村松藩の江戸留守居役

                          村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 江戸留守居役は年中江戸に留まり、藩主が江戸にくる前に幕府の首脳と打ちあわせたり、他藩との交渉や相談を行ったり、藩主が国元にいる時には幕府との折衝をはじめ、江戸藩邸を管掌し、藩の外交官のようなものであった。そのために留守居役といわれたが、実際は藩主が江戸にいる時にも、藩主の使いとして幕府の要人とあっていろいろな歎願ごとの交渉をしたり、幕府の命令や指示を聞いてきて藩に伝え、協議したりする役目であった。他にも他藩との交際や情報収集をおこない、藩の方針を決定するうえで重要な役割をはたした。したがって一般に藩内における発言力はきわめて大きかったという。
 たとえば、藩主が新たに公役に任命された時には、幕府の役人や前任者から情報を得たり、幕末には幕府や朝廷をはじめ他藩の動向を探ったりしたのも留守居役の任務であった。
 越後3万石の村松藩が江戸時代におこなった幕府の普請手伝いや大坂加番、公卿馳走役、朝鮮通信使馳走役、城受取りと城番、江戸城々門警備、火之番・火消番などの公役は、藩主は拝命してくるだけで、具体的な打ち合わせは留守居役などが出向いておこなった。また幕府の人事情報などもいち早く入手して、付け届けや歎願ごとなどもうまく取り計らう必要があった。藩士がトラブルに巻き込まれた時には、他藩や町奉行所との交渉もしなければならず、普段から絶えず町奉行所の役人に顔繋ぎをしておく必要があった。大名が江戸にくると町方のことで世話をかけるといって、留守居役が乗馬で国の土産に金子をそえて町奉行の玄関に届けた。さらに町廻りの与力や同心にも付け届けをしたが、他にも何かあった時に頼む「頼みつけ」という代々藩で利用している与力や同心にも付け届けをしており、留守居役が出向いたという。また、幕府との間に旗本を入れて便宜を図ってもらうため、堀家一門の旗本や縁戚関係の旗本や出入りの旗本などとの付き合いも仕事のうちであった。
 留守居役同士の情報収集は、組合を作って定期的に寄合いをやって情報交換をしたが、組合には藩主の江戸城での詰席をもとに結成した同席組合と、藩主の親戚で結成する親類組合、上屋敷の場所を基準にした向組(村松藩の上屋敷は下谷広小路にあった)などがあった。堀家の所属する柳の間の留守居組合は、明暦(1655~58)ころに結成されたといわれている。
 このように留守居役は難しい仕事のため、世襲ではなくその器の人物が抜擢されたという。とはいえ村松藩の場合は本役、添役とも100石から300石取りの給知士から選ばれ、だいたい本役は200石の用人が多く選ばれており、のちに年寄役(家老)に昇進することもあった。藩内での地位は藩邸の総責任者の江戸家老(村松藩では江戸詰めの年寄)に直属し、右腕となって働いたが、藩主に直属する場合もあったという。他藩の例では、留守居役には補佐役や書記役など数人の部下がつけられていた。
 反面、他藩との打ち合わせも留守居役たちが集まって談笑裡に運ぶことを旨としたから、いきおい料理屋や吉原などで豪奢に行い、膨大な藩費を浪費した。藩主もめったに口にできないような物を食べ、個人的な遊興にまでも藩のためと称して公金を消費したというが、またそうしなければ藩の面目が立たなかったし、付き合いが悪くて仲間外れにされたら重要な情報が入らなくなるのである。この留守居寄合のために、江戸中で40余軒もの御留守居茶屋ができ、しばしば禁止されたがじきに復活したという。現在会席料理などと称するものはこの御留守居茶屋の名残りという。結局この留守居組合の悪弊は明治4年の廃藩まで続いた。
 しかし浅野内匠頭の刃傷事件も、留守居役がしっかりしていれば起きなかったという人もいるほど、その役目は重要であった。そのため、留守居役はこのような幕府の儀式などについても知識をもっていなければならなかった。したがって各藩としても莫大な無駄遣いを黙認せざるをえなかったという。
 また、村松藩では留守居役に1ないし2名が任じられ、他に留守居添役が1名つけられていて、留守居役を補佐させることが多かった。
 明和9(1772)年の堀俊信『手控』(『村松町史 資料編第二卷』)によると、村松藩の留守居役が公務で外出する時には、若党2人、鑓持1人、挟箱持1人、草履取1人、中間2人、笠籠持1人が供をした。添役には若党2人、鑓持1人、草履取1人、中間2人、笠籠持1人が供をした。なお両役とも10万石以上の所に所用で行く場合は、用人方に断って若党2人を増員した。宝暦5(1755)年に村松藩のきめた江戸定詰留守居役の役料は30両、聞番は25両であった。聞番の役柄は不明であるが、留守居役の仕事の中でも、主に幕府との折衝を担当したようで、他藩でも留守居役のことを聞役と称しているところもある。武鑑では幕府との窓口を御城使としている。他にも村松藩では留守居見習や留守居方使者をおいたこともある。
 留守居役が各藩に設けられたのは寛永10(1633)年ころからといわれ、村松藩では第2代藩主堀直吉の治世の中ころからである。しかし、村松藩では度重なる江戸屋敷の火災や2度の村松大火のため、藩の公文書を焼失して、留守居役についても詳しいことは判っていない。

 記録に表れた村松藩の留守居役としては、元禄4(1691)年の『本朝武系当鑑』に、「堀左京亮。御内室松平丹波守妹。御城使下野弥五兵衛、野口源右衛門」とあり、第3代堀直利の御城使として下野弥五兵衛と野口源右衛門(政貞)の2人の名が初めて登場する。同8年にも両人が勤めているが、2年後の宝永2(1705)年の『御林武鑑』では、野口源右衛門は留任しているものの、下野がやめて富岡八郎左衛門(正倫)が勤めている。この年には野口政貞の子治右衛門政国(のち源右衛門)が留守居見習いとなって父の仕事を手伝っている。政国は村松では堀内流の堀内源太左衛門に学んだ剣客として知られている。同7年の『一統武鑑』と正徳3(1713)年の『賞延武鑑』は、ともに野口次右衛門(政国)と富岡八郎左衛門となっている。政国は翌正徳4年に留守居役を解かれて物頭となり、一家をあげて村松に帰住した。
 享保3(1718)年は第4代藩主堀直為の代であるが、武鑑では近藤治左衛門(勝義)と関軍右衛門の2名となっており、近藤はのちに同13年から年寄役に昇進している。同17年には治左衛門の子近藤杢左衛門(勝興)が1人で勤めている。杢左衛門も家督を継いで知行300石だったが、のちに父と同じく年寄役に進んだ。同19年7月28日には近習役の矢部権左衛門が留守居役見習となって8月17日に出府したが、12月15日に帰国したいむね願い出たところ、不調法につき翌20年1月16日に鷹番に格下げとなった。
 第5代藩主堀直尭の御城使は、武鑑によると元文6(1741)年も近藤八兵衛(正護)1人となっている。この八兵衛もまたのちに年寄役に昇進した。延享4(1747)年の御城使は山本九郎太夫と堀与市だが、宝暦5(1755)年には堀のかわりに永井嘉左衛門がなって、山本と2人で勤めている。同13年には上松利兵衛が1人で勤めており、村松藩の『宝暦年中(1751~63)分御着到順席』では、旗本組の上松利兵衛が留守居役となっており、知行100石のほか役料30両と書かれている。安永2(1773)年の武鑑では「付水野新五兵衛(忠隣)」、天明4(1784)年では「付星金兵衛」となっていて、ともに御城使であった。水野は越後要門流の軍学を究め、南蛮流の武術にも長じていた。俳号を不老仙謌と称して村松俳諧の2代目宗匠となった。寛政6(1794)年11月に88歳で没した。逆算すると67歳の高齢で留守居役を勤めていたことになる。
 第6代藩主堀直教の代の天明9(1789)年9月9日、小姓の治(はる)嘉右衛門暉良(のち外記)は、27歳で江戸詰め中側用人加役留守居添役に任じられた。寛政5(1793)年に再び出府し、31歳の時に禅海院様(堀直方)御次ならびに江戸詰め中に留守居添役に任命された。同3年の武鑑には「付下野弥五兵衛」となっている。
 第7代藩主堀直方の代の寛政12(1800)年4月19日、小姓の永井此面は留守居方使者を仰せつけられ、翌13年には在邑の直方が病気のため、参勤の出府を延期してもらうため、留守居役に同行して老中戸田采女正氏教と水野出羽守の所に出向いている。
 享和元(1801)年10月5日には、森亘理(繁固)が留守居方外向本役と用人役の兼帯を仰せつけられ、第8代藩主堀直庸の代の文化3(1806)年7月7日に留守居本役となった。「外向」は他の役職にもあるもので、外部との折衝の際に身分を1階級くらい上に詐称して、有利にことを進めようとしたものらしい。森は本役になってから翌4年に直庸の将軍御目見用掛り、同5年に直教の娘お益と直方の娘お佐代の婚礼用掛り、同6年に直庸の婚姻用掛り、同11年お益の再婚用掛り、蓮華光院門跡の馳走役手伝いを勤め、その後も文政3年に直央の家督用掛り、同4年に大宮使の馳走、同6年に直央の婚姻用掛りなどを勤め、文政8(1825)年6月11日には番頭格となって留守居役を勤めている。
 当時の大名の結婚には幕府の許可が必要であった。縁組にあたっては双方から老中に願い出て、老中連名の切紙が出た。そこで両方が御請の使者を老中へ送り、両方の大名(在国の時は代理)が登城して口頭の許可が下りた。そのあと大名は御礼勤めと称して老中のところを廻った。結納の時にも双方から老中に使者を出し、婚礼の日取りも老中の許可をもらった。婚礼がすむと使者を登城させ、老中への廻礼がすむと、留守居役が将軍への献上物の伺いをして指図をえてから、家老か留守居役が献上物を持って登城し、奏者番を通して献上を依頼した。そして使者を出して老中達に婚礼がすんだむね御礼廻りを勤めた。
 文化6年には治外記(暉良)が御城使であったが、この文化ころには250石の奥村九郎右衛門が留守居役、200石の工藤兵馬が添役を勤めていて、2人はそれぞれ村松俳諧の3代目・4代目の宗匠であった。当時の俳諧が社交性を重んじたことから、そのような人材が求められた時期なのかもしれない。奥村は静月庵流水と号し、文化10(1813)年5月に没したが、晩年に留守居役を勤めたという。工藤は若くして留守居添役となり、文政3年(1820)3月に42歳で没した。竹径庵我笑と号し、没後に追善句集『天に帰る魂』が門弟の白我により編集された。
 第9代藩主堀直央の代になると、天保4(1833)年の武鑑に森重内(繁固)、同14年に孫の森重内(繁寛)が載っている。重内繁固は同4年には年寄役格も兼任しており、嫡男求馬が若死にしたため、孫の重内繁寛が跡を継いだ。繁寛は天保2年に留守居見習いとなり、同10年11月に新知100石を下されて本役となり、以後加増されて300石にまでなった。
 天保8年12月21日の午後3時ころ、将軍家慶御成り御用の葵紋つき長持3棹を担いだ持夫4人が、村松藩の辻番所前で休憩をして高声で歌ったため、番人が持夫磯右衛門(源兵衛とも)を取り押さえ、長持を番所に留め置くという事件がおきた。江戸時代の中期以降、江戸では辻番所が899か所あったというが、中でも一番厳しいのが堀家の辻番所で、武術に堪能な屈強の者をそろえ、俗に堀の鬼辻と呼ばれて恐れられていた。そのため、逆に嫌がらせを受けることもしばしばあった。
 ことのしだいが幕府の目付に報告されて小人目付が派遣され、藩邸内で留守居役の奥畑伝兵衛(義敷)が折衝にあたった。藩ではすぐに頼みつけの目付羽多庄左衛門方へ留守居見習いの森豹次郎(のちの森亘理繁寛)を派遣して事件の内容を報告している。しかし内済にすることができず、26日に南町奉行筒井伊賀守(政憲)から呼び出しがあって、奥畑が斎藤利藤次(留守居役または添役か)と同道で辻番人の足軽木村奥八、金子金左衛門、清水重右衛門、渡辺平蔵の4人を連れて出頭し、取り調べを受けて、辻番人4人はこの日から入牢となった。この際、頼みつけの与力が休んでいたため、代わって下役の小倉久左衛門がなにかと面倒をみてくれている。そのあと帰邸が夜中になってしまい、頼みの目付羽多への奥畑からの報告は、明早朝に書面をもってすることになった。
 翌27日には奥畑伝兵衛と斎藤利藤次、森豹次郎が出頭して、奥畑と斎藤が尋問を受け、28日には奥畑と斎藤が足軽小頭の松井儀兵衛、辻番人4人と出頭して尋問され、29日にも出頭して、とりあえず辻番人4人は手鎖のうえ出牢して斎藤に預けられた。
 翌天保9年になって、2月8日に斎藤と森が呼び出され、10日に奥畑、斎藤、松井、辻番人4人が出頭、3月21日に奥畑、松井、辻番人4人が出頭した。閏4月18日に奥畑、斎藤、松井、辻番人4人が出頭したところ、辻番人4人は江戸払い、松井は屹度叱り置き、奥畑も事件の取り扱いに疑念をもたれていたらしくお構いなし、との判決が言い渡された。
 19日には藩主堀直央の名で、辻番人4人の江戸払いと松井の屹度叱り置きが執行されたむね、月番老中太田備後守(資始)へ届書が提出された。それとともに頼み付けの大小目付へも報告の手紙が出され、一件は落着した。
 その後は弘化4(1847)年の武鑑に御城使森亘理(繁寛)、添役加藤(加納)恵輔となっており、嘉永4(1851)年、同7年も引き続いて御城使森亘理、添役加納恵輔が勤めた。
 藩の大砲方中村政信(庫蔵)写の『安政雑記』(『郷土村松 第55号』)によると、第10代藩主堀直休の代の万延元(1860)年3月3日におきた桜田門外の変の直後、同日に村松藩の加納恵輔は江戸城蘇鉄の間に呼びだされ、幕府の徒目付斎藤直蔵から、7日の上野寛永寺への老中の名代々参の節、辻番所の警備を厳重にするように仰せつけられ、3月7日付の請書を提出している。この時加納は武鑑によると御城使となっており、森が退任して添役もなく1人で勤めていたようである。
 また『安政雑記』ではこの桜田門外の事件のあと、細川藩邸に駆け込んでいた襲撃犯の水戸藩士杉山弥一郎を堀直休が預かることになって、加納が中島弥橘郎、大岡五兵衛、工藤玄昧ら計37名とともに受け取りに出向いたという。ただし同じ中村の『万延雑記』(『郷土村松 第57号』)では計43名で出向いたとあるが、加納の名はなく、どちらが正しいのか不明である。
 第11代藩主堀直賀の代の文久元(1861)年には森亘理が再び御城使となり、用人の藤江要が兼任して2人で勤め、加納恵輔は添役に廻っている。
 藤江要は系譜不明の人で、元来藩には藤江姓はなく、幕末になって突然登場する。慶応4年閏4月の着到帳に取次格200石の藤江鉼次郎がおり、これが要と考えられる。鉼次郎の実母靖和院は藩主直央を生んでいるところから、直央とは異父兄弟にあたる。しかしそのような贔屓があったとしても留守居役は勤まらないから、それなりの家柄と能力のある人物だったようである。
 なお留守居役藤江要については年不詳であるが、吉川武戌の『雲煙録』に江戸在住の普請方役人の不正疑惑について、藤江が内密に国元へ上申した一件が書かれている。
 翌文久2年閏8月に、幕府は諸大名にたいし参勤交代の制度を緩める通達をだした。村松藩へは留守居組合の但馬出石藩の留守居役平尾吉右衛門からそのむね廻状が届いた(『松城史談』)。これは富山藩の留守居役を経由して届けられている。

       大目付へ
 今の度、諸大名参勤の割り御猶予仰せ出され候。付いては是れ迄の割り合いを以って、当年参勤致すべ
 き筈の輩、病気にて延引又は旅行中の面々は、其の侭在国帰国いたし苦しからず候
    閏八月
  猶以って御請けの儀は、水野和泉守(忠精。老中)様計りへ御勤めの儀と存じ奉り候。以下廻状を以
  って啓上致す様。

 然らば今日讃岐守登城致され候処、御白書院に於いて松平春嶽(慶永。政事総裁)様、水野和泉守様、
 板倉周防守(勝静。老中)様御列座、和泉守様より参勤御暇の割り別紙の通り御猶予成し下され候。付
 いては万一武備不調の儀之れ有り候らわば、御沙汰も之れ有るべく候。且つ、参勤の期限遅れ遅れに及
 ばぬ様心得られるべき旨、御口達之れ有り。板倉周防守様より御書付二通御渡し之れ有り。今日登城之
 れ無き御方様へ御通達致し候様仰せ聞き候に付き、則(即)写し順達致し候。尤も御承知の上、御請け
 御名々(銘々)様より御使者を差し出され候儀と存じ奉り候。御在邑の御方様は、先ず御請けなされ、
 各様方御出に成られるべき旨と存じ奉り候。廻状早々に御順達御留様(留守居役)より御返却下される
 べく候。
    閏八月廿日             仙石讃岐守内 平尾吉右衛門
      松平 稠松様
      堀 左京亮様
       右御留守居役様

 これによると、同席組合は単なる私的な集まりではなく、幕府の通達を下達するための、半公的な組織でもあったようである。
 文久3年1月11日、35歳の治嘉右衛門(のちの治外記暉運)は、江戸留守を詰めている間、留守居見習を仰せつけられた。同年9月16日には物頭上座留守居本役を仰せつけられ、御手当金80両を支給されるむね、年寄中より仰せ渡されている。
 元治元(1864)年には再び用人加納恵輔が御城使に返り咲き、添役は長野為右衛門(昌厚)であった。この年9月28日に、先役の加納恵輔が村松に帰国したため、治はそれまで住んでいた上屋敷裏門内の靖和院(直央の生母)住居から御留守居小屋に引き移った。御留守居小屋は留守居役のための役宅だったようで、家族とともに住むのが普通であった。
 『中村庫蔵日記』(『村松町史 資料編第三卷』)によると、翌元治2年3月10日に薩摩藩士3人が村松藩の辻番所において刀を抜いて狼藉におよび、番人が捕り押さえたため、翌日の未明に薩摩藩の留守居添役がきて談判となり、ついに内済となって夕刻に引きとられたという。このような交渉ごとも留守居役の仕事であった。こういう際には、77万石の大藩の留守居役でも、3万石の小藩の留守居役でも立場は対等である。
 翌慶応2(1867)年には用人の治外記が御城使に、槙政右衛門が添役となった。しかし翌3年には御城使に森亘理と藤江要、添役に加納恵輔がなって7年前の体制に戻っている。
 慶応4年閏4月の藩の『打込順席御着到』では、治外記(暉運)が留守居役、槇政右衛門が留守居役添役となっている。同じ年の明治元年の武鑑では御城使に森亘理と藤江要、添役は加納恵輔となっている。同2年の武鑑には第12代藩主堀貞次郎の御留守居治外記となっている。
 治外記は文久3年に留守居役になってから、明治維新までの難しい時期を乗り切らなければならなかった。その間、元治元年には日光修復工事の用掛り、同2年には家康の250回法会の藩主名代、同年の新宿関門固め御用を勤めた。慶応2年には朝廷への国産品献上の使者として、10月5日に宰領武者勝次郎、本庄藩士石井安太夫(留守居役か)、同小林梶平と同道で江戸を出発し、19日に京都に到着、三条大橋東詰の大和屋平五郎方に止宿して、27日には真綿7把、竪目録漆を御所の奏者所へ持参して献上した。11月4日には京都を発ち、伊勢神宮を参詣し、江ノ島、鎌倉、金沢などを見物して、11月26日に江戸に戻った。
 慶応3(1867)年2月28日に治は用人になっており、留守居役を兼任している。この2月に越後新発田藩の留守居役寺田惣次郎が江戸の村松藩邸を訪れて治外記に面会し、昨年11月に逮捕した勤王党の村松七士等に関する風聞の真相を問いただし、内容を『村松侯類役治外記江内密聞合対談書取写』(『村松町史資料編第三巻』)に記録して残している。世のいう村松七士事件である。
 質問に答えて治は率直に事件の真相を語りながらも、七士のことを「素より右七士と申すは、先年中不正不埒等の儀之れ有り、役替え仰せ付けられ、当時外様勤めに之れ有り。いずれも難人物にて御用いも之れ無く、兼々廃人同様を残念に存じ込み居り候やに存じられ候」とか、「素より馬鹿もの扱いにいたし置き候もの」といい、さらに事件については「追々吟味詰めに及ぶべきの処、早春より 御中陰仰せ出され等にて延引いたし、未だ巨細(詳しい)の吟味に及ばず候ら得共」として、事件をできるだけ小さく見せ、風聞を沈静化させようと腐心している。
 このような話し合いはもとより国元でやれば簡単なのだが、当時はまだ窓口がなかった。そのため国元同士でも話し合いをおこなうため、軍事方が設けられた。村松藩では慶応2年12月24日に矢部万平が軍事奉行に任命され、七士処刑の立ち合いに訪れた会津藩士一行を応対するため、翌3年5月8日に軍事奉行添役2名、軍事掛り4名が任命され、その後も漸次増員されていった。他藩でもだいたいこの時期に軍事方が設けられたようである。
 慶応3年10月14日に将軍徳川慶喜が大政を奉還し、翌15日に朝廷により承認された。これを受けて朝廷では諸大名に対して上洛を命じた。同月25日にも重ねて11月中に上洛するよう督促したが、藩主直賀は「不快」と称して受けず、断りの使者として江戸留守居役の治外記暉運が11月15日に江戸を発ち、本庄藩の石井安太夫と同行して26日に京都に到着した。この時にはほとんどの藩が日和見をして名代を派遣し、藩主自ら上洛したのは薩摩藩や尾張藩などわずか10数藩にすぎなかった。
 治は29日に伝奏月番の飛鳥井中納言へ使者を勤め、12月2日に日野大納言の屋敷へ呼び出され、藩主の名代を朝廷側に出すように命じられたため、治が名代として滞留することにした。8日になると諸藩の名代が内裏仮建所へ呼び出され、伝議両奏列座のうえ、長州藩主毛利敬親と子の広封、および支藩の長門府中藩、徳山藩、清末藩の各藩主の官位を復して入京を許すという宥免処置と、英国公使パークスから、大坂ならびに神戸に諸藩兵が多数入りこんでいて、外国人殺傷事件なども起こる恐れがあり、早々に引き払うよう旧幕府の老中板倉伊賀守(勝静)に申し入れがあった件への返答方について下問があった。
 下問に対する治ら7藩重臣連署の上申書は、次のような主体性のないものであった(『復古記 第一冊』)。
 
 今般、 御朝権御一新の折り柄、人心居合の儀、深く 宸襟を悩まされ、殊に来春追々御大礼行われ、
 且つ又 先帝(孝明天皇)御一周にも成られ、旁※防長の事件、御寛大の御処置振り、御書付を以って
 仰せ渡され、即刻見込みを申し上げ奉り候様 御沙汰の趣きを謹んで承り奉り候。私共に於いて、別段
 言上仕り候段御座無く候。此の段御請け申し上げ候。
       (松前藩) 松前志摩守家来  島田 興
       (村松藩) 堀 左京亮家来  治 外記
       (本庄藩) 六郷兵庫頭家来  石井安夫(安太夫)
       (大田原藩)大田原鉎丸家来  権田峯蔵
       (須坂藩) 堀 内蔵頭家来  中野五郎太夫
       (天童藩) 織田左近将監家来 宮城惣右衛門
       (麻田藩) 青木源五郎家来  岩田啓蔵

   ※防長の事件(禁門の変で長州軍が宮廷に向け発砲し、それにたいし朝議で長州征伐がきまった)
 この7藩はともに藩主が柳の間詰め大名で、のちに治が石井安太夫や中野五郎太夫と行動を共にしているところをみると、かなり親しい間柄であり、これがいわゆる柳の間留守居組合の仲間だったようである。
 12月9日には王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が成立した。翌慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こり、幕府軍は総崩れとなって大坂城に敗走した。戊辰戦争の始まりである。さらに徳川慶喜が7日に軍艦開陽丸で密かに大坂を脱出するに至り、大坂城にいた将兵たちはこれを聞いてその日のうちに四散した。
 幕府軍の潰走を受けて、治はひとまず江戸に戻ることを願い出、許しを得て須坂藩の家老中野五郎太夫と同行して東海道を下り、途中、四日市では敗走する歩兵で混雑する中、ここより宮(吉田=三州吉田の誤読か)へ船で渡り、19日に江戸にたどり着いた。
 慶応4年1月27日に江戸留守居添役の槙政右衛門が京都に派遣された。槙は江戸に戻った治と入れ代わりで、藩主の名代として新政府の元に出仕したようである。
 同年2月12日には慶喜が上野寛永寺に謹慎し、朝廷へ恭順謝罪書を提出した。この日、四国丸亀藩の京極佐渡守方へ江戸城西の丸の使番が訪れ、慶喜の恭順謝罪書の写と、慶喜より佐渡守あての通達書が届けられた。すぐさま、その日のうちに京極家の江戸留守居役浅間新五郎から、柳の間7軒組合の好みをもって、同写が村松藩側に届けられた。
 この時の浅間の添状は以下のようなものであった(『村松町史 資料編 第三卷』所収坪井周博『日記』)。

 御回状啓上致し候。就いては今夕佐渡守方へ西の丸より御使番近藤作左衛門様御出、別紙御書付都合四
 通御渡し、御同席様方へ御心得の為御通達に及び候様仰せ聞かされ候。之れ依り別写相廻し申し候。御
 留様より御返却下されるべく候。以上。
                  京極佐渡守内 浅間新五郎
     二月十二日
     御組合六軒様

 この写はさっそく国元の村松へも送り届けられた。
 2月には藩主直賀の出府を受けて、江戸にいた留守居役治外記(当時40歳)や年寄森重内、同野口源右衛門らの重臣が協議して直賀の上洛を決め、供揃えを定め宿割りまでできたが、出発直前に江戸入りした軍事奉行矢部万平の強い主張で中止された。直賀は病気と領内鎮撫を口実に総督府に帰国を願い出、27日に江戸を発って3月4日に村松に帰着した。
 3月6日には東征軍が江戸に向かうというので、定府の家族たちは柳島の下屋敷へ引き移った。21日にはいよいよ事態が切迫してきて、治と下役の藤木岩平と足軽以外は全員下屋敷へ引き移り、追って治も下屋敷へ移った。26日に矢部や奥畑らは雇船に藩邸の武器などの荷物を積んで帰国してしまった。
 4月3日に用人の野口彦兵衛と上下6名が北陸道鎮撫使一行に随って江戸入りした。同月5日に野口が鎮撫軍参謀掛りに報告した江戸藩邸の陣容は、士分4名、徒士以下4名、足軽7名、中間体の者10名、小銃5挺のみであった。野口らはしばらく鎮撫使に随従していたが、閏4月25日に鎮撫使一行がふたたび越後に向けて出発し、村松勢は江戸に足止めを命じられて藩邸入りした。この閏4月からは国元との音信も途絶えてしまった。その間、2度ばかり探索も出したが、長岡の戦場から先の様子はいっさい分からない状態であった。
 8月21日に治と野口の両名は、有栖川宮大総督に帰国の歎願書を提出したが許されず、空しく日を送っていた。おいおい風説で新政府軍の松ケ崎上陸や、越後での同盟軍の総敗北、直賀の米沢撤退、直休夫人仙寿院と堀貞次郎の帰順などをあらまし伝え聞き、再度帰国の歎願書(『松城史談 16号』所収野口政名書上「北陸道鎮撫使御用一件」)を提出し、ようやく許可が出て通行の印鑑を与えられた。

 左京亮(堀直賀)儀、兼ねて北越諸藩と申し合わせ、会賊追討の 朝命を戴仕奉り候処、先頃以来奥羽
 越藩々竊に彼の凶暴に与し候族も之れ有る哉に相聞こえ候処、元来主家の儀は勤 王の素志他念無く御
 座候。兼ねて私共へ申し含み置き候次第も御座候とは申し乍、当今の場合如何有るべく御座候哉と、旦
 暮(朝夕)苦心罷り在り候ら得共、其の後追々彼の地の風聞承り候には、素々小藩の微力及ばぬ故か、
 又は頑辟の重臣共順逆の大義を相弁えぬ次第にも有るべく御座候哉、主家の儀も彼の徒に連合仕り候哉
 の由にて、既に当月初旬村松表へも御進軍に相成り、左京亮には何方へか退去仕り、小川平次右衛門と
 申す者、左京亮養方の叔父貞治郎を伴い、謝罪の歎願仕り候処、夫々御許容に相成り候哉の趣きを伝承
 仕り、真偽は計り難く御座候ら得共、誠に以って驚き入り、重々恐れ入り奉り候。全く不行き届きの重
 臣共、隣境会藩の暴威に惑溺仕り候故の儀と、今更切歯痛憤罷り在り候。此の上は暫時も当地に安居仕
 り難く、速やかに彼の地へ立ち、貞治郎の安危を承り、且つ、左京亮始め幾重にも悔悟恭順重罪拝謝の
 儀、只管(ひたすら)歎願仕り度く存じ奉り候。就いては君臣の情実偏に 御垂憐成し下され置き、越
 後表への通行を 免じられ、御印鑑頂戴 仰せ付け候様愁訴歎願奉り候。以上。
                    堀左京亮家来
     八月廿五日              治 外 記
                        野口彦兵衛
   大総督府御中

 それより2人は9月11日に江戸を出発、20日に村松に到着した。治は定府で国元に屋敷がないため、岡本勝蔵方に止宿した。治は22日に新藩主堀貞次郎の御前において新知220石を下されて、ふたたび用人役に任じられ、27日には村松を発って10月7日に柳島の下屋敷に入った。
 一方、京都に派遣された留守居添役の槙政右衛門の動向をみてみよう。2月3日に新政府は諸藩にたいして元治元年以降の諸国の警守、昨年12月以来の宿衛徴発の兵額、および在藩の「見兵」等を録上させた。それを受けて、槙は3月2日付けで新潟港、および村松浜、中村浜への海防のため出兵していた兵数と大砲の数を京都の弁事役所に報告している(『復古記 第二冊』)。
 4月に新政府は諸大名に命じて江戸にいる家族および家臣を国元へ帰させ、現況を報告させた。12日付けで槙が弁事役所に報告書を提出した(『復古記 第三冊』)。

 今般、 王政御一新、殊更当節関東へ御進軍にも相成り候事に付き、元幕府の制度を以って、家族並び
 に家来共定府罷り在り候内、在所へ引き取り有無の儀御尋ね、右は御一新に付き、左京亮養母(仙寿院
 )の事、当正月中在所表へ差し遣わし、家来定府の者共も追々差し下し、当時士分二人、以下二人居
 し置き候ら得共、家具取り仕廻り後は、漸々差し下す手筈に申し付け置き候。此の段申し上げ候。以上
 。
                    堀左京亮家来 槙政右衛門
     四月十二日
      弁事御役所

 北越戊辰戦争が始まって、6月に槙政右衛門は京都より新政府弁事局の印鑑を以って帰藩の途中、与板(現与板町与板)まできて通行不能となり、新政府軍に加わっていた須坂藩堀家の者に頼み込み、23日に須坂藩の者から槙の進退について、関原(現長岡市関原町ほか)の新政府軍会議所に歎願がなされた。その結果、槙は会議所の添書をもって、ふたたび京都の太政官へ差し帰された。

 以上、村松藩の江戸留守居役をわかる範囲でまとめると次のようになる。家禄は在職中のものとは限らない。

    氏名       家禄      在職年
 長野弥一右衛門     200石  元禄ころか
 下野弥五兵衛      200石  元禄4年、同8年
 野口源右衛門政貞    300石  元禄4年、同8年、宝永2年
 富岡八郎左衛門正倫   200石  宝永2年、同7年
 野口次右衛門政国    300石  宝永7年、正徳3年、同4年まで   
 近藤治左衛門勝義    300石  享保3年
 関軍右衛門       200石  享保3年
 近藤杢左衛門勝興    200石  享保17年
 近藤八兵衛正護     200石か 元文6年
 山本九郎太夫      200石  延享4年、宝暦5年
 堀 与市        120石か 延享4年
 永井嘉左衛門      200石  宝暦5年
 上松利兵衛       100石  宝暦13年
 水野新五兵衛忠隣    200石   安永2年
 星金兵衛        200石  天明4年
 治外記暉良 添役    200石  天明九9年から
 下野弥五兵衛      200石  寛政3年
 森亘理繁固 添役    200石  享和元年より
 森亘理(重内)繁固    200石   享和3年から文政8年、天保4年
 治外記暉良       300石  文化6年
 奥村九郎右衛門     250石  文化10年没の晩年に勤めた
 工藤兵馬        200石  文政3年没(42歳)だが若くして勤めたと          
 加納恵輔 添役     100石  弘化4年、嘉永4年
 加納恵輔        200石か 万延元年、元治元年
 奥畑伝兵衛義敷     200石  天保年中に7年間勤めた
 森亘理(重内)繁寛    250石  天保10年より、同14年、弘化4年、嘉永4年、文久元年、慶応3年
                 、明治元年
 藤江 要        200石か 文久元年、慶応3年、明治元年
 加納恵輔 添役     200石か 文久元年
 治外記暉運       220石  文久3年から元治元年、慶応2年から3年までか、同4年 
 長野為右衛門昌厚 添役 100石  元治元年  
 槙政右衛門 添役    100石  慶応2年、同4年   
 加納恵輔 添役     200石か 慶応3年、明治元年    

 慶応4年5月に新政府は公務人制度を設け、各藩から1名ずつ京都に出仕させて、留守居役の職務のうち政府との折衝の仕事にあたらせた。8月20日にはこれを公儀人と改称し、公儀所の議員として新政府の意向を受けるとともに、藩情を上申することを職務とし、別に公用人を新たに設け、諸藩間や藩内の問題を担当させ、今までの留守居役の職掌を分離した。同年(明治と改元)9月20日に明治天皇が東京行幸に出発し、東京にも公儀人がおかれることになった。
 11月23日に堀貞次郎が出府し、治は年寄役用談に取り立てられ、公儀人に任命された。
このころ蒲生済助改め堀重修も東京における公儀人となった。明治2年2月22日に、上京中の新藩主堀直弘(貞次郎)と、年寄小川平次右衛門、公儀人堀重修は、国元に相談せず独断で新政府に版籍奉還の上表文を提出した。これを知った藩士らは驚き、不満が小川や重修に向けられて、小川は3月16日に更迭された。6月17日に全国一律に版籍が奉還されて藩内の動揺は収まったという。
同2年の武鑑でも御留守居治外記となっている。

 (2004年3月村松町郷土史研究会発行の『郷土村松61』に発表したものを流用しています。2019年4月1日up)