村松士族の西南戦争

     警視徴募隊資料
         村松士族の西南戦争

                    村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 明治10(1877)年2月に西南戦争が勃発し、薩摩の私学校党は陸軍大将西郷隆盛のもとに、「今般政府へ尋問の筋あり」として、2月15日に約1万3000名が鹿児島を発進して熊本に向かった。途中県下および九州各地の士族が加わって3万余人となり、さらに九州をはじめ全国各地からも参集して、最大時にはその数約4万2000名にも達したという。
 それに対し、政府は徹底的に鎮圧する方針を決め、2月19日に鹿児島暴徒征討の詔を発した。この日、有栖川宮熾仁親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋を征討参軍、海軍中将川村純義を征討参謀に任命した。翌20日に征討総督は陸軍を率いて東京を出発、26日に福岡に到着してここを本営とした。
 西南戦争における征討軍は最終的に陸軍5万8000名余、海軍2200名ほどであった(合わせて6万838名とも)。開戦時の現役部隊は軍属を入れても約4万人で、すべてを戦争に投入したため徴兵常備軍はつきてしまい、各地の士族を臨時巡査として徴募して、それを別働第3旅団4759名(うち徴募隊842名、新徴募隊992名)、新撰旅団4200余名に編入して戦地に送った。そして大警視川路利良が陸軍少将兼任で別働第3旅団長を勤め、新撰旅団長は司令長官東伏見宮彰仁が勤めた。この臨時巡査による徴募警視隊約9500名を含め警視隊総計約1万3000名ともいわれ、戦死者は834名(585名とも)であった。
 薩摩軍は北上して2月22日に熊本城を包囲し、熊本鎮台の司令長官谷干城少将以下の鎮台兵2915名と、救援に駆けつけた警視隊約600名、合計3515名は籠城の態勢をとった。3月に入ると本州から征討軍が続々と到着し、20日には田原坂で薩摩軍を破った。

 警視隊の募集
 当時は国民皆兵制度で、政府軍は徴兵に頼っていたが、そのほとんどは農民出身であったため、訓練に時間がかかる徴兵より、則戦力となる士族を募集し、国民皆兵制度と矛盾しないように臨時巡査として採用することになった。それでこの警視隊には戊辰戦争の実戦経験者が多く採用されたようである。そして勇猛な薩摩軍の白刃攻撃に対抗するため、警視隊の中から選抜して、抜刀隊を組織した。これがいわゆる警視庁抜刀隊である。
 3月20日に政府が旧士族有志の徴募を通達すると、新潟県では25日に高田士族259名がまず応募し、続いて4月24日までに長岡士族80名、村上士族56名、新発田士族471名、与板士族39名、峰岡士族23名、清崎士族23名、三日市士族23名、村松士族50名、津川住士族64名、相川住士族16名など、計1104名が従軍を願い出た(『新潟県史 通史編6 近代一』所収『稿本新潟県史』より)。ただしこれは応募者数であるから、実際の従軍数とは違っているだろう。
 また村松には新潟県令の永山盛輝がしばしば訪れ、政府軍への従軍を説いたため、片岡九左衛門と川口佐内らがこれに応じて、警視隊に入隊したともいわれている。
 村松士族の応募が出遅れたことは、『新潟新聞』4月17日の「雑報」欄に、

 一県下の士族にも其の気風は種々にて、先ごろ召募したる高田の士族五十名のごとき
は、実に身を忘れて勇ましく出立したること、当新聞第四号にも記載したれば、之を読まれし者は已に知られたるなるべし。長岡の士族五十名は、何れも樫棒を抱くを望まず、若し又抜刀隊へ編入せらるる事ならば速やかに出立つし、一死を以て国恩の万一に報答せんとの事なり。村松の士族は未だに決定せず、次第に因り県官より五(御)説諭になるべしと云う。又、新発田の士族は 何にも畏れり。然れども戦地に向かうは死を極めざるべからず、故に吾等戦死するの後、妻子を養うのに手当を賜わらば募に応ずべしとの事。村上・与板等の士族は定めし勇気を励まし旅装を整え、今や遅しと命の下るを待ち構えて居るなるべしとは想像すれど、未だ其の評判は聞かざりし。

 とあってそれを裏付けている。一般に応募者数は戊辰戦争で朝敵とされた藩や、過酷な戦いを強いられた旧藩士族が多かったといわれているが、これらの藩は戦後の減知率も高く、家臣は経済的に窮乏していた。その点、村松藩は藩論が二分したものの、後半戦では新政府軍に加わり、旧禄を襲封することができた。
 村松士族の警視隊への従軍者数は不明であるが、判明するのは以下の22名である。

 小野英的  (旧名片岡九左衛門)元物頭上座 海防方300石(軍曹)
 川口佐内  元目付使番 180石 (軍曹)
 長野政豎  旧役職・旧禄不明 3等巡査 戦死
 佐合政興  元中小姓 旧禄3人扶持給米7石 戦病死
 佐藤勝純  旧役職・旧禄不明 戦病死
 中村利木  旧役職・旧禄不明 警部補 戦死
 佐藤英次   (伍 長)
 酒井恒和   (伍 長)
 吉田重孝   (伍 長)
 熊倉嘉蔵   (伍 長) 4等巡査心得 負傷
 佐久間樫郎  (兵 士) 4等巡査心得 戦死
 林 助蔵   (兵 士)
 今坂栄次郎  (兵 士)
 飯利皓曹   (兵 士)
 淵 長令   (兵 士) 4等巡査心得 負傷 元小姓 旧禄5人扶持給米7石
 高岡茂賀   (兵 士) 4等巡査心得 負傷
 林 諄平   (兵 士)
 矢部金五郎  (兵 士)
 淵 長督   (兵 士) 4等巡査心得 戦死
 市川虎次郎  (兵 士)
 小黒栄吉   (兵 士)
 塚野重房   (兵 士)

 他に伍長吉田勇七、兵士熊倉金五郎、同田中正之(年寄田中正信または用人田中正員の一族か)、同滝見鎮蔵、4等巡査の淵長義(淵長令か淵長督の一族か)という人物が従軍していて村松士族らしいが、確認する資料がない。なお資料により警察での階級で書いているのと、軍隊の階級で書いているのがあり注意を要する。
 警視隊に入隊するについては、各人それぞれ事情があったろうが、これらの人たちは戊辰戦争時の賊軍の汚名を晴らそうとし、また薩摩に対する復讐のため、低い地位に甘んじて従軍したといわれている。このように警視隊は戊辰戦争で朝敵とされた東北や北陸の士族を主として募集し、彼らの敵愾心をうまく利用した面もあるが、士族側でも廃藩後の失業状態から脱出できるという実利もあった。これを考えたのは高田出身の内務官僚前島密だそうで、高田士族の応募者数が突出しているのは前島との関係が深かったからかもしれない。この時は臨時巡査の募集であったが、戦後に警視庁へ正式に採用されたり、各府県の巡査になった者も多かったという。

■片岡九左衛門こと小野英的は、幕末に海防方として藩内の精鋭部隊を率いて海岸の警備にあたり、慶応4(1868)年の戊辰戦争では卒族小隊45名および仲間小者20余名を率いて出兵し、奥羽越列藩同盟軍の一員として前戦で新政府軍と積極的に戦い、敗戦後は藩主堀直賀の米沢撤退に従った。留守中の8月28日に勤王派の堀貞次郎新政権から闕所とされ、財産没収のうえ家族は領内から追放された。9月には村松新政権から新政府軍にあて「斬るべきの徒」として戦犯に指名申請されている。直賀が米沢において降伏してから村松に送り返され、佐々治八に預けられた。12月には檻車で東京の弾正台に護送され、永牢の判決を得て、翌明治2年2月に村松に檻送された。明治3年1月に赦免されたが、藩への帰参はついに許されなかった。
■川口佐内は戊辰戦争で山村頼母卒族小隊の軍監として出兵し、敗戦後は藩主直賀の米沢撤退に従った。留守中の9月には村松新政権から新政府軍にあて、「縄すべきの徒」として戦犯に指名申請された。米沢で降伏後は村松に送り返され、明治3年1月に赦免されたが、藩への帰参は許されなかった。なお「警視庁六番小隊名簿」には「小口佐内」と誤記されている。
■長野政豎は通称名が分からないので旧役職名と旧禄は不明であるが、『靖国神社忠魂史 第一巻 上』の戦死者名簿では「三巡査 長埜政豊 新潟」と誤記されている。
■淵長督も経歴は不明である。
■淵長令は知行200石の用人淵采男の嫡子で、父子勤めをしており、戊辰戦争では父とともに米沢に撤退した。留守中に父采男は村松新政権から「縄すべきの徒」として戦犯に指名申請され、降伏後には村松に送り返され、明治3年1月に罪を赦されたが、藩への帰参はなかった。式人は同5年の着到では士族で、禄高9石2斗となっている。
■佐合政興は知行100石の側用人取次佐合理左右衛門政意の子で、戊辰戦争中の活動は不詳。父政意は戊辰戦争中に前藩主堀直休夫人で藩内勤王派の精神的支柱であった仙寿院裕子の用達をしていたため、藩主直賀の米沢撤退に従わず、村松に残留して堀貞次郎に従って村松新政権に参加した。その点で幾蔵は冷や飯組の前記小野英的、川口佐内、淵長令の3人とは立場を異にする。
■佐藤勝純は経歴不詳。
■中村利木は経歴が不明であるが、出征中の明治10年5月28日に、新潟県に対し2000円の拝借金を要請している。これは前年に家禄を奉還して土地の払い下げを受けたが、その後多額の負債を生じ、やむをえず前年11月に土地と立ち木を返上し、上納金の下げ戻しを申請したところ、同10年3月3日に秩禄公債証書2475円分と現金18円67銭を下げ渡された。しかし上納金の返還はいまだになく、債権者の督促に困りはてての拝借金申請で、そのような進退きわまった中での従軍と戦死であった(『村松町史 下巻』)。なお『靖国神社忠魂史 第一巻 上』の戦死者名簿には「警部補 中川利木 新潟」となっている。
■佐久間樫郎は経歴不詳。
■佐藤英次は「警視庁六番小隊名簿」には「佐藤栄次」となっている。明治31年の『家禄取調帳』では、3人扶持給米2石8斗の卒族佐藤銑次の継承者となっている。
■酒井恒和は明治31年に5人扶持の士族酒井守三の継承者であった。
■吉田重孝は明治31年に3人扶持給米3石8斗の卒族吉田幸内の継承者で、同10年2月に村松町大手通りにある堀岶陰の養正塾に入門したばかりであった。
■熊倉嘉蔵も明治10年2月に養正塾に入門したばかりであった。
■林助蔵は明治31年に3人扶持旧米2石1斗の卒族林健吉の継承者となっている。
■今坂栄次郎は明治9年11月に養正塾に入門している。
■飯利皓曹の傍証資料はないが、飯利は越後では村松固有の苗字なので、村松士族以外には考えられない。
■高岡茂賀も傍証資料はないが、高岡は越後では村松固有の苗字である。
■林諄平は明治31年に3人扶持給米2石の卒族林竹八の継承者で、「六番小隊名簿」には「林淳平」となっている。
■矢部金五郎も明治10年2月に養正塾に入門したばかりであった。
■市川虎次郎は明治31年に3人扶持給米2石8斗の卒族市川小市の継承者であった。
■小黒栄吉は明治31年に3人扶持給米2石8斗の卒族小黒多喜蔵(村松残留組)の継承者であった。
■塚野重房は明治31年に3人扶持給米2石1斗の卒族塚野丑蔵の継承者であった。

 警視庁6番小隊(別働第3旅団萩原貞固隊)の活躍
 東京に集結した各地の士族約500名は、会津士族や各藩士族を寄せ集めたものであった。このうち、池田九十郎など長岡士族65名、村上、村松、与板、中条など越後で応募した者55名を集めた1小隊120名が、別働第3旅団のうち薩摩出身の3等大警部萩原貞固の警視徴募隊に付属させられ、6番小隊として萩原隊約700名の一員となった。
 萩原隊は以下の構成であった。

 本 営  鹿児島萩原貞固・熊本魚住守節、他本営付・使丁など合計41名
 1番小隊 小隊長/会津日野重晴、半隊長/土佐島本藤夫、分隊長/東京千葉束、計       111名
 2番小隊 小隊長/肥前平田武雄、半隊長/会津藤田五郎、分隊長/仙台遊佐正人、計      106名
 3番小隊 小隊長/土佐中沢直充、半隊長/水戸金子毅、分隊長/東京馬場義邦、計       111名
 4番小隊 小隊長/相馬末永昇介、半隊長/同森田広矩、分隊長/同尾上庄吉、計        113名
 5番小隊 小隊長/水戸高倉義光、半隊長/鹿児島高橋種樹、分隊長/東京早川誠則、      計112名
 6番小隊 小隊長/長岡池田九十郎、半隊長/同稲垣林四郎、分隊長/同横田大三、計      113名
      総計707名        (加藤一作「西南戦争従軍日誌」による)

 1小隊は表向き100名となっているが、6番小隊113名を「六番小隊名簿」で名前を数えると120名おり、違いを見せている。
 このように6番小隊は長岡士族が中心のため(54パーセント)、長岡の池田九十郎が小隊長(警部)となり、稲垣林四郎が半隊長(警部)、加藤一作が分隊長(警部)となってこれを補佐した。しかし加藤は5月24日には本営詰めを命じられ、7月16日に池田が負傷すると稲垣が小隊長になった。その下に10名の軍曹がおり、長岡士族横田大三、同柳町勘平、同荒木久三郎、同村井賢次、村松士族小野英的、川口佐内、他鈴木久徳、村田亮務、山田作、長岡の小畔定太郎は軍曹兼給与掛かりを勤めた。
 村松士族で6番小隊に編入された者は、小野英的、同川口佐内、佐藤英次、酒井恒和、吉田重孝、熊倉嘉蔵、佐久間樫郎、林助蔵、今坂栄次郎、淵長令、飯利皓曹、高岡茂賀、林諄平、矢部金五郎、淵長督、市川虎次郎、小黒栄吉、塚野重房の18名と、他にも氏名未確認の者が何名かいた。おそらく軍曹の小野英的と川口佐内が、それぞれ10名ずつの村松兵を指揮したと思われる。
 小野らは肥後竹田(現大分県竹田市)口、大津(現熊本県大津市)口、猪滝山の諸戦において、刀を振るって西郷軍へ斬りこみをかけ、政府軍の劣勢を挽回するのに功績があったと村松では伝えられている。
 一行は5月17日午前8時に東京の警視局本署(のちの東京警視庁)に出頭し、安藤中警視より九州への出張を命じられ、隊割りと各人の役職を発表されて、午後1時に西の丸下の徴募巡査詰め所に戻った。同日、旅費の内渡しとして士官(警部補以上)は80円ずつ、軍曹(警部補心得)以下兵士までは40円ずつを受け取り、15日までの半給も支給された。18日に新橋駅を11時に汽車で出発、横浜に午後3時到着、そこからは総員1706名となって汽船名護屋丸に乗りこみ、夜の8時に出航した。船は瀬戸内海を航行し、21日に豊後国佐賀関(現大分県大分市関)に上陸して1泊した。
 熊本城開通後の4月30日に、薩摩の奇兵隊約3000名は、小倉への進出を図って鎮台兵のいない大分方面に進攻を開始した。薩摩軍が出現したという報告を受け、ただちに政府は熊本鎮台から2個大隊と砲兵隊を派遣し、5月22日から要衝竹田の攻撃を開始した。
 佐賀関に上陸した警視隊は弾丸や硝薬他軍需品を支給され、まず5月22日に白高川を渡り、大分市鶴崎を経て大分市内府内町に1泊、23日に野津村から戦地に入った。24日には竹田攻撃の部署が決められ、2番・6番小隊は萩原大警部の指揮で上堤村より間道から進撃することになった。
 25日から参戦して星子山(現法師山)の敵塁を6番小隊だけで陥落させ、半隊を残して池田九十郎の率いるもう半隊は進撃を続けた。この星子山の戦闘で、6番小隊では6名の負傷者を出し、翌26日は休戦となった。
 27日に旧岡藩竹田城下の入口の鏡川を渡って進撃、1番・3番・6番小隊が敵塁を攻撃したが守りが堅くて落とせず、この日は退脚した。竹田方面には薩摩兵約3000名のほか、薩摩軍に同調した地元岡士族による報国隊約600名がいた。この戦闘で6番小隊では戦死6名、負傷者18名を出した。村松士族の4等巡査心得の淵長督は、この27日の戦闘で負傷し、東京警視病院に搬送されたが、7月17日に死亡した。ほかにも4等巡査心得の熊倉嘉蔵と高岡茂賀がこの日負傷した。また「六番小隊名簿」によると、この日小野英的も鏡川において負傷したとある。
 この27日に警視隊は西に迂回して竹田市玉来に進出し、熊本鎮台兵と合流した。6番小隊は3番小隊を援けて本道正面より竹田を攻撃して苦戦となり、戦死6名、負傷19名を出して後退した。死傷者はすべて刀傷であったという。さらに28日に陸軍の1個大隊が平田に到着し、薩摩軍を包囲する態勢をとった。
 そこで警視隊は5月29日に陸軍兵と合同で竹田の薩摩軍に総攻撃をかけ、古城の敵を破って竹田城下を占領した。この日の戦闘で陸軍は69名、警視隊81名、薩摩軍41名、報国隊が22名の戦死者を出し、負傷者も多かった。竹田の町は火の海となり、1500余戸が焼失した。
 竹田を後退した薩摩軍は、豊後大野市三重町を経て6月1日には臼杵市を占領したため、陸軍と警視隊は6月7日から臼杵攻撃のためそれぞれ担当方面に向かった。この日第2旅団の2個大隊が応援に加わり、奥保鞏少佐の率いる左翼隊が白山を越えて江無田を攻撃、6番小隊はこの左翼隊に協力し、9日には諏訪山の薩摩兵を破り、臼杵市中へ敗走させた。この日のうちに政府軍は臼杵に迫り、深夜まで砲戦を行った。翌10日には弾薬のつきた臼杵城を攻め落として奪還したが、味方の損害はなかった。それにより薩摩軍は南方の佐伯方面に敗走し、政府軍はそれを追って大分県と宮崎県境の山岳地帯で激しい攻撃を行い、 6月14日には梅津越と葛葉峠の薩摩軍の防塁を攻めて陥落させた。
 6月23日から、3番・4番・6番小隊は県境の石神峠の哨兵線を警備、翌24日からは6番小隊だけで哨兵を張った。7月6日には夏服と金員が全員に支給され、それまでの先込施条式ミニエー銃(銃剣取り付け可能)と引き替えに、元込施条式7連発のスペンサー銃が支給された。
 7月12日に県境各地を守備していた陸軍と警視隊は南下し、いっせいに宮崎県延岡市三川内方面に攻撃を開始して勝利した。石神峠からは右翼隊として4番・6番小隊と陸軍1個中隊が進撃、翌13日に石神方面へ薩摩軍が襲来したが撃退した。16日にはさらに進撃して対島畑の敵を攻撃して苦闘のすえようやく追い払った。この三川内大井村の戦いで6番小隊長の池田九十郎は重傷を負い、佐伯の病院に運ばれたがのちに死亡した。それにより、6番小隊は稲垣林四郎が代わって指揮をした。
 7月23日に園田安賢大警部の率いる園田隊234名が萩原隊に合併し、7番・8番・9番小隊となって、園田は帰京した。これで萩原隊は累計941名となる。
 8月2日には各隊の古江進撃が開始され、各方面の敵と激戦のすえ、延岡市古江付近に敗走させた。2番・4番・6番小隊は陸軍半中隊と共働し、大砲1門と共に萩原大警部の指揮で松尾山の敵を攻撃して古江に追い払い、高座礼峠および松尾山、尾高地峠に進んで哨兵線を進めた。この松尾山の戦いで6番小隊では戦死2名、負傷6名を出した。村松士族の4等巡査心得の佐久間樫郎はこの日松尾山の戦闘で戦死、4等巡査心得の淵長令は古江および石神口の戦闘で負傷した。さらに政府軍は薩摩軍を追撃して延岡市熊野江に追い、15日に警視隊は陸軍を応援してここで戦い、17日には制圧、政府軍は連戦連勝してここを厳重に警備した。
 8月21日に加藤一作は1・2・3・4番の4小隊を引率して佐伯に分遣し、警備についた。23日には萩原大警部が熊野江に残っていた5・6・7・8・9番の5小隊を引率して佐伯に合流したが、29日には魚住守節が1・2・5・8番の4小隊を引率して臼杵に分遣した。9月13日になると、1・3・5・6番の4小隊は鹿児島に出兵するため、萩原大警部に引率されて宮崎県日向市細島に到着、15日には富島新町に駐屯した。この日さらに4・7・9番小隊は佐伯に、2・8番小隊は臼杵に分遣した。しかし25日になると、前日西郷隆盛や桐野利秋らが城山攻撃で死亡し、薩摩軍が壊滅したという報が届いて、萩原隊の鹿児島出兵は中止となった。
 当時九州では熊本からコレラが流行し、10月1日には佐伯でも隊内で2名の患者が発生したため、3日に佐伯駐在の3小隊は急いで同地を引き払い、臼杵へ行って駐在の2小隊と合流した。
 10月24日に臼杵の5小隊は帰京のため汽船愛宕丸に乗船、翌25日には細島港から4小隊も乗船して帰路についた。27日にコレラの検疫のため横須賀に入港し、翌日陸軍の医員が乗船して検査をし、3番・6番小隊の熱病者3名を上陸させ、ほかは午後1時に出航して、4時に品川に凱旋した(以上、この項はほとんど加藤一作「西南戦争従軍日誌」による)。
 4等巡査心得田中正之(村松士族か)は、愛宕丸から下船して2日後の10月30日に病没した。死因はコレラであろう。横須賀市の追浜官修墓地に埋葬され、現在も墓があるという(ヤフーインターネット『徴募警視隊』の記事「官修墓地」による)。
 この役で、他にも詳細は不明であるが、元中小姓佐合幾蔵や佐藤勝純らが戦病死した。

 その他の別働第3旅団の活躍
 なお、高田士族を中心とする一団はこれとは別の行動をとっていた。越後勢が揃う前に、自分たちだけで4月中旬に旧家老伊藤弥惣の率いる360余名が東京に向けて出発、22日には東京入りして警視局に到着し、西の丸下の徴募巡査屯所に347名が入営した。26日からは竜の口の臨時徴募巡査屯所に移り、ここで毎月15日と30に給料が支給され、22日からの9日分は日割りで1円80銭、高田からの旅費は1日1円50銭として7泊8日分8円が支給された。
 5月8日からは練兵場で演習が行われ、17日に鹿児島へ1200名の出兵が決まって、先ごろ長崎から帰京した巡査500名、新潟県下から200名、西の丸屯所にいる200名、備前邸屯所(竜の口屯所のことか)から450名が出兵することになった。この備前邸屯所には越後勢の高田士族65名、新発田士族18名、長岡士族15名、与板士族5名、村松士族6名、清崎士族5名、椎谷士族4名、黒川士族2名、三日市士族2名の122名が含まれていた。この村松士族6名の従軍の経緯と氏名については不明である。そして出征者に小銃と制服、旅費が支給され(金額は萩原隊と同じ)、3等少警部と警部補にはピストルと弾薬が、警部補心得には元込銃が支給された(「西南戦役と旧高田藩士」)。
 一行は萩原隊と同じ5月18日に出発したが、横浜からは午後3時に萩原隊より一足早く西京丸で九州の小倉に向けて出航している。高田士族は328名が別働第3旅団に編入されて九州の水俣に上陸し、薩摩、大隅、日向の各地に転戦し、220名は新撰旅団に編入されて四国の宇和島を警備して戦闘には加わらなかった。ほか別隊30名は東京に在勤したという。なお、高田ではこの一陣のほかに、6月にさらに140名が応募し、合計約500名(718名では)が警視徴募隊に従軍したともいう。

 熊本城籠城の警視隊および別働第3旅団本隊
 新潟県で3月に臨時巡査の大募集が行われる前に、すでに警視隊に属して従軍している人たちがいた。村松士族の長野政豎もその1人である。
 3等巡査長野政豎は別働第3旅団に属し、熊本が籠城する以前の2月20日に、綿貫吉直小警視兼陸軍中佐の指揮する警視隊600名(446名とも)の一員として入城した。谷干城少将以下の鎮台兵の籠城する熊本城を、2月22日から薩摩の大軍が包囲した。
 しだいに籠城軍の食糧が欠乏してきたため、谷少将は4月8日に突囲隊を編成して包囲を突破する作戦を立て、奥少佐の率いる歩兵1個大隊は午前4時に城を出て城下を突貫して戦い、糧米数百苞を奪って午後3時に城に撤収した。この日染川済警部の指揮する警視5番組(小隊)は城を出兵し、薩摩軍の守備する熊本市内安巳橋に吶喊し、敵を敗走させ、深追いせずに帰城した。この安巳橋の戦いで村松士族の長野政豎が戦死した。しかこの日の戦闘を境に薩摩の包囲軍の勢いが衰え、4月10日に黒田清隆参軍が熊本に入城して包囲は解かれた。
 また川路利良少将の率いる警視隊の別働第3旅団本隊は、6月13日に鹿児島の山野、大口付近で戦い、出水に進撃して約600名の薩摩兵を降伏させ、戦いながら少しずつ前進し、25日には鹿児島西方に出て催馬楽、上之原、一本松等の敵塁を陥落させて、夜の7時に鹿児島に入った。この25日の戦闘で警視隊は17名の戦死者を出し、警部補の村松士族中村利木は、この日に催馬楽の戦闘で戦死した。
 他にも4等巡査の淵長義(村松人か)は、5月12日に八代方面の防衛戦で負傷した。

 陸軍歩兵第6連隊の活躍
 また軍人として参戦した者もあり、村松士族根津安次郎重頼は陸軍少尉として名古屋鎮台の歩兵第6連隊の第3大隊第1中隊第3小隊長となっていた。三浦梧楼少将の第3旅団に属して出兵、4月20日に薩摩軍の大津守備隊本営の熊本県大津町大津を攻撃したが、敵の逆襲にあい、根津はこの日の戦闘で戦死をした。
 根津はもともと幕臣であったが、戊辰戦争後の明治2年に村松藩校文武館が開校すると、10人扶持で招聘されてフランス式練兵調馬を教授した。
 他の村松士族で軍人として従軍した者については不明である。

 戦  後
 11月7日に警視萩原隊は皇居吹上御苑で天覧を賜ったうえ解隊式が行われ、「曩の賊勢猖獗の時に当たり、汝等臨機の命を奉じ、従軍尽力之段、朕之を嘉尚す」との勅語を賜った。式が終わって小隊長以上は滝見のお茶屋で拝謁を仰せつけられ、さらに総員770名に酒撰が下されて、巡査隊の1分隊ずつ御庭の拝見を許された。その後18日に東京を発ち帰郷した。
 村松士族の長野政豎、中村利木、淵長督、佐久間樫郎、根津重頼は戦争の翌明治11年に東京の招魂社(同12年6月に靖国神社と改称)に合祀された。
 なお小野英的は従軍記を書いて『山県新聞』に発表したというが、国会図書館と山県新聞社には、明治9年9月1日と同11年11月7日以降の『山県新聞』はあるものの、その間が欠けていて読むことができなかった。

《主な参考・引用文献》小川原正道著『西南戦争』中公文庫。『長岡市史』名著出版。『長岡市史 資料編4 近代一』長岡市。「西南戦争従軍の警視庁六番小隊名簿」長岡市立科学博物館所蔵。加藤一作「西南戦争従軍日誌」同館所蔵。『越後地方史の研究』所収稲荷弘信「西南戦役と旧高田藩士」国書刊行会。賀川光夫監修『竹田市史 中巻』竹田市史刊行会。日本史籍協会編『西南戦闘日注並附録一・二』東京大学出版会。靖国神社編『靖国神社忠魂史 第一巻 上』ゆまに書房。『新潟新聞 明治編上』新潟市合併町村史編集室。渡辺好明編『村松藩維新人名辞典』村松お城の会。

(2015年5月村松郷土史研究会発行の『郷土村松72』に発表したものを流用しています)