村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
子供のころ童話『ニルスのふしぎな旅』を読んだことのある人も多いだろう。『ニルスのふしぎな旅』の作者であるスウェーデンの女流作家セルマ・ラーゲルレーヴ(1858~1940)は、1909(明治42)年12月に女性では初めてノーベル賞(文学賞)を受賞した。
同じ年の3月にドイツ人ウイルヘルム・グンデルト(1880~1971)は東京の第一高等学校のドイツ語講師を自主退官し、翌1910(明治43)年6月中旬に、30歳で妻ヘレーネと次男ヘルマンを連れて新潟県村松町(現五泉市村松)の公園通りに移住し、借家に住んでキリスト教の伝道に専念した。
そこへかつての一高の教え子香川鉄蔵(1888~1958)が、1914(大正3)年の春に訪ねて来てグンデルト家に家庭仲間として滞在し、しばらく一家を幸せな気分にしてくれた。滞在期間は不明であるが、少なくともこの年のクリスマスまでは村松にいた。当時グンデルトは34歳、香川は26歳で、香川はグンデルトが持っているものを学ぶつもりであったという。
折しもこの年の8月23日には日本がドイツに宣戦布告をして、第一次世界大戦に参戦することになった。11月7日にドイツの東洋艦隊基地のある中国のチンタオが日本軍によって陥落すると、その日のうちに村松町の通りには戦勝の旗が飾られた。グンデルトはそこを通って行かなければならなかったので、「自分が心の底から恨めしさでいっぱいであった」と手紙に書いている。夕方になると全住民による提灯行列が村松公園で行われ、群衆がグンデルト家の前を通って行った。そのため3人の警察官が警備に来て、万一の侵入者から家の周囲を守らなければならなかった。
香川は1906(明治39)年9月から1909年8月まで一高の文科に学んでおり、グンデルトが一高でドイツ語とラテン語を臨時講師として教えていた1906年11月から1909年3月までとほぼ時期が重なっている。香川のクラスは1908年の春からグンデルトにドイツ語を習ったといい、このクラスには和辻哲郎や天野貞祐、杉山良らがいた。香川は一高時代に「内村鑑三の秋霜烈日の如き闘志に魅せられ、その著述を片っ端から読み、かつ日曜毎に柏木の今井館(やっぱり内村イズムの教会だった)に通った」が、それ以前に哲学を志望して波多野精一の『西洋哲学史要』を暗記するほど熟読していたので、内村神学にはほとんど影響されなかったという(『香川鉄蔵』所収香川鉄蔵「波多野さん――私の理想の人」)。それで香川は柏木でもグンデルトと面識があった。
香川はその後東京帝国大学文科哲学科に入学し、心理学を専攻した。この哲学科の学友には和辻哲郎や天野貞祐、九鬼周造らがいた。ところが香川は考えるところがあって、卒業間際の1911年12月に退学してしまった。それから4~5年は村松や京都、上越高田、釜山、福岡などの知人を頼って放浪していた。しかし村松に来る前の3月には、ウイリアム・ジェームスの『心理学原理』を翻訳し、これはのち1917年になって弘学館書店から福来友吉との共訳として出版されている。
ある時香川が村松でグンデルトと散歩をしていると、1人の酔っ払いが道に倒れて苦しんでいるのに出会った。それで酔っ払いを家に運び、ひどい傷をグンデルトが縫い合わせた(グンデルトはかつてベーテルの神学伝道候補生養成塾で、病者看護法の訓練を受けたことがある)。それから食事の世話もしたので、香川は深い感銘を受けたのだった。それで香川はヘレーネに、「あなたのご主人はこのような善行を一度ならず何度も行っているのだから、村松の人たちは彼のために、小さな教会の一つくらい建ててやるべきです」といった。
村松町に滞在していた1914(大正三)年12月のクリスマスに、香川はグンデルトからクリスマスプレゼントとして、レンブラントの画集と、緑色の1冊の袖珍本(ポケット版)をもらった。それがラーゲルレーヴのドイツ語訳『キリスト物語』(岩波文庫のイシガ
オサム訳では『キリスト伝説集』となっている)で、香川がラーゲルレーヴの名前を知り、その作品に初めて出会った記念すべき1冊となった。それに深い感銘を受けた香川は、以後ラーゲルレーヴの作品の翻訳をライフワークとすることになった。
そしてこのクリスマスの夜の集会で、グンデルトは『キリスト物語』の中から「エジプトへ」の部分を邦訳して参会者に話して聞かせた。その時村松で香川以外に誰がこの話を聞いたかは分からないが、『キリスト物語』はキリストの伝説にちなむ童話集のようなものだから、参会者に多くの子供も混じっていたのだろう。この本は11篇の説話からなっており、「エジプトへ」の話は文庫本でわずか10頁余の短いものである(イシガ訳では「エジプトくだり」となっている)。
――昔遠い国の砂漠のオアシスに、樹齢一〇〇〇年にもなろうかという途方もなく高いナツ
メヤシの大木が立っていた。ある時ヤシの木が上空から砂漠を見下ろしていると、地の果てか
ら二人の男女が案内人も連れず、荷物運びもラクダも連れず、テントも水袋も持たずに歩いて
来た。砂漠にはライオンもいれば蛇もいる、砂嵐や追いはぎにも襲われるし、渇きや灼熱の太
陽もあるのに。だんだん近づいてくると、女は腕に幼児を抱えている。ヤシの木は二人が死ぬ
ためにこの恐ろしい砂漠にやって来たのだと思い、渇きのことを考えると恐怖で葉先が火に
焦がされたように巻いて縮んだ。そしてこの哀れな旅人を見ていると身内がゾクゾクして、葉
がサヤサヤと鳴った。やがて葉のざわめきはしだいに激しくなって、死の調べのように、まる
でもうじき誰かが死んでいく前触れのように悲しげに聞こえた。しかしヤシの木は「幸い自分
のことではないがね、私は死とは縁がないのだからな」と考えた。二人の旅人はヤシとオアシ
スを見つけると急いで水を探しに来た。しかし泉は涸れていて、二人を絶望に陥れた。ヤシの
木は二人の会話から、ユダヤの王が生まれたことを恐れたヘロデが、二歳と三歳の子供を残ら
ず殺したことを知った。女はヤシの木を見上げて、たくさん実がなっているのを認めたが、目
もくらむ高さで採ることができない。すると幼児が幹に近づいて小さな手でそれを撫で、「お
じぎをして、ヤシの木! おじぎだよ、ヤシの木!」というと、ヤシの木は幼児の前に長い幹
を曲げて実をもぎ採らせた。幼児が「起きてよ、ヤシの木! 起きて、ヤシの木!」というと、
大木は静かに身を起こした。後に隊商が砂漠を旅していた時、ヤシの大木の梢の葉が枯れて死
んでいるのを見つけた(イシガ訳から要約)。
クリスマスの夜に話して聞かせるにしては、少し悲しい階調の説話であるが、それは当時のグンデルトの心境を反映しているのかもしれない。彼は同胞のいない異郷の村松において、砂漠の中に無防備でいるような心もとない状況で家族を守らなければならなかった。日本とドイツが敵対すると村松での雰囲気もガラリと変わり、この夏の終わりにはかつて存在した一家の幸福は尽きてしまった。『郷土村松67』でも紹介したように、日本が参戦する直前の8月20日に、グンデルトは上京して柏木の内村鑑三を訪ね、涙ながらに苦しい胸のうちを訴えた。内村は同情して、国同士が敵となっても、我々はクリスチャンとしては兄弟であるし、友情が絶えることはないだろうといい、「我等の国人にして今猶独逸に居る者がある。我等は彼等が独逸人に優遇せられんと欲するが如く君を優遇しなければならない」といって慰めた。グンデルトは心から感謝し、戦争中はとくに熱心にキリストの平和の福音を伝えたいと語った(『聖書之研究』第170号)。
香川は1916 (大正5)年に『キリスト物語』のうち「駒鳥」(イシガ訳では「ムネアカドリ」)の章を翻訳して、一高桜楓会の機関誌『家庭週報』の5月12日号に発表したが、これがラーゲルレーヴの初訳となった。それから香川はラーゲルレーヴの作品を英訳やドイツ語訳で次つぎと読み、『イエルサレム』第一巻を英訳本から佐久間鼎(のち東洋大学学長)夫妻や鈴木龍司と手分けして翻訳したが、これはついに印刷されなかった。
イシガオサム(石賀修)は『キリスト伝説集』のあとがきで、ラーゲルレーヴの本邦初訳は「西洋文学翻訳年表」(岩波講座『世界文学』所収)によると、1905(明治38)年にすでに小山内薫が『キリスト伝説集』のうち「彼得(ペテロ)の母」(イシガ訳では「わが主とペテロ聖者」)を原著出版の翌年にしたと書いている。小山内は内村鑑三の弟子で内村聖書研究会の会員であったが、グンデルトが来日するのは翌06年なのでまだ面識はなかった。しかし内村とグンデルトは文通をしていたので、小山内が内村ルートでこの本を手に入れた可能性もなくはない。内村の『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』は1904(明治37)年1月にグンデルトがドイツ語に翻訳して、父の経営するグンデルト書店から出版し、それを契機に翌05年にはスウェーデン語版も出版されて、内村はスウェーデンでも名前を知られるようになっていた。
そして『香川鉄蔵』の年譜には、「新潟県村松でドイツ人、グンデルト教授からドイツ語、キリスト教等学んで大きな影響を受けた。この年初めてラーゲルレーフ女史の作品に接して文通が始まり、ライフワークの方向を定めた」と書かれている。香川はその後ラーゲルレーヴの本を次つぎと、「まるで恋人からの手紙をみる」ような熱心さで読み、自分でも1915(大正4)年に『ニルスのふしぎな旅』第一巻をスウェーデン語の原書から翻訳し、1918年5月に大日本図書から『飛行一寸法師』と題して(佐久間鼎の命名による)出版した。さっそくこの本をラーゲルレーヴに贈ってたいそう喜ばれた。
この本は30余の外国語に翻訳され、世界中の少年少女に愛読されている。いじわるで怠け者のニルス少年が妖精のために小人にされ、ガチョウの背に乗ってスウェーデン中を旅行し、冒険のすえ立派な少年になって戻って来るという話である。大江健三郎は1994(平成6)年にスウェーデンのストックホルムにおけるノーベル文学賞の受賞講演で、子供のころこの本を読んで、自分は精神の型と生き方の形を与えられたと述べている。
『ニルスのふしぎな旅』はその後香川訳で1934(昭和9)年4月に改題して自費出版され、1954(昭和25)年には創元社の『世界少年少女文学全集』に、『ニルスのふしぎな旅』として、さらに同年に講談社の『世界名作全集』に『ニルスのふしぎな旅行』が、1971(昭和46)年には主婦の友社の『ノーベル賞文学全集』に『ニルス・ホルゲルソンの不思議なスウェーデン旅行』(これが原題に一番近い)と題して収められている。香川は1968(昭和43)年に没したが、その後1982(昭和57)年になって、ようやく偕成社文庫から『ニルスのふしぎな旅』の完訳本全四巻が、長男香川節との共訳でラーゲルレーヴの誕生日に出版された。それまで出版されたものは全四巻のうちの第一巻に相当する。
しかし香川は翻訳で生計を立てていたのではない。生活のため大蔵省に勤めたが、大学を卒業しなかったので嘱託に甘んじなければならなかった。途中、満州国政府の嘱託や参事官となり、新京法政大学の教授として経済学を教えている。戦後はふたたび大蔵省の嘱託を経て国会図書館参事や防衛庁の嘱託をしていた。
香川が村松町を訪れたころ、彼は北海道に渡って農民になろうと志したが果たせず、村松で農業をやりたいと考えていた。ところが五泉町三本木の当時50歳のクリスチャン古田喜一が苦笑いをして、「こんな手になりますよ。百姓になるには土の中に埋没しなくては」、あなたにはとてもそんなマネは出来ませんと諭したので、小柄で痩せている香川は断念した。しかし古田は香川がすっかり気に入って、自分の三女との結婚を勧めた。香川は大いに同意したが、彼女の方が知らない男性と結婚するのは嫌だと断った。そして彼女は何年もしないうちに病死した。その後古田は四女との結婚を勧めたが、その時には香川が八重夫人との婚約が成立していて実現しなかった。香川はこの古田のことを、「彼は(中略)終始一農人として生活した純粋の越後人でした。良寛はこの古田喜一のような人であったろう」と評している。
古田は東京の農業学校に学んだが、そこで内村鑑三の講義を受けて深い感銘を与えられ、キリスト教を信仰するようになった。しかし「なぜ内村は絶え間なくそれを称賛するのに自身は農業をやらないのか。百姓の置かれている本当の苦しみ、百姓の空っぽの胃袋、そして百姓の厳しい仕事について内村はまるで知らないのに、彼は百姓の友として知られているではないか」と批判したが、それでも内村に最も高い評価を与えて褒めていた。グンデルトはそんな古田を、「彼は生粋の越後百姓であり頑固で頭が固い。彼の敬虔さは旧約聖書のそれであり、彼にとって詩篇を越える書物はなかった。彼は詩篇の素晴らしさを讃えるのに自分の震える声では満足できなかった。正義と公正こそ彼にとってはすべてに勝り、その点において彼は内村には信条的に満足していなかった」と評している(『内村鑑三研究40』所収
倉石満訳「日本からの報告」)。
そして香川の方は自分の名利には無頓着で、金銭についてはまったく無関心、一生変わることなく高潔な人格であったと評されている。香川の没後の1971(昭和46)年に、大蔵省の後輩たちが一介の嘱託のために香川鉄蔵先生追悼集刊行会を作って、追悼集『香川鉄蔵』を編集・発行した。本稿の多くはこの追悼集に拠っている。
当時の香川について、後に彼は「私の理想は石黒忠篤のやうな農林省の役人や◯◯◯◯(宮沢賢治か)のような詩人的農人にあらずして、黙々として農にいそしみ、静かな別天地に妻と二人きりで生活することにありました。今でも此の理想が本質的な人生目的です。世にきこえず、世を偽らず、信仰も、英智もいらない。ただ平々凡々の一百姓であればよい。そして愛情豊かな妻をようして、夜の休息と快楽とがとれればよい、これが私ののぞみでした」と書いている。
浅草育ちの香川がこのような考えを持って自給自足の農民生活にあこがれたのは、ソローの影響もあったようだ。それに関する情報がヤフーのインターネットの記事「香川鉄蔵」に載っている(chawantake.sakura.ne.jp)。――ある時哲学者の西田幾多郎が絶版になったブレンターノの心理学の本を読みたかったが手に入らなかった。ところがそのうち面識のない「カガハ」という人がこの本を贈ってくれた。西田はこの本の表紙見返しに毛筆で次のように記した。
此書ハ今ハ新シイ版ガ出来、何人ノ手ニモ入リ易イガ、私ガ始メテ此書ニ興味ヲ有ッタ頃ハ
全ク手ニ入リ難イモノデアッタ。然ルニ「カガハ」と云フ人ガ突然此書ヲ送ッテクレタ。住
所モ書イテナク今日マデ如何ナル人カ分ラナイ。西田幾多郎記
そして標題紙の上部に「T.Kagawa Jan.15,1912」、中央右寄りに「呈 西田幾多郎先生」と、送り主によってペン書きされていた。西田は後に香川鉄蔵のことを知り、ようやく礼状を出すことができたという。
この本の裏表紙見返しに香川自身の書いたメモが残されている。「(前略)今日は三人のよき人を迎えた。伊那兄ハ手紙で、草刈兄ハ頼しく、Brentano先生ハ著書で。儂もThoreauのやうに「三ツの椅子をもって居る」。Jan
15.1912」と書かれていて、ソローに親しんでいたことを窺わせている。
そして香川の北海道で農業に従事するという夢は、後に次男の香川潮によって実現された。
グンデルトは子供のころ父の所有するブドウ畑の収穫を手伝い、そして畑の中に自分専用の小さな菜園をもらい、それがとても気に入っていつも入りびたっていた。このブドウ山に山椒魚の棲む小さな沼があり、のちに作家となる従兄のヘルマン・ヘッセとよく遊びに行った。
グンデルトは村松に5年間滞在したが、山羊を飼っていて、餌となる草を刈るために農民姿で早出川に出かけたという。村松に来てから3年目の1913(大正2)年に、三本木の古田喜一のところに何か月も滞在して農作業を手伝った。そして日曜日の集会のために、毎土曜日に4キロの道を歩いて村松まで帰って来た。彼は三本木では藍染めの上着を着て、窮屈そうに股引と脚絆を履き、足には草鞋を履いてどのような農作業もいっしょに手伝った。田に水を張って準備をし、4月にはそこへ苗を植え、同じようにどの畑仕事も手伝った。作業が終わると熱い風呂に入り、それから囲炉裏の周りで古田の家族とくつろいで夕食を摂った。
ところがある土曜日に彼は熱い風呂で貧血を起こして倒れてしまった。それをヘレーネに話すと、彼女はひ弱な体質の夫が目いっぱい農作業をするには向いてなく、疲れ果てているのを心配して、それからは次男のヘルマンを連れ、2歳のエバハルトは乳母車に乗せ、生まれたばかりのハナは負ぶって、歩いて夫を迎えに行った。そうしたらグンデルトは喜んだので、それからはこのやり方で迎えに行くようになった。そのため翌年の3月には、ヘレーネは彼に向かって、「あなたは古田さんのそばで農作業をするのではなく、今から自分にとって価値のあることをすべきではないですか?」と忠告しなければならなかった。
香川と古田の友情は、古田が戦時中に80余歳で没するまで続いた。鉄蔵の長男節氏が筆者に宛てた手紙にも、3歳のころ(昭和2年ころ)父に連れられて五泉の古田家に泊まりに行き、今でも阿賀野川の長い木橋や古田家の山羊のことを憶えていると書かれている。
グンデルトは日本に30年滞在したが、途中第一次世界大戦が終わると、翌1920(大正9)年7月19日に神戸を出航して一度日本を引き払った。その後ハンブルク大学でフロレンツから日本学を学び、1922(大正11)年にふたたび単身来日して、4月から1927(昭和2)年までの5年間、新設された旧制水戸高等学校(のちの茨城大学)のドイツ語講師となった。単身赴任時代は水戸の学生下宿に住み、東京でも宣教師ハウジカーの大きな家に1部屋手に入れ、土曜日の11時に水戸を出発して汽車に4時間ほど乗り、東京でぎりぎりまで過ごし、日曜日の夜行列車で水戸に戻るようになった。この単身赴任時代に、グンデルトはしばしば香川のところを訪ねたという。そして1923(大正12)年9月に妻のヘレーネと長女ハナ、次女フリートヒルトの3人が来日し、借家を借りて生活していた。
ある時香川は大蔵省の後輩垣見静に、「僕の友人で水戸の高等学校の先生をしている独逸人がある。一緒に行こう」と誘った。その日は梅の花の季節ではあったがごく寒い日で、行くと年頃のお嬢さんが素足で質素な衣類をまとって出迎えた。垣見は洋菓子を手土産に持って行ったが、グンデルトはこんな上等な菓子は私の家族には不向きだから、並のビスケットで結構だという。グンデルトは日本語が上手で、缶詰を使った家庭料理をご馳走し、青年の心得や修養に関する話をした。帰りの汽車の中で、香川はあの先生の家庭生活は質素だが、※ドイツ人の捕虜の慰問には多額の寄付をした。質素は吝嗇とは違う。なくてすむとき間にあうものはそれですませることだ。そして価値のあることに思い切って使うことだと話して聞かせた。垣見は香川が自分を諭すために水戸へ連れて行ったのだと思って、以後肝に銘じたという(『香川鉄蔵』所収垣見静「名利に一生背を向けた香川さん」)。
※1914(大正3)年11月7日にチンタオが陥落して、ドイツ軍の将兵4,697名が日本の20か所の捕虜
収容所に送られて来た。当時熊本に住んでいたグンデルトは、久留米や福岡の収容所に出かけて食
料や本を差し入れるなど支援活動を行い、また捕虜のために説教やミサを行い、家族ぐるみで将校
の家族の面倒もみていた。
グンデルトはこの水戸時代に、論文「日本の能楽における神道」を書いてハンブルク大学に送り、哲学博士号を取得した。この300頁近い論文は、その年の1925(大正14)年9月に、OAGドイツ東洋文化研究協会の『ドイツ東洋文化協会報告19』にドイツ語で発表されて大きな反響を呼んだ。香川はこの本をラーゲルレーヴに1冊贈り、翌26年5月15日付で礼状をもらっている。それには「此のように醇化した芸術作品を知るに至ったのは真に幸福である。グンデルト博士が吾々にも御国の古い詩を味わわして下さったのは忝ない、洋の東西の人々が同じ程度に楽しみ得ることと知ってうれしい」といった趣旨のことが書かれていたという。
1958(昭和33)年9月7日から9日にかけて、香川は西ドイツのドナウ川畔の町バイエルン州ノイ・ウルムに住む恩師グンデルトを訪ね、グンデルト家に2泊3日滞在した。この時グンデルトは78歳、香川は70歳になっていた。
香川はスウェーデン文化団体の招きで7月7日に羽田を発ち、スウェーデン南西部のカールスタードで行われたラーゲルレーヴ生誕100年記念式典の銅像除幕式に出席して(8月12日か)、スウェーデンの皇太子に謁見した。その後デンマーク、西ドイツ、フランス、イングランドを視察して、9月20日に帰国したが、その途中にグンデルト家に立ち寄ったものである。香川はグンデルトとの歓談中に多くの本について尋ね、本屋に行って11マルク分の本を買いこんだ。その中には『フファーフィリンの家族』などの児童書もあり、その結果、香川はこの1回の訪問で知識とアイデアをいっぱいに詰めこんで帰国した。そしてこの時2人は『碧巌録』のドイツ語への翻訳を話題にし、また日本語の「縁」について語りあったという。
香川は帰国するとただちにグンデルトのために日本語の本を買い集め、2つの小包にして送った。それは11月6日にグンデルト家に届き、中には中国の仏教史跡を調査報告した常盤大定の貴重な『支那仏教史蹟並に詳解』が入っていて、「今この本を手にすることができてとても幸せ」であると師を喜ばせた。他にも孫娘イルムガットの日本語の学習のため、8冊の小学読本と3冊の修身の本が入っており、また出雲の刀剣技術に関する本が有益であったとグンデルトは礼状にしたためた。そして香川は他にも望月信亨の『仏教大辞典』第六・七・八巻の3巻(金尾文淵堂)は予約したので、11月末には到着する予定であると伝えた。
そして2日後の11月8日にはさらに追加の小包が届き、鈴木大拙の著名な『浄土系思想論』(宝蔵館)が入っていた。グンデルトはそれにざっと目を通して、礼状に「あなたは一九四三(昭和十八)年以来、この本を個人的な欲求から手に入れ、そしてそれを独力でより深い関心をもって、精神の充足のために読んでいたのでしょう。それは私を深く感動させました」と書いた。
グンデルトは1960(昭和35)年にミュンヘンのカール・ハンザー書店から、『碧巌録』の3分の1をドイツ語に翻訳・解説した『碧巌録 禅仏教のバイブル』第一巻を出版し、1部を香川にも贈った。香川はその内扉に「一九六二年二月十五日、満七十五歳
鉄蔵」と朱筆した。ところが後に香川は一高の同級生杉本良が立川の家を訪れ、対談中に『碧巌録』の研究を志したことを話したところ、大いに喜んで、「一高時代のドイツ語の師たりしグンデルト博士の訳書を呈するを悦びて(六十五年十一月九日)」と書いて、この本を杉本に託した。
1968(昭和43)年12月9日に香川が80歳で亡くなると、グンデルトは翌69年10月7日付でお悔やみの手紙を遺族に送った。そのドイツ語の全文が『香川鉄蔵』に掲載されている。
親愛なる香川さん!
私はあなたの十月二日付の友情にあふれる手紙を受け取り、強い同情の念をもってそれを読
みました。それというのも、私が非常に高く評価していたあなたのお父上が、昨年の十二月に
すでに故人となられたのを知って、とても心を動かされたからです。
かつて彼はある困難な状況の中で私を手伝ってくれたのでした。私はその後一九二七年から
一九三六年まで東京で暮らしていましたが(※日独文化協会主事時代)、それを記憶の中から
いろいろと探って思い出したのです。
それ以来三十三年が過ぎて私は今や九十歳になってしまいました。それは私が高齢であるこ
とを意味し、衰弱して昔のことを初めすべてについてとても忘れっぽくなり、加えて未だに続
けている日常的な研究をもっぱら大きな苦労と共に行っているのです。そのため残念ながらあ
なたの友人としての願いをかなえることはもはや可能ではないのです。
もちろんいずれそれをすることはできると断言できます。というのも、私にはあなたの故人
となられたお父上に関する思い出が、今日まで生き続けているからです。私はお父上が私の難
しい依頼を成しとげて下さったその様々な援助に対して感謝をし、ありがとうといいます。そ
して私は今彼の鋭敏な批評精神と、その信念の強さ、そして善を行う真摯な意志と、面倒見の
よさに感嘆するのです。
あなたの手紙を通じてあなたの家族の詳しいことを知り、私はうれしく思います。それゆえ
私はあなたとあなたの家族が善なる心でおられることを願っております。
あなたの従順なる (渡辺訳)
この手紙は抽象的で意味がよく分からない。おそらく長男の香川節が追悼集『香川鉄蔵』のためにグンデルトの寄稿を依頼し、その断りの返事にもなっているのだろう。グンデルトは晩年には持病の心臓病をかかえており、目もひどく悪くなって本を読むのも困難であった。1970(昭和45)年7月1日の弟子高橋三郎宛ての手紙はヘレーネ夫人が代筆しており、主人は4月ころから疲れてたいていは眠っていますと書かれている。
それではかつて香川が、グンデルトのどのような困難な仕事を手伝ったというのだろう。それを解くヒントを『香川鉄蔵』の中で、垣見静が「東大中退後の香川サンの行動については独逸人と協力して、能に関する著書を出されたことはご本人から聞きました」と書いている。となると、これはグンデルトが水戸時代に書いた博士論文「日本の能楽における神道」のことだろう。そして垣見はまた、「大蔵省に来られる前、独逸人と協力して日本の能に関する本を出版されたが、これも香川サンの名は見ませんでした。香川サンは自分の名利には無頓着でしたが、知人や友人の栄達は心から喜ばれた。それは全く厚い友情からであった」とも書いている。しかしこれをもってグンデルトの論文を香川との共著のようにいうのは誇張だろう。
このころグンデルトは月曜日から木曜日まで水戸高校で授業を行い、午後に3時間から5時間を長谷川という学生に手伝ってもらって論文のために能楽の研究をし、2人で夜中までやることもあった。そして金曜日の午後はレクリエーションにあて、土曜日と日曜日は東京で研究をしたという。しかしグンデルトは日曜日に東京のドイツ教会で牧師職も続けており、猿楽町の能楽堂にも通っていて多忙だった。そして最初の年の夏休みは東京の並外れた暑さの中で執筆して過ごした。
グンデルトの研究や執筆を多くの人が手伝ったことは、ヘレーネ夫人の回想録にも書かれている。内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』をドイツ語に翻訳して出版した時は、ルイゼ・エーラという女性が下訳をしているし、賀川豊彦の『抵抗と犠牲』を翻訳出版した時も下訳があった。共著『東洋の叙情詩』の執筆にはギュンター・オイヒや大学生のギュンター・デボンに手伝ってもらい、『碧巌録』第一巻と第二巻の翻訳にはドイツ留学中の上田閑照や平田精耕、辻村公一らが助力している。そして『碧巌録』第三巻は翻訳半ばで本人が没したため、デボンが後を引き継いで完結させた。このようにグンデルトはいつも良い友人や知人の協力によって成果をあげることができた。そしてグンデルト自身も他人の面倒見がよかったというので、これも人徳のいたすところであろう。
(2014年5月村松郷土史研究会発行の『郷土村松71』に発表したものを流用しています)