村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
同盟軍の越後出兵数
戊辰戦争越後戦線における奥羽越列藩同盟軍は、大山柏の『戊辰役戦史』での推定で8000名内外であったという。しかし、これは地元諸藩の防衛軍が中心であるから、どこまでを兵員として数えるか難しく、今のところ正確な統計は出ていない。越後の諸藩は城の守備兵も入れて家臣全体を数えるか、出兵したものだけを数えるかによっても違ってくる。しかし、それについても出兵員数に関する確かな資料が乏しい。
たとえば村松藩の場合でみると、『復古記』では5小隊(150~200名くらい)出兵となっているが、出兵は19小隊と4組手であり、750名くらいと推定できる。残り200名ほどが村松城に残って藩主を守護した。公式記録は各藩の書上などによって作成されたものだが、少なくとも、村松藩の場合は今までいわれてきたことと全く違っており、各藩のさらに詳しい調査が必要であろう。
同盟諸藩の出兵状況は、明治5年ころに大蔵省がさかのぼって調査した(『明治政覧・日本帝国形勢総覧』)戊辰戦争のころの家臣数(士卒数)を、参考までに載せると次のようである。
明治5年調査の家臣数 越後での出兵数
新発田藩 3102名 400余名(600余名とも)
長岡藩 2155名(ママ)26小隊
村松藩 959名 19小隊と4組手。750名くらい出兵か
村上藩 778名 310名か
三根山藩 124名 48名か
黒川藩 156名 未詳
――本国越後以外の出兵藩――
会津藩 3356名 約1300名か
米沢藩 5971名 2245名余と30小隊(900名か)、ほかに大隊長長尾権四郎隊
(300名か)。合計3445名くらいか(支藩米沢新田藩を含
む)。ほかに越後で募集した農兵済民隊150名
桑名藩 1325名 200余名と柏崎陣屋の役人約100名
上ノ山藩 428名 180名か
庄内藩 4408名 2小隊と銃隊10小隊、大砲隊4分隊ほか計655名。ほか農兵多
数 合計1080名ほどと
仙台藩 7248名 5小隊か
山形藩 廃藩 200名くらいか
天童藩 355名 13名(6月現在)か
沼津藩 644名 100余名(五泉陣屋の青竜隊。ほか農兵約40名)
佐倉藩 1474名 未詳
幕府脱走兵 900余名か(衝鋒隊、新遊撃隊)
水戸藩脱走兵 532名(600余名とも)
うち、明治2~3年ころの太政官調査による兵数は、新発田藩1640名、長岡藩828名、村松藩1102名、村上藩160名ほか未編制兵180名(ママ)、三根山藩58名、黒川藩80名となっている。
これによると、米沢藩は家臣の半数以上3450名ほどの兵力を越後に送りこみ、越後では最大の勢力となっていた。
同盟軍越後口総督の任命
5月19日(新暦7月8日)の第1回長岡落城ののち、会津、桑名、長岡藩の将兵は大きく後退して桑名藩の預り地加茂に集結し、諸藩で協議のうえ、加茂に同盟軍の会議所を置くことにし、そこが同盟軍山道方面隊の本拠地となった。
5月22日(新暦7月11日)の正午過ぎに、この加茂会議所で軍議が開かれ、各藩からは以下の人たちが出席した(『戊辰戦争始末録』『松城史談 23号』『米沢藩士甘粕継成日記』『米沢市史』)。
米沢藩 大隊長中条豊前、参謀甘粕備後、軍監倉崎七左衛門、同高山与太郎、軍目付大滝
甚兵衛、他2~3名
会津藩 総督一瀬要人、軍事奉行西郷源五郎、山田陽次郎、軍事奉行添役柳田新助、同秋
月悌次郎、永岡敬次郎、他2~3名
長岡藩 総督河井継之助、軍事掛り花輪求馬、同三間市之進、同村松忠左衛門(忠治右衛
門とも)、他4~5名
桑名藩 軍事奉行金子軍太左衛門(権左衛門とも)、同小寺新五右衛門(新左衛門とも)
、村松五次右衛門、隊長松浦秀八、同立見鑑三郎
上ノ山藩 祝(はふり)段兵衛
村上藩 水谷孫平治
村松藩 年寄森重内、用人田中勘解由、軍監近藤貢、軍事方稲毛源之右衛門、軍事掛り前
田又八、同斎藤久七、軍事掛り随役坪井静作、同林弘助
この日の軍議で、米沢藩の中条豊前を越後口同盟軍の主将とするよう一瀬要人から提案されたが、中条はこれを固く辞退した。
この日の軍議では(23日とも)甘粕備後の提案で全軍を3つに分け、第1軍は中条豊前が総帥として米沢軍と会津の衝鉾隊を合兵して長岡口大面に進軍のうえ見附を占領する。第2軍は一瀬要人が将として会津、桑名、村上、上ノ山の兵を率いて与板口に進み、三条から地蔵堂に進撃して与板城を攻略する。第3軍は会津、庄内、山形、三根山、水戸脱走兵をもって出雲崎口に進撃することとし、ただちに進軍するように決定した。
6月3日に、米沢藩主上杉斉憲が同盟軍を督励するため、兵を率いて米沢を出発、6日に同藩の預り地である越後の上関(現関川村上関)へ出陣してきた。従う者は支藩米沢新田藩の世子上杉勝賢、国家老竹俣美作、参政中里丹下、以下1000余名であった。ここで斉憲は渡辺三左衛門邸(現関川村下関)を本陣とした。
上杉斉憲の越後出馬は、閏4月18日の会津会談で、米沢藩の担当部署が越後方面と定められたことによる。それにより、越後戦線における米沢藩の主導的立場が明確となった。
この上杉斉憲の越後出馬を受けて、同盟諸藩の重臣たちは、評議の結果、斉憲に越後戦線での総指揮を求めて、次のような歎願書を提出し、結束の強化を図った(『米沢藩士甘粕継成日記』)。
此の度其れ 太守様、当国へ御出馬遊ばされ候処、元来軍事の儀は政令一途に出ずしては※分 数相立たず、全勝の道覚束なく存じられ候。依ってこれ方今の軍事の事、総て 太守様の御指 揮を仰ぎ奉り度く、一同懇願奉り候。右の段速やかに 仰せ上げられ、御許容成し下され候様 、御取り計らいの程頼み奉り候。以上。
六月 上ノ山家老 松平誠之進
村松 同 森 重内
山形 同 大道寺源内
村上 同 久永惣左衛門
長岡 同 河井継之助
桑名 同 服部 半内
庄内 同 石原 多門
会津 同 一之瀬要人
千坂太郎左衛門殿
※分数 分はけじめ、数は同列の仲間、または謀りごと。
6月13日に会津藩の佐川官兵衛、木本信吾、米沢藩の千坂太郎左衛門、松本精蔵、大石琢蔵、長岡藩の河井継之助、村松藩の堀右衛門三郎、稲毛源之右衛門、坪井静作らは見附に集まり、翌14日に行われる総攻撃の軍議に出席した。
13日の軍議の席上、佐川と河井は越後口同盟軍に総督がいないのを憂い、烏合の衆となるのは敗軍の基であるといって、新たに千坂を越後口同盟軍の総督に指名し、同藩の甘粕備後を参謀に任命、同盟諸藩兵を統一して指揮させることに決定した(『米沢市史』『米沢藩士甘粕継成日記』『戊辰事情概旨』『溝口直正家記』『北陸道戦記 第十一』『戊辰役戦史 上巻』)。
『米沢市史』――上杉斉憲、下関に出陣せるを聞き、諸藩の将連署して全軍を指揮せられん
ことを請ふ。是れより先、千坂太郎左衛門、推されて越連合軍の総督とな
り、甘粕備後は同じく参謀と為る。
『 〃 』――時に奥羽同盟軍は(中略)米沢の老臣千坂太郎左衛門高雅を総督とし、甘
糟備後継成を参謀とし、寺泊駅以東栃尾駅に至る要衝に分拠し、以て官軍
に対す。
『米沢藩士甘粕備後日記』――十三日(中略)此に至りて佐川、河井評議の上、深く千坂総
督を推して諸軍の総将とし、大小となく号令を下さん事を乞う。(中略)
依之、不得止総号令を主とする事を領掌し、爾後諸藩共に千坂太郎左衛門
を単に総督と称し、余を参謀と単称して名をいはず。
『戊辰事情概旨』――十三日諸藩を会し、大に軍事を議す。(中略)会津容保書を其家老一
之瀬要人に与へて曰、米沢侯既に軍を越後に進む、侯の命猶我が命の如し
、敬て侯の指揮を承くべしと。故に要人も亦深く太郎左衛門を推す。君の
指揮猶侯の指揮の如しと。是に於て両人止むを得ず、太郎左衛門越地諸藩
の総督たり。備後参謀たり。
『溝口直正家記』――翌十四日見附へ著陣す。当所には米、会、仙、長岡、村上、村松等の
藩々出兵、所々対塁を築き、度々砲戦之由、総隊長米藩千阪太郎左衛門諸
軍を指揮す。
『北陸道戦記 第十一』――上と同じ
『戊辰役戦史 上巻』――同盟側はその前日である六月十三日の軍議において、新たに米藩家
老千坂太郎左衛門を総督に、同藩の甘粕備後を参謀とした。
米沢藩の越後口総督色部長門は、同盟軍の指揮を当時28歳の千坂に任せ、自分は新潟港総督となって赴任した。これ以後、諸藩では名前をいわず単に総督と呼ぶと千坂総督を指し、単に参謀というと甘粕を指した。ただし、信濃川西の与板口の総軍は会津藩の一瀬要人が主として指揮し、海手側寺泊口の諸口は庄内藩の石原多門が主として指揮することに決定した。
会議では諸藩が会して佐川と河井が米沢藩による統率を願ったが、米沢側でははじめこれを承けなかった。この会議の前に、会津藩主松平容保は一瀬要人に手紙を送り、米沢藩主上杉斉憲が越後に出馬したうえは、斉憲の命令を自分の命令と思い敬って従うように伝えていた。そのため一瀬も強く千坂の総督就任を推薦し、千坂の指揮は主君の指揮と同じであると説得したため、ついに千坂もこれを承認したという。
同盟軍総督の称号
新政府軍は、7月に北越での兵力の増強を計り、さらに、11日には諸藩会議所を信濃川対岸の関原から長岡城に移した。7月上旬ころの新政府軍の兵数は26藩1万1860名プラスアルファ親兵・徴兵、福井藩兵、高田藩兵であった。さらに7月20日に7藩371名が柏崎に上陸した。そして10月ころの新政府軍の最終兵力は、44藩2万8795名プラスアルファで、3万名をこえている。
一方、同盟軍は、7月14日に越後口の総督に米沢藩の千坂太郎左衛門のほか、会津藩の一瀬要人を軍議所総督に任命して事実上2人制とし、信濃川を境に東西を分割指揮させた。これより、一瀬は水陸交通の要衝島崎(現長岡市島崎)に設けられた軍議所に詰め、軍議所総督と称した。しかし千坂総督の統一的指揮権はゆるがないので、軍議所総督のことはあまり知られていない。そして越後の軍務総括は米沢藩の上杉斉憲に各藩出張の隊将から依託することにした(「戊辰庄内戦争録 巻三」)。これにより、北上する新政府軍の海道軍を迎え撃つ日本海側の同盟軍の総軍を一瀬要人が指揮し、山道軍を迎える山手側の総軍を千坂が指揮した。
越後口同盟軍の総督、および参謀を整理すると次のようになる。
越後口軍務総括 上杉斉憲(米沢藩)7月14日より本陣下関
越後口総督 千坂太郎左衛門(米沢藩)6月13日より 7月14日からは信濃川から東を監督
する 会議所加茂
軍議所総督 一瀬要人(会津藩) 島崎軍議所で7月14日より信濃川から西を監督する
越後口参謀 甘粕備後(米沢藩)6月13日より
また、同盟軍では地域ごとに方面軍総督を任命し、本陣を設けていたようである。全体像は明らかでないが、部分的には資料が残っている。
見附方面総督 中条豊前(米沢藩) 5月22日の資料
与板方面総督 一瀬要人(会津藩) 〃
鹿峠口総督 河井継之助(長岡藩) 〃
新潟港総督 色部長門(米沢藩) 6月13日より 本陣新潟町
与板口総督 一瀬要人(会津藩) 〃
寺泊口総督 石原多門(庄内藩) 〃
栃尾口仮総督 斎藤主計(米沢藩) 7月26日の資料
栃尾総督 千坂太郎左衛門(米沢藩) 本陣栃尾 7月29日の資料
杉沢総督? 牧野頼母か(長岡藩) 本陣杉沢か 〃
塔ケ沢(塔ケ峰とも)総督 森重内(村松藩) 本陣塔ケ沢(塔ケ峰とも)
7月29日の資料
これによると、千坂は越後口総督でありながら、7月29日には栃尾の前線にいて栃尾総督も兼任し、同方面軍を指揮していた。しかし米沢藩の資料では、千坂はすでに、6月21日には村松藩領傍所(現見附市傍所町)の陣営にいて見附方面の戦闘を指揮しており、7月5日にも見附にいたから、ここが実質的な総督本陣となる。
なお、新潟港総督は幕府の新潟奉行所を引き継いだもので、新潟の町と港を管理し、軍事よりも政治的な色彩がつよく、同盟軍の外国との窓口とし、武器の購入などに利用された。そのため、兵力も多くはなかった。
6月1日以降に新潟会議所に詰めた人名をみると、列藩同盟軍側が新潟港をいかに重視したかがわかる(『復古記 第十三冊』『新潟開港百年史』『訂正 戊辰北越戦争記』)。
仙台藩 家老芦名靱負、監察牧野新兵衛、玉虫左太夫、富田敬五郎、横尾東作、金成(かん
なり)善左衛門、星恂太郎、新井常之進
米沢藩 家老色部長門、大滝新蔵、佐藤源右衛門、黒井小源太、山田八郎、落合竜太郎、
宇佐美勝作、小田切勇之進
会津藩 家老梶原平馬、手代木直右衛門、神尾鉄之丞、唐沢源吾、萱野安之助、片桐弥九
郎、田中茂手木
庄内藩 中老石原倉右衛門、本間友三郎
村上藩 用人近藤幸次郎、平井伴右衛門、鈴木四郎右衛門
二本松藩 奥田弥平右衛門(弥平左衛門とも)、山田次郎八
新発田藩 家老溝口内匠
これとは別に、藩ごとに越後での軍事総督がいたが、混同しないよう区別する必要がある。
米沢藩総督 色部長門 5月10日より
米沢藩総督 千坂太郎左衛門 5月23日より
長岡藩総督 河井継之助
村松藩総督 笹岡豹五郎
会津藩総督 一瀬要人 3月12日より
米沢藩では5月23日より総督を色部と千坂の2人制とした。ほかにも衝鉾隊隊長の古屋佐久左衛門を衝鉾隊総督としているものもある(『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』)。
(この論文は2019年1月31日発行の拙著『越後村松藩の戊辰戦争』(私家本)からまとめたもの
です。2019年1月3日up)