村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
吉田東伍の『世阿弥十六部集』発見
明治42(1909)年2月に吉田東伍博士の校注により『世阿弥十六部集』(能楽会)が刊行された。これは前年の41年7月に能楽書を収集している安田善之助青年(のちの2代目安田善次郎)が、下谷の古書肆朝倉屋から入手した世阿弥の能楽伝書で、安田の松廼舎(まつのや)文庫に収められた。吉田は古書収集家岡田紫男にこのことを聞き、安田からこの本を借りてただちに翻刻と校訂を行い、『能楽古典
世阿弥十六部集』として出版した。
世阿弥は20篇におよぶ能楽論を書いたことは知られていたが、秘伝書としてごく一部の人に秘蔵され、数百年の間埋もれたままで世に出ることはなかった。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の佐藤和道は、この発見を、「伝説的な存在であった世阿弥の業績を明らかにする大発見であった」と評価し、「能楽研究の第一級資料として現在でも高く評価されている」(「世阿弥発見100年―吉田東伍と『世阿弥十六部集』―」)と位置づけた。
世阿弥の伝書は現在21部が確認されているが、そのうち16部(正確には『花伝』第六花修が欠けていて15部と)がこの松廼舎文庫本である。松廼舎文庫本には『風姿花伝』をはじめ、『花伝第七別紙口伝』、『花鏡』、『至花道』、『二曲三体人形図』、『三道』、『曲付次第』、『風曲集』、『遊楽習道風見』、『九位』、『五音曲条々』、『習道書』、『世子六十以後申楽談儀』、『夢跡一紙』、『去来華』、『金島書』が収録されている(村松ゆかりの日本学者ヴィルヘルム・グンデルトがこの『世阿弥十六部集』を読んで、ドイツ語の博士論文「日本の能楽における神道」や「世阿弥における幽玄の概念」を書いたことや、グンデルトと親しいドイツ人の日本学者ヘルマン・ボーネルが『習道書去来華』を出版し、グンデルトの弟子のオスカー・ベンヌルが論文「世阿弥元清と能の精神」を書いて、能をヨーロッパに広めたことは、すでに拙著『ヴィルヘルム・グンデルト伝』(私家本
2017年)に発表している。能が狂言とともに2001年5月にユネスコの「人類の口承および無形遺産の傑作」と宣言されて世界の能となったのも、『世阿弥十六部集』の発見や、ドイツの日本学者たちの努力によるところが大きいだろう)。
それ以前にも慶長年間(1596~1615)に刊行された『八帖本花伝書』の中に、『音曲口伝』と『風姿花伝』の一部が含まれていたり、明和9(1772)年に『習道書』が刊行されている。ほかにも観世家に『風姿花伝』の草稿の一部や、『申楽談儀』が部分的に残されていた。『世阿弥十六部集』発見の年の明治41年7月に、吉田東伍が柳亭種彦旧蔵の『申楽談儀』と小杉榲邨本を対校して『申楽談儀』(池内信嘉印刷)を刊行している(横山太郎「世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六部集』の意義について」による)。
ほかに、のちに発見された『花習内抜書』、『音曲口伝』、『五位』、『六義』、『拾玉得花』、『五音』の6書に手紙2通を加えて22部とする。
ところがせっかく発掘された松廼舎文庫本も、わずか15年後の大正12(1923)年の関東大震災で焼失してしまった。したがって、吉田による翻刻・刊行がなければ、これらの伝書は世に現れることはなかった。
しかしこの本は世阿弥の直筆ではなく、寛永(1624~44年)ころの書写といわれている(西野春雄「世阿弥・幽玄の思想」)。
なお、『世阿弥十六部集』の写本は浅草広小路の古書肆朝倉屋から安田善之助が購入したという。朝倉屋は元禄時代から続く老舗で、東京市浅草区北東仲町5番地の浅倉屋のことであろう。浅倉屋は当時下谷の横尾文行堂と並ぶ有名古書肆で、現在も13代目吉田茂樹氏が練馬区小竹町で(株)浅倉屋書店を営んでいる。
堀子爵家とは
さて、この原本の元の所蔵家は「旧華族某家」、または「堀子爵家」とある(横山太郎による)。
堀子爵家は旧大名で4家ある。
村松藩堀家 越後村松 3万石 上屋敷 下谷広小路
椎谷藩堀家 越後椎谷 1万石 〃 麻布竜土
須坂藩堀家 信州須坂 1万53石 〃 赤坂今井坂
飯田藩堀家 信州飯田 1万5000石 〃 向柳原
というように、すべて小藩である。これだけ見たらとても貴重な世阿弥の伝書を家蔵できるような家格ではない。もし堀子爵家が所有していたのならば、それなりの納得のいく理由があるはずである。なぜこのような小藩が将軍家や大々名家でも持ってない伝書を伝えることができたのか。それを検討するのが本論の目的である。なお村松、椎谷、須坂の奥田系堀3家は、明治10年6月22日に旧姓奥田に復姓しているので、正確にいえば同41年の時点では奥田子爵家となり、堀子爵家は飯田堀家のみとなる。小林責が伝書の家蔵堀家を飯田堀家の可能性が高いといっている(「世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六部集』の意義について」による)のは、この奥田復姓に関連した発言で、積極的な理由はないと考える。
堀4家の関係は次のようになる(略系図)。
堀秀政は信長、秀吉に仕え、越前北之庄29万850石の領主となった。嫡子秀治は秀吉に仕え、慶長3年には越後春日山城主として45万石を領し国主となった。同11年には秀治が没して嫡子忠俊が継ぎ、春日山から福島城に移ったが、同15年に堀一族の内紛により改易となった。忠俊の嫡男季俊はのちに加賀の前田家に1000石で仕えた。
飯田堀家は天正18(1590)年に堀秀治の弟親良が越前で2万石を相続し、翌年秀吉から羽柴姓を与えられた。慶長3(1598)年には越後蔵王堂に移って3万石となり、最終的に寛永4(1627)年には下野烏山で2万8300石となった。2代親昌は寛文12(1672)年に2万石で烏山から飯田に入封した。 11代親■(宝の下に缶)は水野忠邦の右腕として奏者番、寺社奉行、若年寄、側用人、老中となり、7000石を加増されたが、忠邦が失脚すると1万7000石に減知された。12代親義は寺社奉行、奏者番を務めたが、水戸天狗党事件の対応を咎められて1万5000石に減らされた。
なお、堀家については、飯田藩主の末裔堀直敬が『堀家の歴史』という直寄系も含めた詳細な研究書を出しているので参考にされたい(昭和42年 堀家の歴史研究会発行)。
奥田直政は若いころ従弟の堀秀政と先に高名をあげた方の家臣となることを約束したため直政は家臣となり、堀直政と改めた。秀政―秀治を補佐し、秀治が越後の国主となると直政は与力大名として越後三条城主となって5万石を領し、天下の三陪臣を称された。
堀直寄はこの直政の嫡男で、奥田系堀3家の宗家として越後村上藩10万石の領主であった。直寄については次項に詳しく述べる。
村松堀家は直寄の次男直時が藩祖となった。直寄没後の寛永16(1639)年10月22日に、幕府は直寄の遺領10万石を13万石に高直しし、10万石を直次の嫡子千介直定が継ぎ、3万石を直時に分領して安田藩が成立した(安田はのち保田と表記。つまり吉田東伍の出身地)。2代直吉の代の正保元(1644)年5月5日に領地替えがあって村松に移され、村松藩と改めた。
椎谷堀家は直政の5男直之が幕臣となって9500石を領し、子の直景が上総苅谷藩1万石の藩主となった。その子直良が上総八幡に移封となり、元禄11(1698)年に直宥が藩領を移され、越後椎谷に陣屋を営んだ。15代之敏は奏者番と若年寄、16代之美は奏者番となった。
須坂堀家は堀直寄の弟堀直重が大坂の陣の軍功により1万2050石領有し、元和元年に須坂を居所とした。のち同2年に直升の代で弟3人に分知して1万53石となった。13代直虎は若年寄、外国奉行となり、慶応4年(1868)年正月12日の江戸城における会議で大政奉還を進言して慶喜の怒りを買い、西の丸の大廊下で割腹して諌死した。
村上藩主堀丹後守直寄
村上藩の藩祖堀直寄(なおより)は天正5(1577)年に越後三条城主堀直政の嫡男として生まれ、14歳で秀吉の近侍(小姓)となり、しだいに頭角をあらわして、元和2(1616)年7月には8万石に加増されて越後長岡城主となった。この時代に長岡築城や新潟の港湾整備に功績があった。吉田東伍は「新潟に於ける直寄公の治蹟」に関して新潟で講演を行っている(日時不明。『松城史談』所収「隨得録」による)ので、直寄に関する知識はかなりあった。直寄は同3年12月21日には在府中であったが、武功老練の士として、丹羽長重、立花宗茂、細川興元ほかとともに将軍秀忠の御談伴(御伽衆)に任じられた。同4年4月9日には2万石加増され、10万石をもって越後村上藩に移封となった。寛永9(1632)年正月24日に秀忠が没すると、翌10年4月21日にはふたたび将軍家光の御談伴を勤めている。同13年に隠居して家督を長男直次に譲ったが、直次は同15年に25歳で没してしまった。直次は大老土井利勝の娘を妻とし、千助直定という嫡子があった。直次のあとを千介が3歳で相続したが、同19年に8歳で早世し、村上藩堀家は無嗣断絶となった。
直寄は家康の信任も厚く、家康が亡くなる前に直寄を枕元に呼んで、自分の没後に敵と戦う時は一番は藤堂高虎、二番は井伊直孝、脇備えの横槍は直寄に命じたという。
村上藩堀家の神田上屋敷は、現在の東京都千代田区神田小川町1丁目1番と11番、神田須田町1丁目2番と4番、および地下鉄丸の内線淡路町駅と、新宿線小川町駅の1部を含む3190坪余の、東西に細長い長方形の土地であった。
この新築なった神田上屋敷に、寛永6(1629)年12月26日に大御所秀忠が御成りになった。この時の御供は丹羽長重、藤堂高虎、立花宗茂であった。はじめに直寄に御腰物の助国の刀と貞宗の脇差、および金300両を給わり、長男直次に御腰物の来国光の刀、次男直時(当時は直重と称す)に御腰物の光忠の刀を下された。ついで直寄から則重の刀と来国光の脇差に白銀100枚、直次からは小袖10と太刀・馬代金、直時からは小袖5と太刀・馬代金が献じられた。そしてそれぞれ盃を給ったあと、茶事と猿楽が催され、「難波」、「箙」、「松風」、「鍾馗」、「海士」、「熊坂」、「祝言」が演じられた(『徳川実紀
大猷院殿御実紀』同日の条ほか)。
ついで翌7年2月13日に、将軍家光が御成りになった。供は前回と同じ丹羽長重、藤堂高虎、立花宗茂の3人と、本光国師崇伝(金地院崇伝)であった。まず三献の祝いのあと、直寄には御腰物の助光の刀、ならびに金200両、長男直次と次男直時が召し出されて盃を給わり、それぞれ御腰物の来国光の刀と国光の脇差を拝領した。そしてこの時も終日猿楽が催された(『徳川実紀
大猷院殿御実紀』同日の条ほか)。
この時の将軍家光の御成りについて、世間に伝えられた逸話が残っている。この予定を聞いた大御所秀忠は、もし将軍が直寄邸に御成りになれば、譜代の人たちも次つぎに将軍臨篭を請うことになり、そうなったら将軍がすべての御家人の邸に御成りになるのは不可能であるから、この際、御成りを中止するように仰せられ、一度は取り止めに決定した。それを聞いた直次の舅土井利勝がひそかに大御所に面会し、直寄が御成りを請おうと思って屋敷の普請に心力を尽くしているのは天下に隠れないことで、すでに完成したのに御成りがなければ直寄は他人にあわせる顔がなくなり、男を捨てて隠遁するほかあるまい、惜しい武士の廃るのは残念であると説得した。それで秀忠ももっともと思い、特別に許しが出たという。秀忠の天下が奢侈に流れるのを抑えようとする配慮もありがたいことだが、利勝の人の恥辱を救う志もまた情のあることだと、当時の人たちは話したという(『徳川実紀
大猷院殿御実紀』寛永7年2月13日)。
ところが秀忠の心配は的中して、直寄は調度品の収集などで贅をつくし、多額の借金に窮して、寛永11年には土井利勝を通じて幕府に2万両の借金を申し出、2万5000両を借りて急場をしのいだ。土井あての口上書によれば、数年買いためた諸道具を売れば2万両くらいにはなって、借金を返せるだろうと書いている。
直寄は晩年駒込の下屋敷に住んで政務をみていたが、これも寛永16年6月29日に63歳で没している。
直寄の下屋敷ははじめ現上野公園内にあったが、元和8(1622)年12月に寛永寺の建立が決まり、堀家と藤堂家、津軽家の屋敷地が幕府に返納され、堀家は駒込に下屋敷を移された。
この駒込下屋敷には、紫衣事件で出羽の上山藩に預けられていた沢庵宗彭が寛永9年の夏に赦されて江戸に戻り、冬に移り住んで、同11年に帰洛が赦されて6月18日に下屋敷をあとにして京都大徳寺に帰っている。直寄が亡くなる40日ほど前に、沢庵はわざわざ下屋敷へ見舞いに訪れている。
村松藩の能楽
村松藩堀家は初代直時―2代直吉―3第直利―4代直為―5代直堯―6代直教―7代直方―8代直庸―9代直央―10代直休―11代直賀―12代直弘と続いた。寛永6年に大御所秀忠から光忠の刀、翌7年に将軍家光から国光の脇差を拝領したのがこの初代直時であった。
本家の村上藩堀家が改易になって、直寄が秀吉から拝領した天下の名物といわれる能の僻面4枚(僻面は資料のママ)と、同じく鯰尾の兜と、直寄公寿像、伝一休作の尺八、伝沢庵作の尺八は村松堀家が相続し、家宝として代々伝えたが、兜のほうは天和2(1682)年に江戸大火(12月28日のお七火事か)のために上屋敷が類焼して焼失した。江戸時代は江戸の大火が多く、のちに述べる村松藩堀家の下谷広小路の上屋敷は、江戸時代を通じて9回の類焼と、安政大地震による1回の倒壊が記録されている。世阿弥伝書の原本が残らなかったのは、このような過密都市江戸の事情にもよるだろう。しかし観世家や宝生家などとちがい、大名家では国元にそれらを保管して焼失から免れることもできた。
また、家康や細川幽斎らが世阿弥伝書の写本を作らせたのは知られているが、徳川家本は明暦3(1657)年正月の明暦の大火で江戸城が類焼し、文庫も焼けたので、この時に焼失したようである。
なお、村松藩堀家伝来の僻面は正月の御謡初に用いられた。御謡初は正月3日に江戸城において催され、参勤中の諸大名が登城して式に参加し、終わってから藩邸に戻って自分の謡初を行った。御謡初には大名が役を勤め、元禄15(1702)年に3代直利が勤めたことが記録されている(梁取耕平「村松の謡曲」)。直利は外様の小大名ながら、宝永2(1705)年から5年まで異例ともいえる奏者番兼寺社奉行を勤めており、幕府の信任が厚かった。
9代村松藩主堀丹波守直央
堀丹波守直央(なおひさ)といっても村松以外ではほとんど知られていないだろう。上野公園内の大仏山に安置されていた上野大仏を改鋳(新鋳とも)したのがこの直央であった。大仏は直央が天保14(1843)年に新鋳したものの、安政2(1855)年の大地震と、大正12(1923)年の関東大震災で首が落ち、現在は顔の部分だけが残っている。「これ以上落ちない」と縁起をかついで合格祈願に訪れる受験生が多いと、最近マスコミをにぎわしている。
ちなみにこの上野大仏ははじめ直寄が寛永8年に自邸内に丈六の土大仏として造立したもので、正保4(1648)年5月14日の大地震で大破した。その取り片づけを村松藩の堀直吉が幕府から命じられている。そのあと木食僧浄雲が明暦・万治のころ(1658年ころ)に青銅仏として再建した。ところがこれも天保12(1841)年12月11日に火災にあい、首が落ちたという。
そして直央の能にたいする執心は半端でなく、日ごろ藩内で能楽を興そうと志していた。たまたま幕府の観世流能楽師梅若三郎の家が火災で焼失した時、ただちに見舞いの使者を送り、かつ、藩邸の空き家へ避難を勧めたので、三郎は新邸が完成するまで逗留した。そして直央の志と厚意に感激した三郎は、仮住まい中に直央をはじめ家臣たちに能の秘訣を伝授したため、村松藩では多数の名人を輩出した。謡曲の赤沢玄亀、長野為右衛門、松井新兵衛、小鼓の近藤貢、大鼓の恩地庫太、横笛の林仲太、舞曲の野口左源太、近藤幸左衛門、岡本定之丞が当時の名人であったという。直央もまた朝夕三郎を招いて能楽を学んだ。三郎は大中の大名家から招待されて忙しかったが、藩邸逗留中は諸侯に病気といつわって断り、他藩の人たちをうらやましがらせた。この寄寓中に、直寄が秀吉から拝領した僻面4面を三郎が見て、「垂涎万丈」であったと村松では伝えている(梁取耕平「奥畑義平稿
村松ノ能楽」)。
そのあと直央は大々名が持つような能装束や楽器をそろえたが、戊辰戦争の兵焚にかかってことごとく焼失したという。その際僻面4面も焼失したらしい。
村松では能はそののちも盛んにおこなわれ、梁取耕平の「村松の謡曲」には大正時代、昭和時代の活動ぶりが書かれているが、観世流の流れをくむ村松鶴諷会の会員は昭和56年現在82名におよんでいる。ちなみに城下町村松の人口は9500人くらいであった。前述のグンデルトも、明治43(1910)年6月から大正4(1915)年夏までの5年間に村松町で伝道をしていた際、歯科医の佐藤久吾に謡曲を習ったのが能とのつきあいの始まりであった。
村松藩の上屋敷と12代堀貞次郎直弘
村松藩堀家の下谷上屋敷は、現在の東京都千代田区外神田3丁目8番と10番の大部分、および7番の1部にかけてあり、わずかに6番にも細長く突き出た3667坪であった。地下鉄銀座線末広町駅の西南街区の角にあたる。『武鑑』では堀家の屋敷の住所を「下谷広小路」としている。屋敷の北を蔵前通り、東をかつて下谷広小路、俗称下谷御成道とも呼ばれた中央通りに面していた。堀子爵家本を売りに出した下谷の古書肆朝倉屋は浅草の浅倉屋の間違いだが、下谷にも古書肆横尾文行堂が堀家の近くであった。
明治維新の明治元(1868)年8月に上屋敷は新政府によって収公されたが、改めて旧主の直弘に与えられた。同5年に堀家の屋敷は末広町に併合され、末広町10番ノ1となった。そののち屋敷内の建物の1部が貸し出され、同10年には旧家臣の植村丑蔵が堀家の家従兼貸長屋差配人となった。
堀直弘は万延2(1861)年2月に直央の2男として生まれ、慶応4(1868)年の戊辰戦争時にはまだ7歳であったが、勤王派にかつがれて新政府軍に帰順し、本領を安堵された。12月7日に正式に家督を継いで第12代藩主となった。廃藩置県をうけて明治5年に村松を去り、末広町の藩邸跡に移り住んだ。
直弘は明治14年4月に東京の和久井久治郎が設立した東北銀行の設立発起人となり、末広町10番地の旧藩邸内に本店がおかれた。5月には村松支店設立の発起人となったが、銀行は同18年に和久井の杜撰な経営によって倒産し、村松銀行として再生した。しかしこの事件のため、奥田家は資産の半分を失ったといわれている。そのせいか同19年に村松に帰住したものの、同24年にふたたび東京に移住、のちに大磯の別邸に閑居した。大正8(1919)年に村松(東京とも)において59歳で没した。妻は7卿の1人沢為量の孫貞子だが、のちに離縁した。
末広町の旧藩邸がいつ手放されたかは不明である。明治16年8月20日に直弘の2男赴がここで生まれているので、このころはまだ屋敷は堀家の所有であった。しかし同45(1912)年4月25日発行の『東京市及接続郡部
地籍台帳』(東京市区調査会)によると、末広町10ノ1の宅地2985,02坪はすべて日本橋区通旅籠町14の堀越角次郎の所有となっており、地価は4万6267,81円であった。もとの3667坪よりだいぶ小さくなっているが、道路の拡張や末広町交番の設置などで削られたからであろう。
まとめ
このように見てくると、『世阿弥十六部集』の家蔵堀子爵家を村松堀家とする決定的な証拠はなかったが、状況証拠は十分村松堀家であることを指している。むしろ他の3家とする根拠は今のところほとんどない。
まず宗家の村上藩主堀直寄には世阿弥伝書を書写するだけのネットワークと力があった。堀子爵家本が寛永のころに作られたものならば、直寄の全盛期に合致する。寛永6年の大御所秀忠と7年の将軍家光の御成りの際の猿楽の上演は、当然のことながら当時第一級の能楽師によって演じられたものであろう。そして邸宅内の能舞台の建設にも、これらの人たちが助言者として関わっていたと考えられる。
村上堀家の個人資産を引き継いだのは村松堀家であるから(借金も含む)、村上堀家に世阿弥伝書があれば村松堀家が継承したことになる。ただしそのころはまだ江戸時代の写本ということで、たいして価値のある財産とは思われていなかったと考えられる。
以上で村松藩主堀侯が代々能に熱心なのは理解していただけたと思う。なお、江戸時代の能の資料に堀三十郎、堀左京亮、堀丹波守、堀丹後守とあれば村松藩堀侯のことである。堀家は直弘のあと―直元―直秋と続き、そのあとは養子が継いで現在に至っている。
《主な参考・引用文献》横山太郎「世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六
部集』の意義について」『超域文化科学紀要』9―ネットの記事による。佐藤和道「世阿弥発
見100年―吉田東伍と『世阿弥十六部集』―」ネットの記事による。西野春雄「世阿弥・幽
玄の思想」『別冊太陽 能』所収 平凡社。表 章「能の歴史」『別冊太陽 能』所収 平凡社。
堀直敬『堀家の歴史―飯田・村松・須坂・椎谷』堀家の歴史研究会。梁取耕平「奥畑義平稿
村松ノ能楽」『郷土村松』第22号所収。梁取耕平「村松の謡曲」『郷土村松』第27号所収。
黒板勝美編『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川実紀第二編 大猷院殿御実紀』吉川弘文堂。
(この論文は書きおろしです 2018年9月6日up 11月10日微修正)