村松藩の大坂加番

                          村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 大坂は元和5(1619)年に幕府の直轄地となり、大坂城にはそれ以降城主は置かず、将軍から城を預かって大手を守る城代と、その下に定番と加番、目付がいた。城代は原則として5万石から10万石程度の譜代大名が1名任命され、大坂城にいて大坂在勤の幕府役人を統轄し、大坂城を守衛するとともに大坂を支配し、西国大名の動静をも監視した。
 定番は定員2名で、1~3万石の譜代大名が京橋口と玉造口を警備し、城管理の実務を総括したが、定まった任期はなかった。大番は幕臣の大番組の番士が毎年2組ずつ交替して勤務した。
 加番は大番が旗本役で少人数のため、大名をその加勢として設けられ、老中支配で1年交替であった。定員4名で4加番とし、交替は7月15日から18日までに江戸を出発し、8月3日から6日までに旧番の者と交替した。
 1加番は山里加番ともいい、山里曲輪および極楽橋外2の丸の東・西両仕切内を守った。2加番は中小屋(中ノ小屋とも書く)加番ともいい、2の丸青屋口を守った。3加番と4加番は2の丸雁木坂を半月交替で守った。1・3加番は東大番の加勢、2・4加番は西大番の加勢として、城中の受持警衛区域内の屋敷に起居した。1加番は3万石程度、他の3加番は1~3万石の主として譜代大名が任じられ、在番中は禄高程度の合力米が支給された。そのため全額負担の他の公役とは性格を異にし、大坂城の軍役高の総計は25~30万石にのぼったという。しかし時代が下ると、山里加番、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番の4加番を、それぞれ4名の大名が任命されている。
 山里曲輪は本丸の北端にあり、天守(寛文5年=1665に落雷のため焼失して再建されなかった)の真裏にあった。他の3加番は2の丸の東にある市正曲輪といわれる縦長3角形の、北から青屋口、中小屋、雁木坂の3つの区画の加番小屋に駐屯した。市正曲輪は現在大阪城梅林となり、曲輪の東にあった堀は埋め立てられてラグビー場になってしまった。青屋口は2の丸の北東にあって大門が設けられ、木橋で3の丸の玉造蔵場に繋がっていたが、現在はこの木橋の所も埋められてしまった。雁木坂は2の丸の東南にあり、玉造口定番との境にある雁木坂門を守った。
 越後村松藩では3万石の外様ながら、万治元(1658)年から寛政9(1797)年までの139年の間に、17回の大坂加番を記録している。2代堀直吉が2回、3代直利が7回、4代直為が3回、5代直尭が3回、6六代直教が1回、7代直方が1回勤めた。このうち、青屋口加番が1回、中小屋加番が4回、持ち場不明が12回である。
 加番には特別の事情がない限り、藩主自らが藩兵を率いて勤務したが、直吉の代の万治元年の記録では総数1170人といい、そのうち立帰人(大坂まで供をして詰めずに戻る人)が460人というから、大坂残留組は710人となる。しかし大坂詰の内訳をみると720人おり、10人の誤差がある。
 宝永元(1704)年の加番では、「武勇に勝れた」直利が、鉄砲5挺、旗1本、長柄5本の増員を命じて「御奉公の嗜み」のほどを見せている。しかし、この他に国元の在勤や江戸藩邸の留守もあるから、通常の家臣数約700名前後の倍近い増員が必要であった。
 なお、幕府の寛永10(1633)年の軍役規定では、3万石の場合、騎馬30人、鉄砲60丁、弓30張、槍90本となっている。慶安2(1649)年には改められ、騎馬35人、ほか610名となった。しかし、家臣数の少ない他藩の場合、これだけの人数を集めるのは難しかっただろう。
 村松藩の場合は加番の人数についても特別な事情があり、他藩の参考にはならない。村松藩はもともと家臣数が多く、1万石あたりの家臣数が一般的な藩の倍くらいいた。万治2年の加番を村松藩では720人で詰めているが、家臣数のほぼ倍の人数を必要とした。享保7年の加番は486人だが、名簿をみると、ほとんど全員を藩内でまかなっている。
 3代堀直利は大坂加番を7回勤めている。元禄14(1701)年の加番では領内の上下川両郷において150両の御用金を集めているが、そのような無理もたたって、藩の財政は悪化していった。
 4代直為の代になって、村松藩の加番に対する姿勢は大きく変化している。正徳5(1715)年に直治(直為の初名)は、幕府に対し「私儀、つれずれ勝手不如意、常々御奉公も相勤めかね候に付き、罷り成る儀に御座候はば、来秋にも大坂御加番願い奉り候。御沙汰御座候節、宜敷ように願い奉り候」という願書を提出した。この願書は老中井上河内守が内々に手直しをして、「私儀、勝手不如意に御座候。罷り成る儀に御座候はば、来秋大坂御加番願い奉り候」として、同年7月3日に正式に提出された。
 2年後の享保2年に直為は加番に任じられ、次の享保7(1722)年の加番では、代役ではあるが同じ役高2万7000石の勤めを489人で詰めている。この加番では経費を大幅におさえ、黒字にする予定だったようだが、加番後に年寄役席の堀定右衛門が不行跡のかどで処分されていることから、目論見通りにはいかなかったようである。
 また延亨4(1747)年2月1日には、加番で役料以外に金がかかった場合は、勝手方全体のゆるみとみなして、借金買掛等を返済するように取り決めている。
 加番は軍役のため、供をする家臣のほうも費用がかかったし、大坂は村松と違って物価も高かったので、給金とは別に手当がつくのが普通だった。村松藩の場合は、宝暦9(1759)年11月26日の「大坂詰料御定」によると、500石詰の年寄が金100両、250石詰の用人・物頭が金50両2分、150石詰の目付・使番が金37両2分、側用人・取次が34両2分、100石詰の馬上が30両、無足馬上が23両、医師が23両、小姓から茶道までが給金持高に2両増、徒目付より小役人まで同1両増、持足軽から先手足軽までが2分増、寄組から手廻り供中間まで銭2貫文増、小人は金1両1分となっている。このうち、年寄から医師までは内金が村松で渡され、残りは毎月分割で支払われた。

   第1回大坂加番
 第1回の大坂加番中小屋警備は、万治元(1658)年3月18日に2代堀丹波守直吉が相番の西郷孫六郎延員とともに、江戸城西の丸において役料2万7000石で任命された。他に松平遠江守忠倶と板倉内膳正重矩が加番に任じられたが、この2人は在邑のために出席できなかった。大坂城代仮役は水野出羽守忠職であった。直吉はこの年2月21日の大火で上屋敷が類焼し、24日にはそれまで勤めていた火消役を免除されたばかりであった。この再建のため、藩では幕府から銀150貫(約3000両)を拝借している。
 この時の村松藩側の内訳は馬上43人、小姓5人、中小姓21人、徒41人、坊主3人、料理人3人、小役人4人、下組10人、かり下組4人、足軽137人(うち本足軽81人、郷足軽56人)、長柄55人、中間10人、小人99人、又者285人の計720人であった。持参の武器として旗13本、鉄砲100挺、弓30張、長柄80本、持槍7本、馬5頭、他に持筒、持弓であった。
 しかし、この数字に、図らずも加番の人数調達のカラクリも見えてくる。まず、郷足軽が56人いるが、郷足軽は城勤めをしない土着の在郷足軽であるから、いわゆる集団戦闘員ではない。しかも村松藩の郷足軽はせいぜい20人に満たなかったようで、56人は加番のために急ごしらえで仕立てた数字だろう。
 また、又者285人も過大な数字であるが、だいたい、陪臣は着到人数に数えないのが普通であろう。
 そして家中の隠居や部屋住みの子弟などを招集し、参勤時のように、全体に格式や役職のかさ上げをして体裁をつくろったと考えられる。
 この時の加番で、もと年寄役(家老)侍大将の堀四郎兵衛之俊は、隠居の身であったが特別に頼みとされ、500石の役高で供をした。また、年寄侍之組頭の堀助右衛門政貞が、同年7月に直吉の供をして大坂に上った。翌2年8月に交替となり、直吉とともに江戸に帰っている。
 同2年8月28日に加番の終わった松平公、直吉、西郷公の3名は、江戸城において将軍家綱に拝謁している。

   第2回大坂加番
 延宝2(1674)年7月に堀丹波守直吉が大坂加番青屋口警備を勤め、翌年8月に帰府した。役高3万石、扶持450人だったという。同2年2月21日の奉書(老中が出した将軍の命令書)で任命されたが、直吉は在邑中のため、26日に村松へ奉書が届いている。そのあと直吉は、6月18日に相番の内藤右近大夫正親、阿部伊予守正春とともに、江戸城で加番に出立のために暇を給わっている。城代は太田摂津守資次である。
 翌3年7月26日に、加番の終わった内藤公と阿部公の2人は、江戸城において将軍家綱に拝謁している。

   第3回大坂加番
 延宝6(1678)年に3代堀左京亮直利が役高2万5000石で加番に任じられ、大坂城内の青屋口(宮内庁書陵部蔵『大坂御加番人名録』には中小屋と)を警備した。同年3月9日に奉書が出され、直利公は村松に在邑のため、遅れて受け取っている。5月2日になって直利は領内の見附を出立し、8日に江戸入りした。翌6月9日に、直利は江戸城において加番に出立するための暇を給わった。相番の三宅能登守康勝、酒井石見守忠豫、本多弾正少弼忠晴も同じく暇を給わっている。26日には江戸を出立して、翌7月9日の朝に大坂に着き、14日に入城して前任者と交替をした。城代は太田摂津守資次であった。
 翌7年8月7日、加番を終えた酒井公と本多公の2人は、江戸城において将軍家綱に拝謁している。

   第4回大坂加番
 堀左京亮直利が天和2(1682)年に役高2万石で加番に任じられ、中小屋を警備した。3月15日の奉書では青屋口番所となっている。直利公は5月21日に村松を出立し、信州経由で6月2日に江戸に到着した。6月26日には江戸城において加番に出立するために、相番の六郷佐渡守政信、分部隼人正信政とともに暇を給わった。翌7月15日に江戸を出立し、晦日に大坂の町宿到着し、8月5日に入城して前任者と交替した。城代は太田摂津守資次である。六郷公は青屋口小屋、分部公は雁木坂小屋を警備し、石川若狭守は山里丸を警備した。翌3年9月7日、直利は六郷公、分部公とともに加番が終わって帰り、江戸城で将軍綱吉に拝謁している。

   第5回大坂加番
 堀左京亮直利が元禄元(1688)年に大坂加番に任命されている。3月29日の奉書では雁木坂番所の警備となっているが、現地では青屋口小屋を警備した。直利は村松にいたため、4月4日に奉書の写しを受け取っている。5月27日には村松を出立し、6月4日に江戸に到着、同月25日に江戸城で大坂行きのために暇を給わり、7月18日に江戸を発って東海道を上った。8月1日に大坂の町屋に到着、同月4日に大坂城に入り前任者と交替した。 
 城代は松平因幡守信興で、相番は山里丸が小笠原土佐守貞信、中小屋が保科兵部少輔、雁木小屋が本多弾正少弼であった。
 翌2年8月28日に、加番から帰った直利、小笠原公、保科公、本多公の4人は、江戸城で将軍綱吉に拝謁した。
 物頭上座ならびに年寄上座の片岡主税利雄(のち堀主税)は直利公とともに江戸にきたところ、元年7月18日に加番の供を命じられて勤めている。翌2年8月4日に交替となり、直利とともに江戸に帰着した。そののち直利公は10月4日(5日とも)に村松に帰国した。

   第6回大坂加番
 堀左京亮直利が元禄5年に大坂加番に任じられ、役高2万7000石で青屋口御番所中小屋を警備した。城代は土岐伊予守頼隆である。同年3月晦日に奉書が出され、直利公は4月4日に村松でこれを受け取った。5月7日に村松を出立し、14日に江戸に到着、7月1日には大坂行きのために、江戸城において相番の小笠原土佐守貞信、松浦織部昌とともに暇を給わっている。ほかに酒井下野守忠寛が相番だった。18日に江戸を発って中仙道を通り、8月1日に大坂の町屋に到着、同5日に入城して前任の分部隼人正と交替をした。
 5年7月18日に堀四郎兵衛は加番の供を命じられ、大坂御札勤めに任じられた。
 6年8月28日、加番を終えて戻った直利、小笠原公、酒井公、松浦公の4人は、江戸城において将軍綱吉に拝謁をした。
 
   第7回大坂加番
 堀左京亮直利が元禄10年に大坂加番に任じられた。城代は土岐伊予守頼隆である。直利公ははじめ山里丸の警備を仰せつけられていたが、4月9日になって、あれは祐筆のまちがいだったといって、改めて中小屋詰を仰せつけられた。この加番のため、直利はそれまで勤めていた両国橋番を御免となった。6月28日に直利と相番の酒井石見守忠予、板倉頼母重高、伊丹左京勝守の4人は江戸城において暇を給わった。
 翌11年8月28日、加番の終わった直利と酒井公、板倉公、伊丹公の4人は、江戸城において将軍綱吉に拝謁をした。

   第8回大坂加番
 堀左京亮直利が元禄14年3月10日に役高2万7000石で大坂加番中小屋警備に任じられたが、在邑のため14日に国元へ知らせが届いた。城代は土岐伊予守頼隆である。この加番役のため藩では上下川両郷において150両の御用金を集めている。
 4月8日には普請方より郡奉行宛、大坂行きの夫人(ぶひと)割りの書付が届けられ、直ちに上下川両郷へ人数の割り振りが申し付けられた。
 4月21日には直利が村松を出立し、会津回りで江戸に向かった。
 7月5日、大坂へ御供のうち村松衆が国元を出立し、役仲間が残らず鵰門(おおわしもん)まで出て見送った。12日に直利は江戸城に登って、相番の酒井石見守忠予、内藤式部少輔正友、酒井隼人忠胤とともに暇を給わっている。18日には江戸より飛脚が到着し、直利が江戸城での加番の暇が無事終わったむね伝えられ、残留組の家中全員が御祝儀のため陣屋に集まった。
 8月17日には大坂立帰りの地足軽などが次々と村松に帰ってきた。
 御雇中小姓の堀善左衛門(のち定右衛門)は、加番の供で木曽路を直登り(江戸に寄らずに直接国元から任地に赴くこと)をし、町宿より詰めていたところ、小姓に取りたてられて勤務した。年寄堀玄蕃直供は大坂表に詰めていたところ、父直高が死亡したため、同15年2月5日に大坂において家督をつぎ、2000石となった。
 翌15年8月28日に、加番の終わった直利、両酒井公、内藤公は、江戸城に登って将軍綱吉に拝謁した。

   第9回大坂加番
 堀左京亮直利が宝永元(1704)年に役高2万7000石で大坂加番中小屋警備に任じられた。城代は土岐伊予守頼隆である。この加番に、直利は鉄砲5挺、旗1本、長柄5本増を命じている。直利は在府中であったが、加番のために早めに暇を給わり、6月4日に村松に到着している。ほかの相番は石川近江守総茂、堀長門守直佑、京極主殿高之であった。7月13日に大坂行きの先発隊が村松を出発、同日巳之刻(午前10時ころ)に直利も出立した。
 2年9月1日、江戸城において加番の終わった直利、石川公、堀公、京極公は将軍綱吉に拝謁した。
 
   第10回大坂加番
 4代堀左京亮直為が、享保2(1717)年2月6日に役高2万7000石で大坂加番に任じられた。城代は内藤豊前守弐信である。直為(当時は直治と称す)は国元にいて、同月12日にこの知らせを受け取った。5月2日に江戸に向けて出立し、翌6月12日に江戸城において、相番の酒井石見守忠豫、京極主膳正高之、松平弾正少弼直員とともに暇を給わり、7月15日には江戸より大坂へ出立した。酒井公が山里丸、直為が中小屋、京極公が青屋口、松平公が雁木坂を警備したようである。定番は渡辺備中守基綱と松平大蔵少輔勝以であった。
 物頭上座の堀善左衛門(のち定右衛門)はこの加番の供をし、鉄砲役を無事に勤めたので、直為から帷子を拝領した。年寄岡本惣左衛門正方は、同年10月21日に大坂で没しているので、加番中のことであろう。
 翌3年8月5日に交替をし、18日には大坂から直下り(江戸に寄らずに直接国元へ帰ること)の年寄堀八郎兵衛政荘ら一行が村松に帰着した。直為は1度江戸に戻り、28日に相番の酒井公、京極公、松平公とともに、将軍吉宗に拝謁をしたのち、村松へは10月7日なって帰国した。

   第11回大坂加番代
 堀左京亮直為が享保7年9月晦日に、役高2万7000石で大坂加番代に任じられた。直為は在邑中であったが、10月4日にこの知らせを受け取っている。この加番ははじめ松平越中守正貞が山里丸に勤めていたが、在番中に死亡したため、急遽中小屋にいた松平玄蕃頭忠暁が代役を仰せつけられ、空席となった中小屋を直為が代役を勤めた。城代仮役は松平和泉守乗邑であったが、翌8年1月15日から酒井修理大夫忠音が城代として交替した。相番は山口伊豆守弘豊、井上筑後守正鄰であった。直為は7年11月1日に大坂へ向けて村松を出立したが、途中、信州川中島の丹波島宿が増水のため善光寺に逗留し、16日の昼に道中から直接大坂へ入城した。
 享保7年の『壬寅大坂詰着到』(『郷土村松』第37号所収)によると、加番の人数は家老以下、足軽・中間まで入れて334人、下人152人で、合計486人となる。この時の大坂詰衆は以下のとおりである。このうち※印の10名が兼任でダブっている(樋口平兵衛と小泉源十郎は3回出てくる)ので、人数の計算からは除いた。

 物 頭    堀定右衛門(家老)、堀主計(家老)
 持筒頭    野口彦兵衛(用人)
 鉄砲組物頭  剱持吉兵衛、寺本作兵衛、宇佐美甚内
 鉄砲組頭   村上縫殿右衛門、淵宋男
 持長柄組頭  槇政右衛門、星主馬
 内札場役   川口左力
 先長柄組頭  箕浦庄九郎
 普請方    近藤雲八、高橋為右衛門
 鉄砲役    伴郷左衛門
 奉行下役   森勘右衛門
 側 役    野口内喜、速水久太夫
 賄 役     野口嘉内、村井六郎兵衛
 勘定方    片桐猪三右衛門
 小納戸役   狩野与一右衛門、稲垣藤右衛門
 米 方    寺本次郎右衛門
 米 役    山田喜助、熊沢弾右衛門
 医 師    長沢祐善、佐々長庵、中島一睡
 小 姓    滝見多門、大野隼之進、林喜兵衛、淵十郎兵衛、山本角太夫、上松喜内
 供小姓    小林弥五右衛門、柴田近右衛門、野口庄蔵、中島之進
 中小姓   上松利兵衛、星名仁右衛門、米山角左衛門、星名佐次兵衛、上村猪野右衛門、佐
       久間小次左衛門、坂辺十次郎、小林伝太夫(町札場役)、小風伝左衛門(町札場
       役)、林儀右衛門、山崎弥右衛門、木村孫八、山崎十太夫、平井藤蔵、加納津左
       衛門
 茶 道   大河内土斎、清水市之丞
 次仕小坊主 浅間小右衛門、小玉権八、太田弥三右衛門、相馬治太夫、宮島勘兵衛、藤田藤
       兵衛、平野按針
 歩 行   小田風右衛門、松井新兵衛、※佐藤平左衛門、伊藤加太夫、牛丸伊右衛門、浅間
       佐十郎、岩淵与三兵衛、小田団次郎、石井民右衛門、佐藤勘助、中山忠次、山田
       由左衛門、※林形右衛門、吉岡清八、※樋口平兵衛、小島徳兵衛、渡辺文右衛門
       、八木兵右衛門
 物 書   吉岡公平左衛門、渡辺円八、山本金助、番場庄八、中沢弥次右衛門
 料理人   若林喜左衛門、山崎富右衛門、藤岡半七
 舂屋塩噌薪方高橋佐次兵衛
 膳部方   小田新五佐衛門、松井斧右衛門
 菓子酒方  桑原岩右衛門、昆野作右衛門、小田吉右衛門
 買手方   桐生半内、阿部長之丞
 食 焚   仁平、三吉
 定板前   長右衛門
 元締方物書 中村奥右衛門
 蔵手代   近藤善之丞、田中三右衛門
 旗 組   ※小田助之丞、足軽17人
 持 筒   ※小泉源十郎、持足軽18人小頭共
 先 手   ※青木四郎左衛門、足軽18人小頭共
       ※宮島勘太夫、足軽20人小頭共
       ※五十嵐四五左衛門、足軽19人小頭共
       ※樋口平兵衛、足軽20人小頭共
 持長柄   矢田源助、長柄者20人
 先長柄   ※長崎彦左衛門、※小林八右衛門、※小泉源十郎、佐々木弥五八、長柄者54人
 草履取   6人
 鑓 持   4人
 挟箱持   6人
 陸 尺   10人
 飼料役   1人
 供中間   5人
 町廻り   ※小田助之丞、※佐藤平左衛門、※林形右衛門、鶴巻彦次郎
 人割下組  ※小泉源十郎
 作事小買物方※宮島勘太夫
 鉄砲方   ※青木四郎左衛門、※樋口平兵衛 
 堀廻り   矢田孫八、高橋次助
 破損方    ※五十嵐四五右衛門、※小林八右衛門、※長崎彦左衛門
 小人頭   3人
 札場物書  好田武助、斎藤半七、小玉市右衛門
 下 人   152人
    総計 489人

 翌8年8月に交替をし、18日には直下りの一行が国元に帰着、江戸へも直為の一行が同日に帰着した。同28日、直為は相番の松平公、山口公、井上公とともに、江戸城において将軍吉宗に拝謁をしている。
 年寄役席の堀定右衛門政長は、享保7年10月に直為の供をして大坂に赴いたが、翌年交替ののち、村松に帰っていたところを江戸に呼び出されて、直為から直筆の5カ条の詰問状をつきつけられ、道中金の不足や、道中や大坂での番士の飲酒など勤方の不行跡を咎められて謹慎となり、翌10年に役と知行を召し上げられ、上川郷の宮寄上村、のち下田郷の栗山村に村内押込めを申し渡された。また治(はる)外記(当時は中島姓)が中小姓の時、同7年10月に急に直為が加番に任じられ、木曽路を上って大坂に供をし、翌年3月20日の加番中に供小姓にとりたてられた。

   第12回大坂加番代
 堀左京亮直為が享保20年(1735)2月7日に、役高2万7000石で大坂加番代に任じられた。直為は在邑のため、奉書をもって仰せつけられ、14日に国元に知らせが届いた。
 この加番は酒井山城守の代役であった。城代は太田備中守資晴、相番は堀田大和守正永、松平河内守直好、小笠原左衛門佐信胤であったが、堀田公が大坂で急死したため、9月15日に井上山城守正森が新たに任命された。5月11日に直為は江戸に向けて出立、7月1日には大坂に出発のため、江戸城において暇を給わっている。そののち大坂へ向かったが、道中で1日逗留し、7月晦日に大坂へ到着した。8月5日に前任者と交替をし、その知らせが17日に国元へ届いた。
 年寄片岡九左衛門美矩ら一行の村松から直登りに際し、目付の林武衛門ほか上下3人が鵰門で見送り、徒士目付が見廻りをしている。
 翌21(元文と改元)年8月5日に滞りなく交替を済ませ、片岡九左衛門をはじめ直下りの一行は17日に村松に帰国した。直為は26日に江戸に帰着し、28日には江戸城において、相番の松平公、小笠原公、井上公とともに、将軍吉宗に拝謁をしている。
 年寄役席の堀主税利明は加番の供を命じられ、7月2日に村松を出発、16日に直為の江戸発駕に従って大坂へ赴いた。翌元文元年に1年間の勤めを終えて、8月5日に交替をし、木曽路を通って「直下り」を仰せつけられた。また、用人の治外記は、享保20年2月に供を命じられている。目付の箕浦庄九郎は大坂登りの宿割り役も兼務した。青木剛八は享保20年の加番に持(持筒か)足軽御雇として従い、翌元文元年2月晦日に大坂城内において足軽に召抱えられ、山村頼母支配の行水番となり、3月27日には勤め方出精につき無銘白鞘の刀を拝領した。4月20には大坂京橋の同心で中島流砲術中島太兵衛の門弟となって鉄砲の稽古を仰せつけられ、行水方とともに勤めて、7月に鍛冶屋細工道具出し入れ役ならびに火矢細工相手道具出し入れ役となった。8月5日に交代となったが、帰路伏見において病気となり、同行の医師赤沢祐碩や小川以珀、丹羽林鐘の治療を受けたものの、父四郎左衛門と、同じ行水番の土田田野右衛門を看病のために残されて逗留、10日になって伏見を発ち江戸に戻った。他にも治下記や医師片桐陽慶もこの加番の供をした。

   第13回大坂加番代
 5代堀丹波守直堯(なおたか)が寛保2(1742)年2月5日に大坂加番代に任じられたが、在邑のため奉書をもって仰せつけられ、13日に村松に知らせが届いた。阿部摂津守の代役で、役高は2万7000石であった。城代は酒井雅楽頭忠知、相番は本多越中守忠如、渡辺越中守登綱、遠藤備前守胤将であった。直尭は7月16日に大坂に向けて出立、供は堀主税、片岡九左衛門らであった。
 年寄役席の堀主税利明は国元で勝手方郷方を勤めていたが、同2年に加番の供を命じられて江戸に上り、7月16日に直堯に従って大坂に赴いた。9月はじめに月番を1人で無事に勤めて御前で小袖と銀子を下され、翌年8月に交替して直堯と東海道を下って江戸に至り、そのまま江戸詰となっている。この加番中に高野山に先代直為の石塔が完成し、7月13日に加番中の工藤兵馬が代詣をした。側用人役の矢部権左衛門も加番の供をし、大坂詰中に長柄組を預けられて破損役を勤めた。
 直堯は翌年8月に無事役目を終え、帰路大井川が洪水のため逗留したものの20日に帰府、9月1日に相番の本多公、渡辺公、遠藤公とともに、江戸城で将軍吉宗に拝謁している。

   第14回大坂加番
 堀丹波守直堯が延享4(1747)年2月6日に大坂加番代中小屋警備に任じられた。直尭は国元のため奉書をもって仰せつけられ、12日に村松に知らせが届いた。中小屋の警備で役高は1万8000石である。
 直尭は5月12日に江戸に向けて出立、供は年寄片岡九左衛門美矩らであった。7月1日に江戸城において相番の松平山城守信将、本多越中守忠如とともに、加番のために暇を給わっている。もう1人の相番は土方丹後守雄房であった。城代は阿部伊勢守正就であったが、12月半ばに酒井修理大夫忠用と交替した。大坂へは7月晦日に到着し、8月5日に入城して無事交替したむね、19日に国元へ知らせが届いた。翌5年(寛延と改元)8月5日に交替を済ませ、直下りの一行は19日に村松に帰国した。加番の終わった直尭、松平公、本多公、土方公の4人は、9月1日に江戸城において将軍家重に拝謁した。
 賄役の堀助左衛門は大坂に供をし、青屋口の番頭を勤めるように命じられたため、人数を引き纏めて木曽路を直登して大坂に赴いた。この年直堯は勅使馳走役にも任命されていたので、大坂加番の方は家臣たちが勤めた。加番中に重要な用向きのある時は、年寄たちが相談して決めるように命じられている。役高が低いため兼任が可能になったと思われ、したがってこの時の加番の人数は少なかっただろう。
 堀玄蕃支配の青木剛八は倅剛四郎が幼年のため代勤をしていたが、同4年7月17日に直尭の供で江戸を発ち、8月1日に大坂の役人への使者を勤め、5日に交代につき青屋口番所を受け取って、直ちに勤務につき、同日に目明し・使者・火廻り役となった。10月1日には大坂の同心の中島太兵衛流鉄砲の稽古を仰せ付けられ、非番の時に出向いて稽古をした。翌5年8月5日に交代となり、直尭の京都東山高台寺参詣の供をし、東海道より江戸に戻った。
 同4年2月1日に家老連名で出された藩の財政再建策によると、大坂加番の時には、役料以外に金がかかった場合は勝手方全体のゆるみとして、借金買掛等を返済するように取り決めている。

   第15回大坂加番
 堀丹波守直堯が明和2(1765)年に大坂加番中小屋警備に任じられ、7月1日に江戸城において、相番の永井伊賀守尚備、阿部駿河守正賀、本多肥後守忠可とともに暇を給わった。城代は松平和泉守乗祐である。
 翌3年9月1日、加番から帰った永井公、阿部公、直尭、本多公の4人は、江戸城において将軍家治に拝謁をした。

   第16回大坂加番
 6代堀左京亮直教が天明8(1788)年2月2日に大坂加番中小屋警備に任じられた。同年7月1日に相番の大久保山城守忠喜、松平兵庫頭直行、柳沢信濃守里之の3人が江戸城で出発のための暇を給わり、賜物を下されている。直教は在邑のためこの席には出ていないので、村松から直接大坂に上ったようである。城代は堀田相模守正順であった。
 年寄の堀弾正利恒は同年2月15日に加番の供を命じられ、7月14日に直教の発駕に従って大坂に赴いた。翌年8月5日に交替となり、東海道を通って江戸まで供をした。9月1日には加番中の「申付け行届き、御蔵元の相談」がよろしくできたので、料紙箱縮緬3疋と肴を拝領している。使番の矢部万平も加番の供をし、道中物頭加役を仰せつけられて足軽組を召し連れ、郷渡川が満水のため美濃の加納駅に逗留したが、回り道をすることなって船路の見分を勤め、交代の際には小屋受取り役を勤め、大坂詰中には長柄組を預けられて破損役となった。翌年8月1日に滞りなく勤めたため褒美に銀2枚を下され、5日に交代して帰路の行列奉行に任じられ、同日に京橋先で武器・荷物奉行も勤めて用済みののち夜船で伏見駅まで行き、それより木曾を通って直接村松へ戻った。矢部万平の子で中小姓の弥門も加番の供をし、詰中に取次を勤めた。小姓上座の奥畑伝蔵も天明8年3月6日に加番の供を命じられている。物書の小島郡太左衛門は加番に従い、同地で森川曹吾に就いて書道を研究した。
 翌寛政元年9月1日、大坂から帰った加番の大久保公、直教、柳沢公の3人は、江戸城において将軍家斉に拝謁した。

   第17回大坂加番
 7代堀左京亮直方が寛政9年(1797)1月29日に大坂加番中小屋警備に任じられたが、直方は在邑のため、駅使をもって伝えられた。同年7月1日、江戸城において相番の内藤大和守頼由、内藤美濃守正国、田沼左衛門佐意壱とともに暇を給わり、恒例の賜物を下された。8月5日に交替して、翌10年8月5日まで勤めた。
 『徳川実紀』によると10年9月1日に江戸城において、加番帰りの直教、内藤公、田沼公の3人は将軍家斉に拝謁した。しかしこの時直教は隠居をしており、大坂に行ったのは直方公のほうと考えられるが、なにか事情があったのかもしれない。
 城代は同4年から長岡藩主牧野備前守忠精が勤めていた。
 もと年寄の堀主税利以は同9年閏7月17日に加番の供を仰せつけられ、8月5日に大坂に入城した。翌10年8月5日に1年間の勤めを終えて交替した。そののち、直方は堀家ゆかりの京都の高台寺に参詣し、伊勢神宮にも参詣して2日に江戸に帰着した。主税は江戸まで供をしたが、ここからは先に村松へ帰るように命じられている。同年8月1日に、主税は直方の御前において、加番中に「壱人役出精相勤め、御払方も相勤め候に付き」縮緬2反を拝領している。また側用人の森亘理は、同9年閏7月17日の発駕に従って東海道を通って大坂へ行き、加番中は御破損役を勤めた。翌10年8月に交替となり、直方の京都ならびに伊勢の参詣の供をしたのち、再び東海道を通って江戸に戻った。徒士の小島郡太左衛門も加番に従い、東海道を上って伏見船裁判を勤め、入城後は長柄小頭を勤めた。小納戸役の奥畑伝蔵も加番の供をしていたが、同10年3月の加番中に若殿直庸(なおつね)が病気につき、大坂から江戸表へ使者を勤め、8月に交代したのち京都および伊勢に供をした。小姓の矢部甚左衛門は加番の供をし、詰中に取次を勤めた。

終わりに
 村松藩は戊辰戦争で公文書を焼失したため、加番の全容は分かっていない。したがって加番の内容や性格を理解するには、他藩の資料なども参考にする必要があるだろう。だいたい加番の研究はあまりされていないようである。史書には加番は譜代大名が任命されたとあるが、堀家をはじめ外様でも任命されているので、本稿では「主として譜代大名が任じられ」に改めた。また、青屋口小屋、中小屋、雁木坂小屋の3加番は、1~2万石の大名が任命されたとあるのは、「1~3万石」に改めた。
 また、加番は村松藩士が上方の空気にふれて見聞を広め、武芸や学芸を修得する場でもあった。しかし太平の世であれば緊張感もなくなったようで、享保7年の加番のように、藩士の飲酒で家老が咎めを受ける事態もおきている。いくぶん物見遊山的な風潮もあったのだろう。

   (2011年5月村松郷土史研究会発行の『郷土村松68』に発表したものを流用しています)