間に成れ!
苦い蕗のとうのざるをほうり出して
父やんから金を捲きあげた奴等に向つて
あつたかい米のご飯を要求するんだ!
詩は理不尽なものに対する激しい怒りを表明するとともに、虐げられた者への共感にあふれている。
「部署」は原稿用紙107枚ほどの中編小説で、自伝的要素の濃い作品と考えられる。
もうすっかり陽が落ちて、通り過ぎる人の顔も明瞭(はっきり)判らなかった。これでよし、と思った。またそれだけ不安でもあった。遠くに人影を見ると、廻り道をした。片倉越後製紙の高い煙突が、M町を見下ろすように突立っている。電車の通る音が、遠い雷でも聞くように響いて来た。(県下に一つしかない電気鉄道だ)
管名岳に近くなるにつれ、田は次第に少なくなり、往来へ出ると、山みちのように石だらけで危なかった。村の入口の四辻の石地蔵の傍に、一台の砲車が横たわっていた。三四名の兵士が、ぼろ切れを拡げて、機械を掃除していた。
とあって、村松の人間ならすぐにM町は村松町、片倉越後製紙は片倉越後製糸村松製糸場、電車は蒲原鉄道の電車、管名岳は菅名岳を連想するだろう。
小説は昭和5年10月にN地区(南部地区がモデル)を中心に、2郡にわたって軍部の秋季大演習が行なわれ、そのための予備拘束を逃れて地下にもぐった全農N地区の常任書記中野と、青年部書記坂井(佑自身がモデルか)の活動を中心に描かれている。地区事務所を逃げ出した2人は、10数町はなれた川向こうの茂作という男の家の裏二階に潜伏していたが、演習がはじまるとともに警戒が厳しくなり、管名岳の麓にある地区婦人部闘士お美津の家の納屋に隠れ、仮事務所とした。
ここで彼らはガリ版刷りの闘争ニュースや小作争議方針書などを作っていたが、合法的な闘いを目指す石田宥全ら県本部の「ダラ幹」に逆らって分派活動を行い、共産党の名で侵略戦争反対のビラを刷り、それをN班(長橋班か)やS班(笹野町班か)らの組合員が電柱に貼ったり、兵士に向けて撒いたりした。これを読んだ兵士たちは、突撃演習の時に、「一人が侵略(××)戦争(××)反対(××)と(×)云っ(××)たら、みんな侵略(××)戦争(××)反対(××)と(×)叫ん(××)だって。将校(××)が、とっても怒っていた」と書いている。××のところはもともと伏字で、新日本出版社の編集部が推定したものである。もっともこれは小説であるから、どこまでが事実に基づいているかは不明である。
当時村松町には新発田歩兵第十六連隊のうち第三大隊約600名が分屯していたが、小説では高田連隊がN地区で演習を行い、仙台騎兵連隊が馬蹄を響かせて村の往還を通って行ったと書かれている。
中野重治は昭和29年に雑誌『多喜二と百合子』4号の座談会「プロレタリア文学運動にたおれた人びと(完)」で、「部署」について、「あれはうまくなかったね、小説としては」と批評しているが、こういう発言が佑を小説家として重く見ない傾向につながったようである。「部署」は傑作というほどでないにしても、今でも小説として読むに堪えるし、当時の村松地方の暮らしぶりや生活の実感が良く描かれており、再評価されてしかるべきであろう。もちろん若書きであるから、理知的で計算され、完成度の高い中野の作品に比べれば物足りないところもあるが、それでは中野にこういう作品が書けるかというと、それは「絶対に不可能」である。
佑の詩や小説は、すでに小田大蔵や松永伍一が指摘しているように、ユーモアの感覚があり、当時のプロレタリア作家が教条的なスローガンの表明に陥りがちだったのに反して、自己や対象を離れて見る余裕があって、そこから人間肯定の精神がにじみ出ている。それは安易な人間讃歌などではなく、生活の苦闘から自ずと生まれてきたものであろう。佑の特質を身体的な不幸から説明するのは間違いではないが、それだけでは本質を見逃すことになる。
また佑の南部地区常任書記時代の仕事については、具体的に何も知られてなく、わずかにこの小説から推測できるばかりである。
同7年12月5日号の『文学新聞』に、佑の掌編小説「部落の夜――新潟県の農村」が発表された。原稿用紙2枚半のスケッチ風小品である。倅が小作争議の際の傷害罪で新潟刑務所に入っている留守家族の正月近い夕食風景を描いたもので、両親と残された嫁、幼い妹の4人がかわすやりきれない会話に、時代の閉塞感が浮かび上ってくる。
ほかにも詩に「その前夜」(没後に発表と)、「五月の詩」、「思ひ出」(『農民文学の諸問題』昭和7年7月)が残されている。
思ひ出
八月の微風が
一面に吹き渡る青田に囲まれて
荒れ果てた一区切りがみえる
(中 略)
迫害は続く
町から来る美しい女先生の手は
幾たびか俺の耳たぶを引つぱつたことか
そんな時 俺は泣きはしなかつた
――あんな奇麗な顔をした彼女のどこに
――こんな野蛮性が潜んでるのだらう!
そんな疑問を抱いた俺だつた
しかし、俺はその後になつて
奇麗な顔をした慈悲心の富んだ人々や
学問のある人格者達に
もつともつとむごい野蛮性のあることを
生活の中から学んで来た
思ひ出は実に俺を呼び覚ます
かつては俺達貧農の若者を集めて
マルクスを口にし、レーニンを叫んだにせ者共!
稲村隆一、三宅正一、野口伝兵衛
思ひ出は深い……
この憎悪をこめた感情を
俺はどうしようか――
(新潟県下万の組織貧農大衆よ想起せよ! 彼等無数の裏切行動を!!)
(中 略)
あかあかと夕陽が暮れる
すがすがしい微風に吹かれて
ふと、俺の眼は立禁の札に注がれる
遠い過去の思ひ出は消し去られて
新しい追憶がひらひらと俺の胸を打つ
――神聖な裁判所は偽瞞調停法の本性を現らはし
それに対して起ちあがつた大衆は
社会フアシストの組織攪乱に依つて敗れた
――(おお この思ひ出よ!! 今この俺と同じ思ひ出を以
つて、怒りに燃えつつある県下の青年大衆よ! 社会フア
シスト共から 俺の親父を奪へ返せ!)
無数の憶ひ出よ……
只一つのものへ!!
いま戦争と飢餓とフアツシヨの跳梁の中に
おお一切の血の想ひ出よ
俺をむち打て!
新たなる思ひ出の上に立つて
俺は前進するぞ!!
竹内徹は『旗風』(昭和9年1・2月号 長沢佑追悼号)に載せた「長沢佑の思い出」の中で、佑が産業労働調査所の新潟支部である新潟農村問題調査所で、高田某と共同生活をしていたころ、貧しくて一日二食で過ごしたと書いている。釜の飯に筋をつけ、ここまでが朝の分、ここからは晩の分ときめて空腹をしのいだ。しかしその米さえない日もしばしばで、それが、「元気な彼にはたまらない苦しみだったそうだ(『荘厳なる詩祭』より引用)」と証言している。この調査所の事務所で、佑は4歳年上で詩を書いている高田某こと奥西兵二と働いていた。また新潟時代の佑の貧窮ぶりについて、三条市在住の本間わか(後出)は、「毎日の三度の食事も満足でなく、葉っぱのお汁に塩引きかメザシが最高のごちそうであった。たまに食パンの耳を二銭で買ってきて、それをかじって食事をすましたこともある(小松正史『新潟日報』所収「革命的農民詩人の墓標――長沢佑死後四〇年に寄せて――」)」と証言している。
この7年夏(9月とも)に日本プロレタリア作家同盟の指令で、同盟新潟支部を強化する目的で帰郷したが、24時間以内に逮捕された。しかし11月13日には新潟市古町にある「青柳」で開かれた小林清一郎の詩集『北の都に曇風のある日』の出版記念会に出席し、記念写真を残している。12月からは支部の書記長を勤め、ガリ版刷りの支部の機関誌『旗風』を創刊している。事務所は婦人会館の向かいにある新潟市学校町2番町の南場光雄宅の2階に置かれていたが、薄暗くて汚く、ひどい所だったという。そこで佑は東京と新潟を往復しながら文化オルグ活動に従事しており、この年に日本共産党に入党したようである。
佑は音楽が好きで、貧しい中でも音楽が聴きたくて新潟市の鍛冶小路にある菱屋という喫茶店に行きたがったという。コーヒー1杯が5銭であった。同盟新潟支部書記長時代の話であろう。
また7年の後半ころから生活のため政友本党の機関誌『新潟時事新聞』と月2~30円で文芸欄への寄稿契約を結んだが、やがてそれも払ってもらえなくなったという。またこの年一度上京している。
翌8年1月に帰郷直後検挙され、『旗風』に連載をはじめた小説「動員令」も2回で中断された。「動員令」は村の地主と小作人の対立を、双方のスパイ行為や攪乱戦術、農民組合の分裂などを通して書かれている。
菅名おろしが一週間ほどつづくと、その後は、雪まじりの雨だった。部落民は、いよいよ冬眠的な生活に移って行くのだ。この期間に来年に必要な、みの、背ナコージ、荷縄、草鞋、草履等を造っておかなければならなかった。
老人達は、台所の囲炉裏の傍で俵を編んだ。若い者は、土間でみのや草鞋を造った。子供は学校から帰ると縄ないをさせられた。母達は、土間の片隅の床板のある揚場で、イリゴを挽いた。砕き米や、しいなを石臼で挽く。挽いた粉は、一年を通じこの御馳走の一つになるのだ。彼岸の団子や節句の草餅は、大抵この粉で作るのだ。
まもなく釈放されたが以後寝込むようになり、新潟支部事務所にいて仲間の援助で生活していた。やがて同志の沼垂初生町(現新潟市沼垂町流作場1773番地)の本間わかの家に人力車で移され、同年2月17日午前3時20分に、栄養失調と粟粒結核が悪化して23歳の若さで没した。つまり誕生日と同じ日の同じ時刻に亡くなったわけである。松永はこれを拷問死と規定し、死期が迫ったので警察は佑を抛り出したと書いている。そして松永は佑が「転向者の続出するなかでおびえつつも、みずからの〈暗い精神の翳り〉に襲撃されることもきわめて少なく、信ずるものを失わずにいた自己を信じて死んだ」と哀悼している。
本間わかは当時20歳くらいの女性活動家で、祖母といっしょに借家に住んでいた。白根市出身の小松正史の調査によると、本間が事務所に見舞いに行った時、佑は「君の家に行きたい」というので、本間が、「絶対安静だから、動いちゃだめ」と宥めたが、佑は涙を流して、「君にまでそんなことをいわれたら僕はどこへも行くところがない」といったという。そして本間の家では喀血のため襖が赤くなったと書かれている。
佑の死んだ3日後の2月20日には小林多喜二が特高に捕らえられ、その日のうちに築地警察署で虐殺された。
小田大蔵の「長沢佑」によると、葬儀は翌18日に作家同盟新潟支部をはじめ、文化団体と農民組合関係者があつまって行なわれ、遺体を赤い布に包んで棺に納め、遺詩を朗読したあと、ボタ雪の降る中を何台かの車を連ねて新潟市の火葬場白雲郷に向かったという。赤い布ははじめ佑の遺言で赤旗を作って葬列に使う予定だったが、警察に禁止されて転用したものという。
また、松永伍一の「雪と赤旗の葬列」には、葬儀は参列者4・5人の貧しいものであったが、遺体を赤旗で包み、雪の降る中インターを歌いながら火葬場に向かうのを、警官隊が取り囲んだと書かれているが、伝説化されている嫌いがあり、小田の記述のほうが正確であろう。墓は長橋の中村地内の共同墓地にある。
2月24日には長橋に住んでいた三兄長沢稔家に家族があつまり、菩提寺の僧を招いて葬儀をおこなった。葬儀の前日、新聞の記事を見た社会派作家の相馬泰三が、焼香にきたという。
佑は活動中に10数回逮捕されたという。しかし警察官をしていた次兄稔の証言によると、この逮捕も、「ほとんど行政執行法の行政検束で、なんの罪というほどの犯罪はなく、罰金もとられず、2、3日から1週間くらいで釈放された。出版法違反とか、新聞誌(紙)法などにふれたものであったろう(市村玖一『新潟県農民運動史』)」という。多少身内を庇う気持ちも感じられるが、刑務所で服役したという事実は出てこない。
没後に出た『農民の旗』3月号に詩「その前夜」が掲載され、昭和10年にはモスクワ外国労働者出版所から小説「部署」日本語版が出版された。
のちに友人の細野孝二郎が『プロレタリア文学』(昭和8年4・5月合併号)に書いた追悼文「同志長沢佑の死を悼む」によると、佑は村松で逮捕された時のことを、「何だわい田舎の警察は野暮臭くてかなわんわい。俺を連れて行くのにガンジがらめにしやがって」と語ったという。松永はこれを侠気もあり、ヒロイズムもあったと評価しながら、中央追随的な傾向を敏感に感じとって批判している。
また細野はこの追悼文を、「我々は今我国の農民文学運動のよき働き手であった君をその前進の途上で失った。これは我々にとって大きな損失である。だが同志長沢佑! 我々は君の残した多くの事を必ず完成させてみせることを、君に判っきりと誓おう。我々の仕事を前進させることが君にとって最大の追悼である。このことを我々は地下の君に誓約する」と、紋切り型で結んでいる。そしてこの号に載った小林多喜二への追悼文は35頁分あったが、佑のものはわずか1頁であった。
竹内徹は「長沢佑の思い出」の中で、「なる程彼は理論的には決して優れていたとは云えないし、それが彼の最大の欠点でもあった。彼自身も亦それをよく知っていて、理論的成長のため多忙の中から凡ゆる寸暇を見出して勉強していたのだそうだ。事実、彼のこの欠点は彼の作品に大きい制約を与えている。彼の、農村の事実を一つ一つとりあげて偽らぬ感情をもって唱いあげた詩の中にはその欠点が比較的少なく見えたが、彼の残した小説『部署』『動員令』ではそれが相当はっきり表われていた(『荘厳なる詩祭』より引用)」と指摘する。
そして作家同盟新潟支部の鳴海三郎(本名蕗谷武司)もまた、「長沢は作家としてはとも角、政治的には非常にオクレテ居る」と佑の生前に批判していたにもかかわらず、自分はいちはやく転向してしまった(同書より引用)。
しかし小卒の佑にそれを早急に求めるのは少し乱暴な見方であろう。当時の日本プロレタリア作家同盟は、小林多喜二、中野重治、林房雄、壺井繁治、蔵原惟人など、「政治の優位性論」を標榜する東大出をはじめとしたインテリが牛耳をとっていた。したがって末端の工員や農民出身の本当の意味でのプロレタリア作家は、おおかた将棋の駒のような存在であった。しかし政治的理論なるものは文学的価値となんら関係はない。
また佑については日本近代文学会新潟支部編『社会派の文学』の中で、小田大蔵が「長沢佑」を担当している。小田は昭和51年の出版当時は柏崎高校に勤務しており、佑の兄稔にも取材し、墓の写真まで撮っているところから、伝記としては一番信頼がおけるものと考える。本文14一四頁と略年譜が3頁にわたって載せてある。ここには佑が生前、よく「死に急ぐわけではないが、一定の年令に達しなければ活動しないというのは姑息だ」とか、「犠牲者なくして革命は成就しない。日和見になるくらいなら死をえらぶ」とか、「組織の歯車となっても、それは革命にとって無駄ではない」といっていたという、稔の貴重な証言が載せてある。
ほかにも松永伍一著『日本農民詩史 中巻(一)』に「長沢佑の苦闘の生涯」と題して16頁、同『荘厳なる詩祭』に「雪と赤旗の葬列」として19頁にわたって論じており、同『荘厳なる詩祭――死を賭けた青春の群像』でも研究されている。
『荘厳なる詩祭』で、松永はそれまで『日本現代詩大系』で解説を書いている中野重治や、『日本解放詩集』で壺井繁治や遠地輝武が、『多喜二と百合子』誌上の座談会で蔵原惟人や宮本顕治らが長沢佑を採りあげながら、佑についてしっかり書いたり発言していないことを無責任と批判し、「長沢が無名であることのみを嘆くな。かれをないがしろにしているものたちを責めよ」と主張している。ここで壺井や遠地は、佑のことを「生年不明」とか「没年不明」で片づけているが、松永はそれが「長沢佑の不幸を色濃く」している、と同情する。そして松永は、「すぐれた人間はそれにふさわしい光を受ける権利がある。23歳の青年もその内実において、当然その権利をもつ」と弁護している。
詩人としての佑について、松永は、「ごくありふれた闘士であり、ごくありふれた素朴リアリズムしか身につけていない詩人であり、ごくありふれた民衆の一人にすぎなかった」といって、彼はけして天才的とはいえないし、技巧なら「自分のほうが数等まさっていた」といいつつ、「蕗のとうを摘む子供等」と「貧農のうたへる詩」の2編は、『日本プロレタリア詩集』数冊の中でも出色のものと評価する。
昭和48年になって、長沢佑死後40年記念出版として、『蕗のとうを摘む子供等』が風書房から単行本で出版された。これには詩「貧農のうたへる詩」と「蕗のとうを摘む子供等」、「思ひ出」、小説「部署」、長沢佑年譜が収録されており、発行日は命日の2月17日となっている。
風書房は、松永伍一が約10年かけて書いた『日本農民詩史』全5巻の印税を注ぎ込み、無名のまま世を去った人たちの作品を出版するために作った小出版社である。そして松永が一番はじめに出したのが『蕗のとうを摘む子供等』であったが、500部刷って長沢稔に印税がわりに50部渡したものの、本は売れず赤字だったという。したがって村松には、稔の周辺にこの本がいくらか残っているはずである。
『新潟県農民運動史』には、佑の訃報を聞いたある地主の話として、「佑が着物に、前だれをかけた、でっち小僧すがたで、家の柿の木のしたにじいっとたたずんで、物思いにふけっているすがたをみて、こわい感じがした。そののち、共産党にはいり、プロ文学をやっていると、風のたよりにきく程度でゆくえもしれなかった。ずうっとあとになってから、訃報をきいたが、ざまみろ、というのが地主の気持ちであった」というのが載っており、人間性のカケラも見られない。
市村玖一は佑の墓を訪ねた時のことを、「村松町長橋、中村地内、低い丘陵の雑木林にかこまれた、共同墓地に佑は今、眠る。革命的な情熱をもって解放を叫びつづけ、貧農の怒りをうたいあげ、ようやくその労作が認められ期待されながらも、激動の嵐の中にたおれて行った。たぐいまれなプロレタリア・リアリスト、未完成の青年農民詩人長沢佑、雑草生いしげる小さな土まんじゅうに墓標一つとてなく、今や空しくその足跡は野に朽ちんとしている(『新潟県農民運動史』の記事を松永伍一が潤色したもの)」と書いている。土まんじゅうにふさわしい墓碑銘である。
自由も民主主義も、決して天から与えられた僥倖などではない。それは1人の長沢佑の犠牲によって、100人の長沢佑の犠牲によって、1000人の長沢佑の犠牲によってもたらされたものである。それを忘れたら、我々は「二本足の恩知らず」になってしまうであろう。
(2009年3月村松郷土史研究会発行の『郷土村松66』に発表したものを流用しています)