ドイツキリスト教神秘主義思想における言葉で言い表せないもの

                                 渡 辺 好 明

   ドイツキリスト教神秘主義とは
 神秘主義とは、神の実在は人間の知恵で計り知れないものとし、その実在を独自に無媒介の直接的・内面的な経験や直感によって捉えることができるという哲学や宗教上の立場をいう。したがってあの人は神秘的だ、という意味の神秘とは異なる。
 神秘主義は論理的な思弁よりも詩的な直感を重視し、神的なものや聖なるものとの合一を目標とする。「もはやわれ生くるにあらず。キリストわが内にありて生くるなり」といったパウロや、ヨハネの信仰には明らかに神秘主義的な要素が色濃く含まれている。そして『キリスト教大事典』によれば、「合理的思考、懐疑、信条、制度などによって引き裂かれた神と人との関係が、体験の層においてその根源的な統一を生き生きと回復する。ここに起る体験の内容は、時間・空間の現実的規定に超越し、したがって言語や論理による表現を拒否する(576頁)」という。しかし神秘主義は教義の体系や儀式などが制度化した教会にはなじみにくく、キリスト教全体から見れば少数派であった。神秘主義においては、全体性や象徴性が重要で、そこでは体験されるものすべてが、同時に他のあるものの意味を象徴している。
 神秘主義としては新プラトン学派や、エックハルトなどのドイツ神秘主義が代表的であるといわれている。人知による不可知性については、すでにプラトンが、「創造者を見出すことは難しい。そしてひとたび見出した者が、彼を万人に報告することは、不可能である」といって、神(ギリシャの)はすべての理性の上にあり、理解することも把握することもできないとしている。
 マイスター・エックハルト(1260頃~1327頃)はドイツ(当時は神聖ローマ帝国に属していた)の神学者で、ドイツキリスト教神秘主義者の中でも最も主要な人物といわれている。若くしてドミニコ会に入って説教者となったが、パリとケルンで哲学と神学を修め、パリ大学の神学教授となった。1302年にはドイツの北半分を管轄するザクセン地方の管区長に任命された。しかしその主張が汎神論的であるとされて、死後に著作の一部分が異端として非難された。彼の思想的基礎はアリストテレスの理性哲学であるが、霊性はアウグスティヌスの影響を深く受けている。
 彼の思弁的神秘思想は弟子のヨハネス・タウラー(1290~1361)、ハインリッヒ・ゾイゼ(1295~1365)へ伝えられ、そこから宗教改革のマルティン・ルター(1483~1546)やニコラウス・クザーヌス(1401~1464)、ヤコブ・ベーメ(1575~1624)、さらに敬虔主義の創始者シュペルナー(1635~1705)、アウグスト・フランケ(1663~1727)、ツィンツェンドルフ(1700~1760)を経て現代へと繋がっている。
 ルターはアウグスティヌス会修道院に入って、「キリストのみ、恩恵のみ、信仰のみ」の認識にいたり、「聖書のみ」という宗教改革の原理を確立しいった。聖書のドイツ語訳を行い、1522年から福音主義教会の建設にあたった。ルター派はドイツのプロテスタント諸派のうち最大のもので、スカンジナビヤ諸国では国教となり、アメリカでも大教派の一つとなっている。ルターは熱狂的心霊主義を退け、カトリック教会が行なっていた七つの秘蹟(サクラメント)――洗礼、堅信、※聖餐、告解、終油、叙階、結婚のうち、聖書に基づく洗礼と聖餐を除く五つを排除した。そして洗礼と聖餐は秘蹟と呼ばず典礼または聖典礼といっている。さらに聖書中心の立場から、偶像崇拝に近いマリア崇拝も排除した。
   ※ギリシャ正教、カトリック、プロテスタントを問わず、聖餐は最も重要な秘蹟である。
    聖餐はキリストの血(ぶどう酒)と体(パン)にあずかることであり、それによりキリ
    ストと一つになることができるという象徴的な儀式で、のちに述べる「合一」とも関連
    する。
 ツィンツェンドルフはモラヴィア兄弟団の創始者で、ドイツのルター派牧師シュペルナーが創始した敬虔主義を受け継いで発展させた。少年時代にはハレ大学教授フランケの経営する学園に学んだ。教会の理知的な頭脳による信仰を否定し、熱狂的な心情感激をもって、直接キリストと霊の交わりをもつよう唱え、当時から狂信家との批判もあった。そしてその言動は矛盾も大きく、そのため信仰の危機に陥ったこともある。各地で迫害されていたカルヴァン派やカトリック教徒らを自領のヘルンフートに保護し、いつしかその盟主的存在にまつり上げられ、1727年にモラビィア兄弟団を結成した。彼はキリストを信じる者は宗派を問わず皆兄弟であるという汎キリスト教的な考え※を実践し、遠くロシアやアメリカ、東南アジアにまで足をのばし、3000回におよぶ説教を行なっている。彼の教えは自由と寛容の精神を育み、その非ドグマ的精神風土から哲学者ヘーゲル(1770~1831)、ロマン派の詩人ヘルダーリン(1770~1843)、同メーリケ(1804~1875)など、独創的な人物を輩出した。
   ※ドストエフスキイは『作家の日記』(小沼文彦訳 一八七六年六月第二章二)に、「視
    野の拡大」として、「これは彼らの文明とのわれわれの和解であり、これまでそれはわ
    れわれの理想とは反りが合わなかったにしても、ともかくも彼らの理想を認識し、それ
    を許容することである。(中略)それぞれ異なるヨーロッパの個性のひとつひとつの中
    に、かならずしも同意できない点が多々あるにもかかわらず、その中に含まれている真
    理を開発しこれを見出す、われわれが取得した能力である」といって、「これこそまさ
    にロシアの民衆だけが身につけているあるものにほかならない。なぜならこれと同じよ
    うな改革はいまだかつてどこにもあった例がない」と自負するが、これはロシア正教の
    教義になじまない。ほかでもこの自己愛的国家観が論じられ、「わが偉大なロシアが、
    世界に、全ヨーロッパの人類に、そしてその文明に向かって、自分の新しい、健全で
    まだこの世界が耳にしたこともない言葉を口にする(中略)この言葉こそは新しい、全
    世界におよぶ、四海同胞的な結合によって一つにまとめられた全人類の福利と真理のた
    めに云々(一八七七年七月・八月第二章二)」といって、その新しい言葉を最初に口に
    した天才がロモノーソフ、プーシキン(1799~1837)、ゴーゴリ(1809~1852)ら
    であると自賛する。しかしこの考えがツィンツェンドルフの思想の焼き直しであること
    はほぼ間違いなかろう。
 さらにエックハルトの影響はドイツ神秘主義の大きな流れとして、ノヴァーリス(1772~1801)や、フィヒテ(1762~1814)、シェリング(1775~1854)、マルティン・ブーバーにまでおよんでいる。また、ヘーゲルやショーペンハウアー、ニーチェなどもエックハルトに深い関心をよせ、ほかにもハイデッガーやルドルフ・シュタイナー、エーリッヒ・フロム、C・G・ユングなどもエックハルトを評価しているという。その影響の大きさを考えれば、ドイツキリスト教神秘主義はたんにドイツ一国に留まらず、西欧精神史をつらぬく一大潮流と見なすことができる。

   歴史的イエス・キリストと文献学から見た聖書
 ドストエフスキイ(1821~1881)はフォン・ヴィージン夫人宛の手紙で、「誰かが私にキリストは真理の外にあると証明してくれたにしても、また実際に真理はキリストの外にあるものだとしても、私は※真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあることを望むことでしょう」(小沼文彦訳『書簡集』一八五四年二月下旬)と述べているが、しかし、現在伝えられているイエス像が後世の創作であるとしたら、ドストエフスキイのいうキリストそのものが存在しえなくなる。したがって「キリストとともにあることを望む」というより、「福音書に書いてあることを信じる」というべきであろう。それは本人もいっているように、信仰と教学的証明とは――両立しがたいふたつのものなのである。人間が信じたいと思ったならば――これを押しとどめることはできない(『作家の日記』一八七六年三月 第二章三)」のであって、あくまでも個人の実存の問題となる。
   ※「真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあることを望む」というフレーズ
    は、すでにテリトゥリアヌスやアウグスティヌスもいっているといい、ドストエフスキ
    イの独創ではない。
 キルケゴール(1813~1855)はキリスト教の真理性に対する客観的なアプローチを否定し、「主体性が真理である」というテーゼに到達する。つまりここから実存主義が出発した。
 そして『キリスト教の修錬』の中で、歴史の中におけるイエス・キリストについて、キリスト
について歴史からなにかを学ぶことができるか。

 キリストについて歴史からなにかを学ぶことができるか。
 否、なにも学ぶことはできない。なぜできないのか。それは、人は「キリスト」について、ま
 ったくなにも〔たんに知的に〕「知る」ことはできないからである。彼は逆説であり、信仰の
 対象である。彼はただ信仰に対してのみ存在する。しかしすべての歴史的伝達は「知識」の伝
 達である。したがって、キリストについて知るためには、歴史からはなんのたすけをえること
 もできないのである。というのは、もし彼について〔歴史から〕なにかを多少なりとも知るこ
 とがあるとしても、それはほんとうの彼ではないからである。(中略)歴史はキリストを、ほ
 んとうの彼とは異なる者にしてしまう。(中略)彼について人は何も知りえない。彼はただ信
 じられるだけなのである(『人類の知的遺産48 キルケゴール』361~362頁より引用)

 といって神秘主義的立場をとり、歴史性=シンボルはイエス・キリストと全くなんの関わりもないと断定する。
 ユダヤ人の元ハンブルグ大学哲学科教授エルンスト・カッシーラー(1874~1945)は、『シンボル形式の哲学(二)』において、「経験的―感性的存在や、感性的な像=世界・表象世界といった〔※よそもの〕がどれほど付きまとっていようと、それとは関わりなしに、宗教そのものの純粋な意味を獲得しようと企てるのが神秘思想である。神秘思想のうちには、硬化した※外的所与をすべて剥ぎとり、解消しようと努力する宗教的感情の純粋な力学が発現している。(中略)神秘思想とは、信仰内容となる神話的要素と同様に、歴史的要素をも排除する(462頁)」といって、キルケゴールの思想が神秘主義的であることを裏づけている。
   ※「よそもの」も「外的所与」もすべてシンボルにすぎない。
 デンマーク生まれのキルケゴールはコペンハーゲン大学神学部に学び、同国のルター派教会の神学国家試験に合格したものの、聖職者にはならなかった。デンマークはルター派プロテスタントを国教にしていたが、18世紀になると敬虔主義のヘルンフート兄弟団(モラヴィア兄弟団の分派)が進出してきて影響を与えた。キルケゴールの父ミカエルは国教会やこの兄弟団の集会にも出席して、牧師や神学者たちと神学上の議論を闘わせるのを好んだという。キルケゴールもまたドストエフスキイと同じく癲癇であった。
 ドストエフスキイの聖書観は、『作家の日記』に、「この十数世紀にわたる長い年月を通じて人類にとってこの神聖な書物よりも尊いものが、はたしてひとつでもあったであろうか? そこでいまや人類に対するその愛とこの書物に対する人類の愛を感謝して、聖書を賛美しているのである。聖書は十数世紀にわたって人類に恩恵をほどこし、聖書は太陽のように人類を照らし、人類の上に力と生命を振りそそいできた(一八七六年三月 第二章一)」と記しており、オズミードフに宛てた手紙にも、「この書物は総体としてまことに驚くべき印象を与えてくれます。まあたとえば、人類の歴史にこのような書物はほかに一冊もないしまたありえない(『書簡集』一八七八年二月)」と書いて、最大級の評価をしている。しかし、当時のほとんどのロシア人は聖書など読まなかったし、教会も秘蹟的で福音書の世界からはほど遠かった※。
   ※ロシア正教の信者は好んで『殉教伝』を読んでいた(小沼訳『作家の日記』注)という
    が、庶民が簡単に読めるものでないことはドストエフスキイ自身が証言している。しか
    しその内容は広く庶民にまで知られていた。ドストエフスキイがロシア精神と呼ぶもの
    の中には、この『殉教伝』の影響が色濃く反映している。またドストエフスキイは子供
    のころドイツのギブネルの本を訳したと思われる『新旧約聖書から取った百四つの物語
    』を読んでいたという。陸軍中央工科学校では神学初歩を学んでいたので、神学の素養
    もあったわけである。
 『カラマーゾフの兄弟』の「ゾシマ長老の生涯における聖書の意義」のところでは、「ああ、実になんという教訓だろう! 聖書と呼ばれるこの神聖な書物は、おお、なんという奇しき奇蹟だろう! なんという宏大な力がこの書物によって人間にあたえられたことだろう! 世界と人間と人間の性質とが、まるで浮彫にされているようだ。一切の事象が永久に名ざされ示されているではないか。そして同時に、いかに多くの秘密が解決され、啓示されていることだろう!(原久一郎訳 第六篇二‐[B])」と讃えている。ここで「多くの秘密が解決され、啓示されている」というが、聖書は問題集の解答欄のようなものではないので、あくまでもドストエフスキイによる神秘主義的な象徴解釈ということになる。
 それでは聖書とはどのようなものかというと、旧約聖書の大部分はヘブライ語で書かれており、最初に書かれたものはすでに失われて、現存するいちばん古いものでも、イザヤ書以外は9~10世紀に書かれたマソラ・テクストと呼ばれる写本である。イザヤ書のみは1947年に発見された死海文書に、紀元前2~1世紀の完全なものが存在する。これはマソラ・テクストによく似ているが、それでも重要な異文があり、元のテクストがどうであったかは知ることができない。一方、新約聖書に含まれる27巻の文書は、紀元50年ころから149年ころ、遅くとも150年ころまでに書かれたといわれ、原本はすでに無く、聖霊によって書かれたと言われるものの作者も不明で、多くの異本異読がある。4世紀に書かれたシナイ写本や、5世紀のヴァチカン写本をギリシャ語に翻訳したものが最古のものである。そして福音書が歴史的文書として信頼できないことは今では常識となっている。
 聖書に関する批評学はルターの聖書研究を契機として、18世紀後半から19世紀にいたって急激に発展した。その発想はすぐれてプロテスタント的である。これに危機感を抱いたのがキルケゴールやドストエフスキイであった。ドストエフスキイが「真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあることを望む」という時、「真理」とは明らかになったイエスの実像や聖書の不確実性をいうのだろう。しかしアダムとイヴの寓話のように、一度知識と知恵を身につけた人間がかつての素朴主義に後もどりすることはできない。ここからドストエフスキイの懐疑と不信との闘いがはじまるわけである。
 それに反して、文献学者でもあったニーチェは、『反キリスト者』の中で、福音書を「奇妙な病的な世界」と評し、論理の天才パウロがイエスの愛の福音ではなく、正反対の憎悪を基本思想とする「禍音」を説いたと厳しく批判する。そしてキリスト教はイエスの教えたものではなく、彼岸や最後の審判、霊魂の不死などはパウロらの捏造であるから、「どれほど用心して読んでも用心しすぎることはない(『ニーチェ全集14』232頁)」といっている。そして、イエスは「ちょうどアッシジのフランチェスコの心理学的範型が、彼の伝説の中に、伝説にもかかわらず、残っているようなものだ。彼が何をしたのか、何を言ったのか、いったいどんなふうに死んだのか、ということについての真実はな」いといって、「キリスト教が手持ちにしているさまざまな観念やイメージ、罪とその赦し、霊魂不滅、終末や最後の審判、総じて〈彼岸〉などはない! これらはパウロ以後の聖職者や教会のうす気味わるい発明品なのだ。(イエスは〈審いてはならない〉と言った。それなのにどうしてこの世の終りに強大な審問官が出現するのか)」と書いて、福音書はパウロとその追随者による偽造であると結論している。
 ニーチェは「彼が生きたごとく、彼が教えたごとく、死んだのである――「人間を救う」ためにではなく、いかに生くべきかを示すために。実践こそ、彼が人類に残したものである(同書217頁)」といって、イエスが怒らず、審かず、悪人にも手向かわず、愛に生きた白痴のような人間であったとして、イエスを英雄や天才に祭り上げた『イエス伝』の作者ルナンを道化役者とこきおろした。

   ドストエフスキイとプロテスタント
 ドストエフスキイは陸軍中央工科学校でドイツ語を学び、ホフマンの『牝猫ムル』はドイツ語で読んでいた。ルターについての知識もかなりあったようで、『カラマーゾフの兄弟』に、「その方が地獄と雖も、どこか優雅な、文化的な、つまり此のウ、ルウテル好みのものになるものなあ(原久一郎訳 第一篇四)」とアリョーシャにいわせている。
 また『悪霊』のスタヴローギンは、ティホン僧正との対話の中で、「わが国の進歩的なユダヤ司祭たちは、ひどくルーテル派に傾いて〔奇蹟を自然科学的原因で説明しようとして〕いるようですね。そのほうがたった一人の大僧正の、剣の下の真理よりは、まだましかな。あなたは、むろん、キリスト教徒でしょう?(江川卓訳 第三部 スタヴローギンの告白)」という。
 しかしルターのプロテスタントについては、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のところで、15世紀の話として「ちょうどそのころ、北方ゲルマニヤに、おそろしい異端の教えが発生した。いわゆる《ともしびのごとき》(つまり教会のような、)だな、そういう大きな星が《水源におち、水はにがく》なったってわけだ。これ等異端の教えは、神をなみする精神から、奇蹟を否定しはじめた(第五篇五)」と拒絶反応を示している。これは七つの秘蹟のうち、五つを排除したルターのプロテスタンチズムに対する不満を述べたものであろう。
 『カラマーゾフの兄弟』では、法廷でドミトリイの医学鑑定をしたドイツ人の老町医者ドクトル・ヘルンツェンシトゥベが、「原始キリストの教を奉ずるヘルンフウテル派か、《モラヴィヤ兄弟》派か、たしかにはわからないが、とにかくそういう信者であった(第十一篇三)」と書かれており、善良で博愛精神に富み、信心深いがロバのように頑固と、幾分戯画化して描かれている。
 また、イヴァンが悪魔との対話で激昂してコップを投げつけた際、悪魔は「ルウテルのインキ壺を思い出したわけだな!(『同書』第十一篇九)」と大声で叱りつけており、イヴァンの人物造形でルターを参考にしたことを暗示している。
 そしてプロテスタントについて、『作家の日記』に、「もしカトリック教会が終末を迎えたら、プロテスタントの諸教派もそれにつづいてかならず崩壊してしまうに相違ないのだ。そうなったらプロテスタントしようにも相手がなくなってしまうわけではないか? 彼らはすでに現在でもほとんどすべて一種の「ヒューマニズム」の団体かなにか、と言うよりむしろ、その傾向があることはずっと以前から認められていたことであったが、単なる無神論へあっさり移行しようとする傾きがある。それでもいまだにまだ宗教としてなんとか生きながらえているのは、今日にいたるまで、依然としてプロテストしつづけているからにほかならない(小沼文彦訳 一八七六年一月 第三章二)」と述べている。
 そしてさらに、「この信仰はまさにプロテストしつづける信仰であり、単なる否定の信仰にすぎない。したがってこの地上からカトリシズムが姿を消すが早いか、それにつづいてプロテスタンチズムも姿を消してしまうことは確実である(『同書』一八七七年一月 第一章一)」と述べて、偏見に満ちた発言をしている。プロテストには「抗議する」という意味のほかに、「告白する」とか、「公言する」という意味がある。したがってプロテスタンチズムにはカトリック教会に抗議するだけではなく、信仰における生命的なものを大胆に告白し、公言するという積極的な意味がある。
 さらにプロテスタントの影響から生まれたロシアの福音派シュトゥンダ派について、「マルチン・イヴァーノヴィッチ・ルターよりはるか以前にはじまった、永久不変の物語であるが、不変の歴史的法則によって、わが国のシュトゥンダ派にもほとんどこれとまったく同じことが起ったのであった。彼らが早くも分裂し、語句のことで言い争い、各人が福音書をそれぞれ自分勝手になんでも好きなように、しかも、これが最も肝心な点であるが、いちばん最初にさかのぼって――てんでんに解釈していることは、誰でもよく知っている。――憐れむべき、不幸な、無知な人たちよ!(中略)だがなによりもいけないのは――なにもかも〈いちばん最初にさかのぼって〉、つまり、世界の創造から、人間とはなんであるか、女とはそもそもなんであるか、なにが善であり、なにが悪であるか、さらに進んで、神は存在するか存在しないか、と言ったようなことにまでさかのぼって問題を提起しようとする点である(『同書』一八七七年一月 第一章二)」といって、間接的にプロテスタントを批判している。シュトゥンダ派もプロテスタント同様、正教会の教義と典礼を排斥し、新約聖書を唯一の聖典とし、友愛と勤労を重視したという(小沼文彦の注による)。
 また、ほかにも『作家の日記』で、

 今度はゲルマン的世界の最も精神的で自然発生的な原理の中からプロテストの新しい公式を抽
 き出して、この上なく強力にはげしい抵抗を示すことになった。つまり、研究の自由をとなえ
 てルターの旗幟を押し立てたのである。この決裂は世界的なものでまことに恐ろしいものであ
 った。プロテストの公式が発見され、その役目を果たすことになったのである。(中略)ルタ
 ーのプロテスタンチズムは早くもとっくの昔に時代おくれになってしまったし、研究の自由と
 いう思想ももうずっと前から全世界の科学に取り入れられるようになっていた(一八七七年五
 月・六月 第三章一)。

 と書いている。宗教改革から聖書の研究がはじまり、キリスト教を研究の対象にするようになって、文献学の発展をうながしたことはドストエフスキイの指摘通りである。
 またマイコフ宛の手紙に、「いまや生気を失ったくたばりぞこないのカトリシズムや、愚かな自家撞着のかたまりであるルーテラリズムを後生大事にありがたがっているヨーロッパには、とても※その精神など分かるものではありません(小沼文彦訳『書簡集』一八六八年一月十二日)」といっている。
   ※ドストエフスキイのいうところのキリスト教精神。
 同じように、ドストエフスキイは「西欧にはすでにキリスト教と教会は現実には存在しないのだ。カトリシズムは、現実にはすでにキリスト教ではなく、偶像崇拝に移行しているし、プロテスタンチズムはまた巨人のような歩度で、無神論と、不安定で、流動的な、ぐらぐらと変わりやすい(永久不変なものではない)道徳論に移りつつある(『作家の日記』一八八〇年八月 第三章一)」と主張する。
 しかし、ドストエフスキイのキリスト教観がプロテスタントに由来することを、ルネ・ウェレックは「ドストエフスキー論の系譜」で次ぎのように述べている。「ゾシマ長老の〈聖者の生涯〉の場合も、その出自は、ドイツ敬虔派の所説と理想に心酔した一八世紀ロシアの大主教ティホン・ザドフスキーに求められるという。ドストエフスキーの中には、ロマン派的歴史主義、民族崇拝思想が出てくるのだが、これも、作家のすぐ前の世代の人々を熱狂させたシェリングとヘーゲルの観念論哲学の変容したものである。夢の世界や人格の分裂に関心を示すドストエフスキーの深層心理学でさえ、ロマン主義的傾向の強い批評家、医師、例えばライルやカルース等の理論に多くを負っている(大橋洋一訳 『現代思想――特集=ドストエフスキー』所収)」と指摘している。
 そしてロシアへのドイツ敬虔主義の影響については、『交錯する言語』の中で、福住誠が「啓蒙期のロシアとドイツ人――ドイツ敬虔主義者の活動を中心として――」で、黒澤峯夫が「怪僧フォーチイ」、御子柴道夫が「アレクセイ・ホミャコーフのキリスト論」で論じている。
 それによれば、ピョートル大帝がロシアの近代化のため科学アカデミーの創設を計画したが、生存中果たせず、あとを継いだ女帝エカチェリーナ一世により1725年にペテルブルク科学アカデミーが創立された。ここには多くのドイツハレ大学の敬虔主義者たちが会員として招聘され、大きな影響を与えてロシアの近代化に貢献したという。当時ハレ大学の神学部は、シュペルナーの影響を受けたフランケが中心となって、敬虔主義運動を展開していた。しかし1738年にフランケの連絡員としてペテルブルクにきていたゴットリープ・バイエルが死んで、代わりにアカデミーでは啓蒙主義が主流になった。18世紀のロシアの西欧化というのは、実質的にドイツ化というのに近かった。
 その後、1812年のナポレオン軍のロシア侵攻に対する祖国戦争ののち、ロシアは神秘主義や敬虔主義に関する出版や、公開の説教、私的な集会などが盛んになったという。つまり1821年にドストエフスキイが生まれる少し前から、神秘主義思想はロシアに定着しはじめたわけである。また、19世紀のロシアにはヘーゲルやシェリングが導入され、シェリングの思想はロシア神秘主義と結びついたという。
 『悪霊』の中には、当時数十万人にもおよぶ「自然の寵愛を得ている種族」=ドイツ人がロシアに住んでいたと書かれている。登場人物の県知事フォン・レンプケがドイツ人であるのをはじめ、ドイツ人の将軍、医師、工場主らの活躍が描かれ、多くのドイツ人が当時のロシア社会を支えていたことがわかる。また、元大学教師ステパン・ヴェルホーヴェンスキーはベルリンに住んでいたことがあり、ドイツの小市ハナウについて学位論文を発表することもできたし、ドイツの大学の現状について何か書こうとしているといって、ドイツの大学で学んだドイツ通であることを匂わせている。そしてステパンの教え子スタヴローギンは4年間ドイツの大学に留学していたと書かれている。
 また長老制度について、ドストエフスキイ自身、『カラマーゾフの兄弟』の中で、「長老及び長老制度なるものがわがロシアの修道院に出現したのはごく最近のことで、あらゆる東方の正教国、取りわけシナイとアトスには、既に千年も前から存在していたにも拘らず、まだ百年もたっていない(第一篇五)」といって、パイシイ・ウェリチコフスキイ(1722~1794)から3代続いて、最後の人がゾシマ長老であると述べている。実際にはオプチナ修道院の長老パイシイの後はレオニード(1768~1841)、マカリイ(1788~1860)、アンブロシイ(1812~1891)と続き、このアンブロシイこそがゾシマ長老のモデルであるという。ドストエフスキイ自身、最愛の息子を亡くしたあと、悲しみを癒すためにオプチナ修道院を訪れて、アンブロシイ神父に3度面会して話を交わし、深い感動を受けている。
 またドストエフスキイはザドンスクの聖ティーホン(1724~1784)をはじめ多くの人をモデルにしたという。ティーホンはロシア正教のケノチシズムカトリックの十字架上のキリスト、プロテスタントの福音主義を具現化した人で、ドストエフスキイはこのティーホンもゾシマ像の形象化にあたって参考にしたといわれている。このように、ドストエフスキイのキリスト教観には、プロテスタントの神学が直接的、間接的に影響しているわけである。
 ロシア正教徒の川又一英は、「ロシア正教会とドストエフスキー」(『ドストエーフスキイ広場 №12』所収)の中で、「ユダヤ教では、神という言葉をみだりに口にするのを憚ったといわれますが、ロシアでも同じような感情を持つことがありました。キリストは畏れ多い存在であって、マリアを仲立ちとして神に救いを求める。祈願の執り成しはまずマリア、次いで聖人であるわけです。その点が、神と一対一で向き合おうとする新教とは違います」と説明している。
 シベリア時代のドストエフスキイは、友人ウランゲリの回想記によると、「とても信心深かったけれども、めったに教会へ行かず、※僧侶を、特にシベリヤの僧侶を好いていませんでした。ところがキリストについては、彼は熱狂して語りました(『ドストエフスキー全集 別巻』424頁 松井茂雄訳)」と書いている。さらにアンナ夫人の日記によれば、夫人との新婚直後のヨーロッパ滞在中でも、一度も夫人の教会行きにつき合った様子がないという。
   ※ドストエフスキイは手帳の「神学生」のところで、「僧侶は民衆を搾取し、他の階層と
    衣服で差をつけ、説教によってはすでに久しく他の階級と交流していない(新潮社『ド
    ストエフスキー全集27』手帳より)」と批判している。
 それについて川又は、「誤解を恐れずにいえば、〈聖書のキリスト〉に夢中になったが故に、教会を必要としなかった。(中略)ドストエフスキーが選び取ったのはそうではなく、聖書そのものと向き合うことであったように思えてなりません」と指摘をしている。ドストエフスキイはシベリアの監獄の中で『ロシア語訳聖書』を読むことによって、教会による媒介なしに、直接『聖書』と向き合った。それが『福音書』中心主義といわれることになったのであろう。つまり、ドストエフスキイが神に向き合う姿勢はロシア正教的でなく、ルターの個人が一対一で神に向き合う聖書による福音主義に一番近いということになる。ドストエフスキイはシュトゥンダ派について、各人が福音書をそれぞれ自分勝手に解釈するといって批判しているが、それはあるていど自分にもあてはまるだろう。

   言葉では言い表せないもの
 エックハルトは「説教五三」(『キリスト教神秘主義著作集6 エックハルトⅠ』270頁)の中で、「神の本性の輝きはことばでは言い表せない、神はことばであり、言い表せないことばである」と語っている。そして自分自身を放棄し、自己を無にすることによって魂のうちへ神の誕生が可能になるといい、言葉で表現できない神秘的体験を隠喩で描こうとした。したがって聴衆または読者は、並外れた精神と知性をもって、テクスト(聖句)の背後に隠されている真理を発見しなければならないという。
 また、彼は『ヨハネ福音書注解』(『キリスト教神秘主義著作集7 エックハルトⅡ』)一九五でも、聖書の「かつて神を見た人はいない」の言葉をひいて、「すべての神的なものは、それ自体としては、認識されざるものであり、隠れたものであり、隠されたものであり、とりわけ神、すなわち至高なるものであり、すべてのものの第一の本質的原因は、――〝真にあなたは隠された神である〟(イザヤ書四五・一五)」(311頁)と述べている。そして次ぎのようなアウグスティヌス(354~430)の言葉、「私は、私の神を可視的なもののうちに探すが、見出さないし、その実体を私自身のうちに探すが、ここにも見出さないのであり、私の魂を超えて私の神が存在するのを感じる(『同書』342頁)」を紹介している。
 そこでエックハルトは『ドイツ語説教集』において、「※神は様態のない様態として、存在のない存在として、とらえなければならない。なぜなら、神には存在様態はないからである。それゆえ、聖ベルナールは〈あなたを、神を認識すべきものは、尺度なしであなたを測らねばならない〉と述べている(『キリスト教神秘主義著作集6 エックハルトⅠ』190頁)」と紹介する。
   ※もともと、旧約聖書の神には名前も顔もない。『出エジプト記』(第三章一四)による
    と、神はホレブ山においてモーゼにだけ自分の名前を明かしたという。ユダヤ教徒は神
    聖な神の名を発音することを恐れ、ヘブライ語でハ・シェム(御名)と呼ぶ。古代のヘ
    ブライ語は子音だけで書かれ、朗読する時に母音が発音された。モーゼが聞いたという
    神の名はyhwhと書かれたが、読む時は代わりにアドナイ(主)と呼んでいる。Yhwhに
    アドナイの母音をつけるとエホバとなるが、本来の母音は不明という。この本来の神の
    名は、ヤハウェであったろうというのが現在の通説となっている。神が「わたしはあ
    る」、「わたしはわたしである」、「われは在りて在る者なり」といっているように、
    ヤハウェはヘブライ語の動詞ハヤー(存在する)からきている。しかしハヤーはさまざ
    まに解釈のできる翻訳不可能な語で、神学者や宗教哲学者を悩ませるという。
 エックハルトは『ドイツ語説教集』の中で、「無と同じもののみが、神と等しいのである。神的な本質は無と同じである。本質には像も形もない(『キリスト教神秘主義著作集6エックハルトⅠ』42頁)という。そしてアウグスチヌスの「無を見たとき、神を見た」になぞらえて、「〈無を見たとき、彼は神を見た〉。神である光は、流れ出て、すべての〔他の〕光を暗くする。パウロは彼が見たある〔神的な〕光のうちに神を見て、その他のものは何も見なかったのである。(中略)パウロがあの光に包まれることによって、〔神以外の〕他のものは何も見なかった。なぜなら、彼の魂がもつ一切のものは、神である光に心を向け、これに没入した(『同書』188頁)」と述べている。パウロもまた癲癇であった。
 キルケゴールは『死にいたる病』の中で、贖罪について、「キリスト教が、人間の理解力ではけっしてつかめないようなしかたで、この積極的な罪をとりのぞくことをひきうける(『同書』144頁)」といい、罪の連続性について、「キリスト教的にいえば(これはどんな人間でも概念的には把握することのできない逆説であって、ただそれを信じるよりほかはない)(松浪信三郎訳『死にいたる病/現代の批判』白水社 151頁)」と述べている。
 ヤスパース(1883~1948)も『哲学入門』の中で、存在は全体としては客観であることも主観であることもできず、むしろ「包括者」であらねばならないとして、「あらゆる神秘主義者は言語によって自己を伝達しようと欲するにも拘わらず、本質的なものは言語によって語ることができないという事実に対してもまた、疑をさし挿むことはできません。神秘主義者は包括者の中へ沈潜するのです。語りうるようになるものは主観=客観の分裂へ陥る。そして無限に意識が明白化されていっても決してあの根源の充実に到達することはないのです。しかし私共が語りうるものはただ対象的な形態をとるものに限られています。根源は伝達不可能であります(草薙正夫訳 新潮文庫46頁)」と述べて、人間は主観=客観の分裂をこえて、主客の完全な合一へ到達することができるが、そこではあらゆる対象性も自我も消滅すると主張する。つまりキルケゴールもヤスパースも、その発想と思考方法に神秘主義思想が深く影響しているのが見てとれる。
 また、エックハルトは、「神について口を開くならば、それによってお前は偽りを言い罪を犯す」、ゆえに「沈黙せよ!」といいながら、むしろ積極的に、「私は神を語ることを好む(『マイスター・エックハルト』168頁より引用)」と反対のことを主張する。
 語りえないことを語るというのはそれ自体矛盾しているようだが、ゲルマニストのヨゼフ・クヴィント(1898~1976)によれば、それは「言葉否定の闘いと言葉のための闘い(『同書』167頁より引用)」であるという。
 カッシーラーは、「われわれは神話的意識のこうした内容を〔象徴(シンボル)的〕なものとして捉えるのがつねであるが、それはその背後にその内容によって間接に暗示されている隠れた別の意味がさがしもとめられるからである。こうして神話は神秘(ミステリウム)となる。その真の意味と真の深みとは、神話がその固有の形象のうちであらわにするもののうちにではなく、それが蔽い隠しているもののうちにこそあるのだ。神話的意識は暗号のようなものであり、それを解く鍵をもっている者だけに理解でき解読できるのである。その人にとっては、この神話的意識の個々の内容は、根本的には、そこにふくまれていないある〔別のもの〕を示すためにとりきめられた記号にほかならない。ここから、神話解釈のさまざまな様式と方向が生じてくる。神話解釈とは、理論的意味内容であれ道徳的意味内容であれ、神話が内に隠しているものを明かるみに出そうとする試みなのである(『シンボル形式の哲学(二)』91頁)」との考えを展開している。  
 これをドストエフスキイの小説を読むということに即していえば、「神話」をドストエフスキイの文学テクストと読み替えればよいだろう。カッシーラーの言っていることは、そのままドストエフスキイをいかに読むべきかを示唆している。小説もまた※神話なのである。
   ※ドストエフスキイはマイコフ宛の手紙で『無神論』の構想を述べ、「ついにキリストと
    ロシヤの大地を、ロシヤのキリストとロシヤの神を発見するというわけです(『書簡集』
     一八六八年十二月十一日)と書いて、自分の新しい神話を創作しようとしている。
 そしてドストエフスキイ自身ソロヴィヨフへの手紙に、「実際おしなべて人間というものは、どんなことでもとかく口に出された思想のぎりぎりの言葉は嫌いなもので、すぐに、こんなふうに言うものなのです――〔口に出された思想は虚偽である(チュッチェフの詩からの引用)〕(『書簡集』一八七六年七月十六日)」と書いて、思想と言語の関係を神秘主義者と同じように捉えている。
 ルターはキリスト教において最も深淵な神秘家のひとりであるといわれ、中世的な神秘主義を超克して聖書の中に神秘主義を再発見し、※福音的神秘主義をプロテスタンティズムの思想的生命とした。ルターもまたイザヤ書の、「イスラエルの神、救世主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である(第四五章一五節)」を引いて、神を隠された存在と捉えている。そして、「神がいったい何であるかは、だれも尋ねるべきではない、なぜなら人は神を見出すこともできず、言い表わすこともできない」と述べて、「神を量ることは、人間の精神にはできないし、かつ人間の舌は神を言い表わすことはできない。神は人間の思想や言葉が把握するのには、余りに高く余りに大きい(ルドルフ・オットー『聖なるもの』159頁より引用)」と主張する。
   ※ルター派正統教会では、その権威が確立するにつれて、神秘主義的要素は排除されてい
    った。
 ヨハネの福音書は、「太初(はじめ)に言〔ロゴス〕ありき」と述べている。それでは、言葉の前にはなにがあったか。神秘主義では、そのように考えるのは人間の知恵であって、神の偉大な知恵は人間には計りしれない、といって拒否する。
 『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンはアリョーシャにたいして、「要するにおれの知能は、ユウクリッド式のものなんだ。この地上に局限されたしろものなんだよ。現世以外の事物に解釈をくだすなどということが、どうしておれたちにできるものか! おい、アリョシャ、一つお前に忠告するがな、ぜったいにこんな問題を考えちゃいけないぞ。とりわけ神について考察するなんて、もってのほかだ。神は存在するか、しないか、などということは考えないんだな。すべてそうした問題は、三次元の観念だけしか所有しないわれわれ人間どもには、所詮歯が立たないんだよ。だからおれは素直に神を承認する。イヤ、素直に喜んで承認するばかりでなく、神の叡知をも目的をも承認する。――われわれには徹頭徹尾不明ではあるが、だな(第五篇三)」と述べて、否定しながらも神秘主義的な神観を表明する。
 ドストエフスキイが「不合理ゆえに我信ず」という時、宗教は理性を超えたものであり、我々は真理を心で感じなければならず、それを知的に理解する必要はないという神秘主義に根ざしている。ユダヤ人のフロイトは論文「幻想の未来」の中で、これを自己申告としては興味があるが、他人への要求としては拘束力を持たないとしている。
 しかし、これに対してカッシーラーは、「人間がおのれを独自の自立したものとして事物に対置する最初の力は願望の力である。願望のうちでは、人間は世界や、事物の現実性を単純に受け容れるのではなく、自分でこれを積極的に構築する。願望のうちに起るものこそ、存在を形成する能力のもっとも原始的な端緒の意識である(『シンボル形式の哲学(二)』299頁)」として、願望の力を積極的に評価するのである。

   人と神の合一
 新約聖書の「コリント人への第一の手紙」で、パウロは「しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである(第六章一七)」と延べている。神秘主義思想の重要な概念は、このパウロの言葉を受けて、魂が離脱して人間と神が合一した忘我の神秘的状態エクスタシー重視にある。
 エックハルトは、神と合一するためには、この世のいっさいの創造物から自己を切り離さなければならないという。いっさいの被造物を否定した純粋な心だけが、神秘的合一により神の意志によって「超像化」されなければならない。人間は神が創造する以前に、イデアとして神のうちに存在していたわけだから、神秘的合一によって神のもとにたち帰ることができる。人間は創造により神から離れたものだから、その源泉に戻ったときに最高の至福を見つけることができるという。
 ルターはこの神秘的合一という神秘主義の概念を引き継いだが、熱狂的心霊主義者には批判的であった。なお、ルターの合一は、「信仰は神の言(ことば)のわざに対する徹底的自己放棄」による「全き受動性のための空無化」により、キリストを心のうちに所有する「真実の現前」であるとする。
 ドストエフスキイは1849年12月に処刑を免れてシベリヤに流され、ある復活祭の夜、無神論者の友人と宗教を論じている時に突然興奮して、神は存在する、神は存在すると叫んだ。その時、復活の儀式が行われることを告げる教会の鐘が鳴った。「わたしは天が地に下ったと、そしてわたしをまったく吸収したと感じた。わたしは神を含んだし、わたしのあらゆる本体がことごとく神によって貫かれたと感じた。そうだ、神は存在する、とわたしは叫んだ。それからあとはもはや何も思い出せない(古沢清人「ドストエフスキーとギリシャ正教」より引用)」と書いて、ルターのいう神秘主義的な神との合一に近い体験を報告している。しかしこの体験は、「あとはもはや何も思い出せない」とあるように、癲癇による意識障害があったことを窺わせる。
 そして1864年4月16日のメモでは、「人間はみずからの理想としての、キリストの我へ変容することを志向する。それにたどりついた時、人間は地上において同じ目的に達したすべての人が、かれの最終的な天性の成分の中へ、すなわちキリストのなかへ入ってくるのをはっきりと見るだろう。(中略)われわれは、すべてと融合し続ける人格となるだろう(『ドストエーフスキイ広場 №15』49頁 五島和哉訳より引用)」とあって、キリストとの合一を説いているが、それに近い体験がなければ言えないことだろう。
 プロテスタントでは「万人司祭」の考えによって、教会や聖職者を媒介せず、神と信徒が直接の合一体験をすることは可能である。しかしカトリックでは信徒は聖職者によって組織され管理されているので、勝手に神と合一することは原理的にはありえない。本来、カトリックの世界では教会の考えはあっても、個人の考えなどというものは無い。あるとすればそれは異端の考えにほかならない。したがって自己とか、自我、人格、個性、思想、対話などという概念はもともとカトリシズムには存在しない。
 合一は※癲癇のアウラにも似て一瞬のうちに訪れる。『カラマーゾフの兄弟』で、アリョーシャは、「彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることが出来なかった。『あの時誰か僕の魂を訪れたような気がする』と彼はのちになっていった。自分の言葉に対して固い信念を抱きながら……(第七篇四)」といっている。
   ※アンリ・ガストーは、「ドストエーフスキイのてんかんについての新しい考察」(『ド
     ストエーフスキイ広場 №2』下原康子訳)の注で、側頭葉癲癇では、「宗教的、宇宙的恍惚
    で神および完全なる宇宙との同一化、言ってみれば自意識の消滅を意味している(69頁
     )」と論じている。
 また『白痴』の中で、ムイシュキンが刑場から生還した癲癇持ちの元死刑囚から聞いた体験談として、執行の直前、教会の大伽藍の屋根の頂きが太陽の光を受けて金色にきらきら輝いているのを見て目を離せなくなり、「この光線こそは彼の新しい宇宙であり、三分後にはどういう方法でかは知らないがある光線と一つのものになってしまうのだと彼には思われた(小沼文彦訳 第一篇五)」とあって、合一に近い経験をしている。
 エックハルトは、キリストが「私の弟子になりたいものは、自分自身を放棄しなければならない(ルカによる福音書 第九章二三)」といって、我意を放棄しなければ私の言葉も教えも聴くことができない、といったのを念頭において、『論述Ⅱ』の中で、「心が空却されればされるほど、祈りと行為とはますます力強くなり、ますます価値あるものとなり、より一層有用にして讃美すべきものとなり、さらに一段と完全なものになってゆく」(『エックハルト論述集』44頁)と述べている。空却した心とは、「いかなる事柄においても自分の個人的観点を顧慮するようなことが一切なくて、ただ只管に神のこの上なく愛すべき意思のうちに没入し、かくして自分のものを棄却し去った心のことである」(『同書』同)という。つまり、人間は神の被造物であるからその心も被造物にすぎず、「個人的観点」も「自分のもの」も被造物であり、そのような立場からは神に近づくことはできないとする。そして完全な離脱は謙虚を欠いたままでは存在することができないと述べ、謙虚が重要な概念であることを強調している。
 ドストエフスキイは謙抑について、『カラマーゾフの兄弟』の中で、アリョーシャの理解したこととして、「ただ自己のそれのみならず、人類全体の罪過にさえ苦しめられているところの、ロシヤ庶民の謙抑な精神にとっては、聖物乃至聖者を得て、その前にひれ伏し額ずきたいという気持よりも強烈な、要求と慰藉はないのである(第一篇五)」と述べて、ロシヤの民衆の中に「神が生きていた」根底に触れている。
 そしてゾシマ長老は、「神は必ずわがロシヤを救いたもうにちがいない。救いは民衆の中から出る。民衆の信仰と謙抑な心境から出るにきまっている。(中略)われらの偉大なる民衆が包蔵する麗わしくして真実なるその稟性に、驚嘆の眼を見張ってきた。(中略)わが民衆の悪臭ふんぷんたる諸々の罪過や乞食のような外観にもかかわらず、わたしはそれをこの眼でしかと見た。そして驚嘆したのである(『同書』三‐[F])」と述べている。
 ここでドストエフスキイのいう謙抑は合一の観念を含まず、神秘主義思想にくらべれば素朴なものであった。どちらかといえばアッシジの※聖フランチェスコに見られる徳目としての謙遜に近い。
   ※聖フランチェスコ(1181か~1226)はイタリアの情緒的神秘家で、キリストにいちば
    ん似た人と言われている。彼はイエスと自分、聖書と自分の直接的な結びつきを求め、
    聖書との結びつきを主張したルターの先がけとなっている。その人格はゾシマやその兄
    マルケル、アリョーシャの人物造形に影響を与えたと考えられる。フランチェスコはカ
    トリック、プロテスタントを通じていちばん愛されている聖人で、癩病人に接吻して金
    を与えた逸話で知られている。この話はゾシマの庵室を訪れた上流婦人の、「膿だらけ
    「膿だらけの傷口にさえ接吻してやれそうな心構えになるのでございます」という台詞
    という台詞に繋がっている。そしてフランチェスコが小鳥に説教をした逸話は、ゾシマ
    の兄マルケルが末期のベットの上で小鳥に赦しを乞う場面などに反映されている。

   悪の問題
 プロイセンのルター派牧師の子ニーチェは、「キリスト教に関する初期遺稿断片」の中で、「神は善でもなければ悪でもなく 人間的概念を卓越している(『ニーチェ全集14』389頁)」と述べている。ここにおいて神的なものと悪魔的なものは等価となる。そしてニーチェは犯罪者とその血縁のものを、自由で強い人間の類型として肯定した。
 カッシーラーもまた、「自然はそれ自体では善でもなければ悪でもなく、〔神的〕でもなければ〔悪霊的〕でもない。だが、宗教的思考が自然の内容を、単なる存在要素や存在因子としてではなく、文化因子として考察し、そうすることによって自然を、道徳的―宗教的世界観の引いた圏内に受け容れる(『シンボル形式の哲学(二)』450頁)」と解説する。
 ※ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)は、1919年に、「カラマーゾフ兄弟、ヨーパの没落」という一文を書いた。ここでヘッセは西欧文明のかわりに、すべてを理解し肯定する古いアジア的な神秘主義の理想が、とってかわりつつあるとしている。ヘッセはフロイトを読み、若いころにはニーチェに心酔していたので、人間には本来善も悪もなく、文化や文明、秩序がなにを許し、なにを禁止するかはその社会がきめたことで、原衝動は意識下に抑圧しても根絶することはできないと考えていた。もしその衝動を殺せばその持ち主も死ぬことになる(自我または人格の死だろう)。そして新しい理想は、悪しきもの、醜いものの中に神々しい崇拝の対象を見出す。それは太古の造物主のように、外でありながら内、善でありかつ悪であり、無にして全なる神であると同時に悪魔でもある神を求めることであるといって、善悪二元論を退けている。そしてヘッセはドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』が、それらいっさいの衝動を開示して見せたとして、この善悪を超越した世界を聖なるものとして評価した。
   ※ヘッセは熱心な敬虔主義派の家庭に生まれ、チュービンゲン大学の神学部を目指したが
    、予備門の神学校時代に挫折した。
 『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミトリイは、ほとんど忘我に近い熱狂状態に陥って、アリョーシャに向かって長広舌をはく。

 情欲はつまり嵐だからなあ。イヤ、嵐以上だよ! 美という奴――こいつは実に恐ろしい、身
 の毛のよだつしろものだぞ! 何しろ神さまは謎をお与えになるだけなんだから、美というに
 は定義がないし、また定義をつけることが不可能なんだ。だからこいつは恐ろしいのサ。美と
 いうものにおいてはだな、岸という岸が一つに出合い、あらゆる矛盾がそこに同居しているん
 だよ。(中略)悪の司ソドムの理想を抱懐する奴が、聖母マリヤの理想をも否定せず、それに
 よって自分の心を燃え立たせている事がそれだ。(中略)一体ソドム、つまり、悪乃至悪行の
 中に、美が存在するだろうか? だけど、おい、信じてくれ、大多数の人間にとっては、ソド
 ム的所業の中に、美が厳存するんだからね。――お前はこの秘密を知っていたかい? 美とい
 う奴は単に恐ろしいだけでなく、神秘なしろものでもあるんだよ。だからこそ実に恐ろしいの
 だ。そこではたえず神と悪魔の闘いが行われている。人間の心が戦場サ。(第三篇三)

 といって、悪の中に美が存在すると論じている。
 このドミトリイのいうディオニソス的な美は、『白痴』のムイシュキン公爵のキリスト教的な美とは対極にあるように見える。しかしムイシュキンの美も、もとはといえば荒々しいディオニソス世界を昇華したものである。これについては後でオットーの思索のところで考察する。
 そしてスタヴローギンはシャートフの言葉をかりれば、「何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言した」といい、「この両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだした(江川卓訳『悪霊』第二部第一章7)」といったとあり、悪と善がともに一つの最高の価値「美」にいたるものとされる。
 『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンは、アリョーシャに向かって、トルコ人とチェルケス人がスラブ人に行った暴虐の数々をまくしたてる。

 つまり人家を焼く、人を斬る、女子供に暴行を加える、捕虜の耳を塀に釘づけにしたまんま、
 終夜ほったらかしておいて、朝になるとくびり殺してしまう――などといったような、まった
 く想像を絶せる底の悪行だそうだ。実際の話が、よく人間の残忍な行為を《鬼畜のようだ》な
 んていうけれど、そんな形容は獣類にとって甚だ不公平だし、且つ侮辱に値するものだよ。だ
 ってお前、獣は決して人間のように残忍でなどあり得ないからね。(中略)トルコ人は、とろ
 けるような快感を味わいながら、子どもたちをさいなむんだそうだ。女親の胎内から匕首で胎
 児を抉りだすといった所から出発して、母の面前で乳呑み児を空中高くほうり上げ、落ちてく
 るのを銃剣につき刺して受けとめるといった芸当にまで及ぶとのことだ。母親の見ている前で
 やるというのが、この場合、主要な快感を構成するというわけなんだよ。(第五編四)

 といって、子ども殺しのエピソードはさらに続き、ドストエフスキイの筆は生き生きとさえている。
 ここで思い出されるのは、旧約聖書(ユダヤ教の教典トーラーと同じ)におけるヤハウェの神の暴虐ぶりであろう。
 ヤハウェはアブラハムの自分への忠誠を試すため、最愛の一人息子イサクを犠牲として殺害するよう命じる。また、神は自分に従わないエジプト人の家畜を疫病により皆殺しにし、雷火と雹を降らせ、いなごをもって地上の緑を食いつくさせ、イスラエルの民には人と家畜の初産子を殺して自分に献げさせ、自ら「われヤハウェは妬む神」であり、また「憐れむ者である」とモーゼに告げる(『出エジプト記』第二〇章二七)。また、異教の※バアル神を礼拝するエルサレムに住むイスラエル人に対し、「剣をもて彼らを其敵の前とその生命を索むる者の手に仆し、またその屍を天空の鳥と地の獣の食物となし、かつ此邑を荒して人の胡盧(ものわらい)とならしめん、(中略)また彼らがその敵とその生命を索る者とに圍みくるしめらるゝ時、我彼らをして己の子の肉、女の肉を食はせん、又彼らは互にその友の肉を食ふべし(エレミヤ書 第一九章七‐九)」と、最大級の呪いの言葉を投げかける。このような、旧約聖書における神の暴虐の話は枚挙にいとまがない。
   ※ドストエフスキイは『夏に記す冬の印象』において、ロンドン市民は異教の神バアルを
    跪拝して堕落しており、それに支配されていると批難している。バアル神はカナン人の
    信仰する大地の支配者で豊穣と戦いの神であった。ドストエフスキイはロシアの土壌主
    義を称揚するが、ロシアにあったのは土壌信仰であり、それを主義にまで高めたのはほ
    かならぬ彼とその一派であった。したがって土壌信仰と土壌主義はキリスト教の文脈か
    ら見れば異端の信仰と考えであった。
 ルターはヤハウェの神を、「神は人を攻め立て、嫉妬と憤怒とに駆られて悪人を食い尽すような興味を持っている」といい、「神は悪魔よりも恐ろしくかつ凄い。なぜならば、神は私たちを猛威をもって扱い、かつ滅ぼし、私たちを苦しめ悩まし、少しも顧みる所がない。(中略)まことに、神の名を聞くや否や、彼は恐怖と戦慄とに満たされるであろう(『聖なるもの』163頁より引用)」といって、神の義が人間によって認められるようなものであるならば、それは神の義ではなく、人間の義と同じになってしまうと主張している。
 一方、ニーチェは、神は激怒、復讐、嫉妬、嘲笑、奸策、暴行を行なうから神なのであって、自然に反して善のみを行なう去勢された神は神ではないと主張する。つまり恩恵と慈愛に満ちた新約の神イエスの背後には、専制君主としての「隠れたる神」ヤハウェが厳然として存在するのである。
 そのように見てくると、ドストエフスキイの小説に登場する神の系譜に連なる人物には、『主婦』のムーリン、『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『白痴』のロゴージン、『悪霊』のスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』の父フョードル・カラマーゾフ、長男ドミトリイ・カラマーゾフなどがあげられる。彼らはおおむね犯罪者を含む残忍でネガティブな人物であるが、まぎれもなく神の属性を担っている。そしてこの神の系譜に連なる人物たちは、小説における旧約聖書的な神話空間を構築していく。そこにおいて、彼らは卑小な犯罪者から神話における巨人的存在へと成長する可能性を秘めている。

   ディオニソス的なるもの
 ニイチェはロマン主義を※ディオニソス的といって、ギリシャ神話の狂暴で破壊的な、熱情的で酩酊と陶酔の酒神ディオニソスになぞらえた。
   ※ディオニソスの祭では神と一体になるため、信者は杖や松明を振りかざし、山の中を乱
    舞して駆けまわり、忘我の中で獣や人間の子供を捕らえて引き裂き血まみれの生肉を食
    べたという。そのため、ディオニソス的という語の中には子供殺しのイメージも含まれ
    ている。
 ドストエフスキイの小説がディオニソス的であることは、すでにロシアの神秘主義哲学者ニコライ・A・ベルジャーエフ(1874~1948)が、『ドストエフスキーの世界観』で触れている。彼はドストエフスキイの作品は極めて高度にディオニソス的であるといって、「生そのものについても、ドストエフスキーは、これを人間の精神との関連において理解した。(中略)ドストエフスキーが生成の、未だ固定されない領域において、この完成に到達しえなかったとしても」、それはディオニソスの芸術であったと結論している(『ドストエフスキー全集 別巻』14頁 宮崎信彦訳)。
 そして、「ドストエフスキーが明澄な思索に不利なディオニソス的、陶酔的な雰囲気のうちに生き、それが絶えず知性の透明を妨げていたことを考えると、いよいよ驚嘆するのである。しかしこの陶酔的な錯乱は思想を阻止するどころか、むしろこれに作用し、観念と観念の弁証法がディオニソス的リズムに従うというものであった(『同書』19頁)」と述べ、さらに、「彼はひとえにディエニソス的であって、全く恍惚と興奮のうちにあった。しかし人間の像、人間の人格はこの高揚された流れの核心において、いよいよ強力に肯定されている。人間はその動性と矛盾をもったまま、徹頭徹尾自己として、不壊(ふえ)の人間として留まっている。(中略)ドストエフスキーは人間の生の深淵とともに神の深淵にも潜入しようとする(『同書』33~34頁)」と書いている。
 ニーチェはこの陶酔について、「なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。同じく、あらゆる大きな欲望、あらゆる強い欲情にともなってあらわれる陶酔がそうである。祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。或る種の気象学的影響のもとでの陶酔、たとえば春の陶酔。ないしは麻酔薬の影響のもとでの陶酔。最後に意志の陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔。――陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である。この感情から人は事物に分与するのであり、私たちから奪い取るよう事物を強いるのであり、事物に暴力をくわえるのである(『ニーチェ全集14』偶像の黄昏 94~95頁)」と説明する。そしてこの陶酔は、「人はこうした状態においてはすべてのものをおのれ自身の充満から豊かにする。すなわち、何を見ようと、それは、張り満ち、緊密に、強く、力のこもったものに見える。この状態の人間は事物を一変させ、ついには事物が彼の威力を反映するにいたる、――ついには事物が彼の完全性の反射となるにいたる。このように完全なものへと一変せざるをえないということが――芸術にほかならない(『同書』 同95頁)」のであり、実在性へ直接関与することだという。
 それに反し、キリスト教は実在性に対する本能的な憎悪を持っており、現実のいかなる点にも触れることがないと主張する。キリスト教は「神の国は汝らの中に在るなり」と称えて、「掴みえないもの」や「捉ええないもの」へ逃避すると非難している。しかしカッシーラーはそれを、「ディオニュソス祭祀が目指すのは、この根源への還帰であり、霊魂が身体と個性体の束縛を断ち切ってふたたび普遍的生命に結合しようとする〔忘我状態(エクスタシー)〕なのである(『シンボル形式の哲学(二)』364頁)」と肯定的に説明する。

   ルドルフ・オットーの『聖なるもの』
 つまるところ、悪の問題やディオニソス的なるものは、またヌーメン的なものと繋がっている。
 ドイツのプロテスタントの神学者・宗教学者ルドルフ・オットー(1869~1937)は、『聖なるもの』――副題「神観念に於ける非合理的要素並びにその合理的要素との関係について――」で、宗教そのものの本質を明らかにしようとした。
 彼はラテン語のヌーメン※numen(明確な表象をとるにいたらない超自然的存在)という語から作られたヌミノーゼdas Numinose (聖なるもの)という語を使用する。ヌミノーゼは日本語の「神さびわたる」に相当する。これは清浄、厳粛、偉大、畏怖、懐かしさ、神秘的などの感情が一つになった原始的心境をいい、これこそが真の宗教精神であるという。つまりすべての宗教の本質は、教えや道徳のような理性的要素の中には存在せず、むしろヌミノーゼに対する非理性的な畏敬の感情にあると主張している。
   ※numenは辞書的には合図、意思表示、神の意思、神の権能、摂理、支配、神性、尊厳、
    神の威厳、神(の存在)などとある。そしてdas Numinoseはオットーの造語ではなく
    、すでにカルヴァンやツィンツェンドルフが使っているという。
 ヌミノーゼの本質は、戦慄すべき秘儀の感情によって示唆される。この感情は静かで深い瞑想的気分をただよわせることもあるが、時としては、「激変して急激に心を破り出ることがある。また時としては、不可思議な興奮と陶酔と法悦と入神とに導くことがある。それは荒々しい悪霊的な形態を持っている。それはほとんど、妖怪のような恐怖と、戦慄とに引き沈めることがある。それはなまなましい、粗野な前階と表現とを持っているが、しかし発展しては美わしい、純粋な栄化されたものとなる。それは被造者の静かな、へり下った戦慄と沈黙とになることがある――何の前で? すべての被造物に超越し、言い表し難い秘密の中に存在する者の前で」と書いている(『聖なるもの』24頁)。
 この悪霊的恐怖は、「※薄気味の悪い」という感情から発動しているが、原始人の心情にはじめて薄気味の悪い感じが現われた時から人類に精神というものが芽生え、あらゆる宗教史の発展がはじまる(同27~28頁)と主張している。さらに悪霊的恐怖は多くの段階をへて、神々の畏怖、ならびに神の畏怖へと昇格する。悪霊は神となり、そして恐怖は礼拝へと連なっていく。
   ※フロイトは論文「不気味なもの」の中で、シェリングの「隠されている筈のもの、秘め
    られている筈のものが表に現われてきた時には、何でもすべて気味悪いとよばれる」を
    引いて、「不気味なものとは結局、古くから知られているもの、昔からなじんでいるも
    のに還元せられるところの、ある種の恐しいものなのである」と定義した(高橋義孝訳
    『フロイト選集 第7巻 芸術論』日本教文社)
 カッシーラーはこの聖なるものの性格を、「聖なるものは、つねに、遠いものであると同時に身近なものとして、親しみ深く保護してくれるものであるとともにまったく近づきがたいものとして、〔恐るべき神秘〕にして〔魅惑する神秘〕でもあるからである。このような二重性格によって、聖なるものは経験的な存在、〔世俗〕の存在を、自分からはっきり切りはなしながらも、このように切りはなすことによってただつきはなすのではなく、次第にそこに浸透してゆくことができるようになる(『シンボル形式の哲学(二)』161頁)」と解説し、対立しつつ、なおおのれに対立するものを形成してゆく能力を保持しているという。そして、「〔聖〕性という根源的な神話的概念は、道徳的〔純粋性〕の概念と重なりあうものではなく、むしろ両者は顕著な対立関係に入ったり、特有な相互緊張の関係に入ることもある。神話的―宗教的な意味で聖化されたものも、まさしくそのように聖化されることによって、禁じられたものになり、畏怖の対象となり、したがって〔不純なもの〕になる。ラテン語のsacer〔聖なる〕、ギリシア語のαγιδ〔聖なる〕、αζεσθαι〔畏れる〕のうちにはなお、こうした二重の意味、意味のこうした特有な〔両義性〕が語りだされている。――それらは聖なるものをも呪われ禁じられたものをもあらわしている(『同書』164頁)」と述べて、言語の二重性と聖なるものの両義性を強調する。
 そしてこの戦慄すべき秘儀の感情は、さらに超越者(神)に対する無力、自己の無価値感へと繋がっている。それは、「一方において自己の〈滅却〉に、他方において超越者の唯一の、かつ全き実在にと連れて行くのである。それは個性と我と〈被造者〉一般とを完全には実在しない者、主要な点において、また全体として全く無力な者として判断することである。そしてこの価値判断は次で、明かに誤っている自己的狂熱に対して実践的に自ら働き、その結果、我を滅却させる要求となる。また、他方において、この価値判断は、超越的対象をば、全存在的な優越者となし、そしてそれに対するとき、自己をまさしく無として感じさせるのである。〈私は無、あなたは凡てである〉(『聖なるもの』36頁)」といって、オットーの主張は明らかにエックハルトと繋がっている。
 また、ゲーテ(1749~1832)はエッケルマン著『ゲーテとの対話』の中で、悪霊的なものの表象の特徴を、「悪霊的なものは、理解力や理性により明かにし難いものだ」といい、「詩歌の中には悪霊的なものが存在し、特にその無意識的な言葉の中に現われている。そこでは、すべての理解力と理性だけでは、不十分だ。詩歌はすべての概念を越えて働くからだ。(中略)だからまた宗教的礼拝も悪霊的なものを欠くことはできない。礼拝は実に、人間に驚異的な働きを来たらせるための最も勝れた方法の一つだ(『聖なるもの』第二〇章より引用)」との見解を明らかにしている。
 ドストエフスキイの小説におけるヌーメン的な表象は、ひとつには蜘蛛の形をとって現われる。田舎の忘れられた風呂場にかかった蜘蛛の巣や、『悪霊』のスタヴローギンが、マトリョーシャの首を吊っている間に見るゼラニウムの葉の上の小さな赤い蜘蛛などがそれである。
この、蜘蛛がヌーメン的表象と見事に結びついた例が、『死の家の記録』に描かれた野獣のように残忍な囚人ガージンであろう。

  このガージンは恐るべきしろものであった。彼は一同の者に悩ましいほど不気味な印象を与
 えた。わたしはいつも彼を見ると、これ以上獰猛な妖怪じみた存在は、またとほかにないだろ
 うという気がした。かつてトボリスクで、さまざまな悪業で天下に名を知られたカーメネフと
 いう強盗を見たし、その後、兵営を脱走した未決囚で、恐ろしい殺人犯をおかしたソコロフを
 も見たことがある。が、それらのうち、だれ一人として、ガージンほどいとわしい印象を与え
 たものはないのである。わたしはどうかすると、人間くらいの大きさをした巨大な蜘蛛を眼前
 に見る思いがした。(米川正夫訳 第一部3)

 うわさによれば、彼は「ただ慰みに小さな子供を好んで殺したものである。どこか都合のよさそうな場所へ子供をおびき込んで、まず脅したり苦しめたりしたあげく、不幸な幼い犠牲の恐怖と戦慄を思う存分楽しむと、ゆっくり落ちついて効果を楽しみながら、なぶり殺しにするのである(『同書』同)」と書かれている。
 そしてドストエフスキイにとってヌーメン的表象は、癲癇の発作や死の描写に姿を現す。死は人間にとって最大の謎であり、部分的には理解することができても全体としては全く不可解なもので、ヌーメン的感情の根源をここに求めることができる。そして癲癇発作の恐怖が死の恐怖と密接に結びついていることは周知の通りである。
 『罪と罰』でラスコーリニコフがニコラエフスキイ橋の上で感じた「……うそ寒さを吹きつけて来るのだった。彼にとっては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気にみちているのであった……彼はそのつどわれながら、この執拗な謎めかしい印象に一驚を喫した」ネヴァ河の壮麗なパノラマの印象に、彼は「不安な、まだよくはっきりしない想念」が心を完全に領し、「何もかもが見え隠れに現われたように感じ(第二編二)」る。
 同じ場面を『罪と罰』創作ノートでは、その「眺望には、すべてを滅ぼし、すべてから生命を奪い、すべてをゼロにしてしまうような、ひとつの特徴がある。その特徴とは――この眺望の少しあたたか味もない冷たさと死の妖気だ。このパノラマからは何とも説明のしようのない冷気がただよってくる。無言と沈黙の妖気、『※唖にて耳聾』なる霊がこのパノラマ全体にみなぎりわたっていた。ぼくはそれを言葉で言い表わすことができない(工藤精一郎訳 第一稿三)」とあって、死のイメージに結びついている。
   ※新谷敬三郎は『《白痴》を読む』において、この「唖とつんぼの霊」を『マルコ伝』(
    第九章)を引用して、癲癇と同義であると読み解いている。
 『白痴』でロゴージンがナイフで刺し殺そうとした瞬間、ムイシュキンが癲癇の発作を起こす場面は、「その瞬間不意に顔面が、とりわけ目つきが恐ろしくゆがんでくる。痙攣と引きつりとが全身と全顔面とを虜にしてしまう。ものすごい、想像もつかぬような、そしてなんとも例えようもない悲鳴が胸の奥底からほとばしり出る。この悲鳴の中にあらゆる人間らしいものが突然に姿を消してしまう」とあって、それを見たロゴージンは、その中に神秘的な感覚を含む「この瞬間のその他いろいろな恐ろしい印象と結びつけられた、このような思いがけない――身も世もあらぬ堪えがたい恐怖の念」を抱いて、その場に立ち竦んでしまう(小沼文彦訳 第二篇五)。
 死を間近にひかえたイッポリートの見る蠍に似てもっと醜悪な、はるかに恐ろしい、小さな蛇のようにくねくね這い回る毒虫の夢も、死を象徴してヌーメン的である。また、イッポリートがロゴージンの家で見た刑死後のキリストの絵、「その顔は恐ろしいまでに打ち砕かれ、恐ろしい、膨れた血まみれの青痣でふくれ上がり、目は開いたままで、瞳は藪にらみになっている(同書 第三篇五)」の印象。それは、「なにか実に巨大な、情け容赦もない物言わぬ獣のような(中略)偉大な、限りなく尊い存在を引っつかみ、粉々に打ち砕き、けろりとなんの感情もなくその口中にのみこんでしま(同書 第三篇六)」う暗い底知れぬ存在としての虚無を垣間見せる。

   キリスト教神秘主義思想と禅
 ハンブルク大学の日本学教授※ヴィルヘルム・グンデルト(1880~1971)は、論文「世阿弥における幽玄の概念」の中で、日本人の概念をドイツ語に翻訳することは、全く不可能であるとしながらも、能楽の最高原理である幽玄の概念を分析し、そこに神秘的なものに連なるところのものがすべてが包含されていると見ている。
   ※グンデルトはヘッセの従弟で、チュービンゲン大学神学部(天文学者ケプラーや詩人ヘ
    ルダーリン、同メーリケ、哲学者ヘーゲルらを輩出した)やハレ大学に学び、内村鑑三
    を頼って来日し、約30年滞在した。
 グンデルトは『碧巌録』をドイツ語に翻訳しているが、禅とキリスト教の間には幾つかの本質的な点において一致するものがあるとして、「神のことが語られる場合、いつでもまたどこでも常に繰返し強調されなければならないのは、何か一つの対象に就いて語るように〝彼〟に就いて語ることはもともと不可能だということである。(中略)旧約の十戒中にも既に〝汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからず〟という厳しい戒告が見えている。これと同じように『碧巌録』の諸則に於ても、禅の精神的内実に就いての空疎な論議が激しく拒否されている(『気質季報15号』所収「『碧巌録』独訳余話」24頁 上田閑照訳 熊本大学)」と理解している。
 また、禅にはある何かや何者かを聖なるものとしないが、キリスト教と同じく聖なるものとして「空」が存在するという。さらに「イザヤ書」において、「我はたかき所きよき所に住み、亦、こころ砕けてへりくだる者とともに住み、謙(へりく)だるものの霊をいかし砕けたるものの心をいかす」とあるように、『碧巌録』もたえず高みを指し示しているとともに、謙抑の必要性が強調される。ほかにも仏教の「空」をキリスト教の「永遠」になぞらえている。そして、仏陀はこの世とその楽しみに対して大いなる〈否!〉を以って別離し、私達ヨーロッパの人間が〈有る〉と名づけるものから仏教哲学は本来の有を奪い、無を事につけて事を無事とし我を無我とし心を無心とするのである(『同書』29頁)」と理解している。
 一方オットーのほうは、『聖なるもの』の中で、「無」について、「神秘主義の最後には、この対象を〈無〉と名づける。彼らが〈無〉というとき、〈無〉をもって言い表し得る事柄ばかりではなく、存在し思惟し得る凡てのものに対して、絶対的・本質的な他者、対立者を意味する。彼らは〈秘儀〉の要素を把握するために、この場合概念のなし得る唯一の働きである否定と対立とを、背理にまでおし進めて、〈絶対他者〉の積極的な働きを最も生き生きと感情の中で、感情の昂揚の中で写し出すことができる。この西欧神秘主義者の独特な〈無(ニヒル)〉について言えることは、全く同様に、仏教神秘主義者の〈空に帰すること〉と〈空〉とについても言える(49頁)」と延べ、「無」も「空」も「絶対他者」のヌーメン的表意であると鋭い指摘をしている。
 エックハルトの主張が仏教の思想と似ていることは、すでに鈴木大拙が『禅とは何か』の中で指摘している。鈴木はエックハルトを評して、「成程、キリスト教では神と云ふことを云ふ、神の心に称ふ、神の御心のままになる、自分の好きなやうにするのではない。『御心のままにならしめ給へ』と云ふが、それをキリスト教の宗教的生活の極致と考へてよいと思ふ。けれども更に考へてみれば、それも成る程、よろしい、結構だが、も一つ進まなければならぬ。も一つ進むと、自分は神の心に従ふて居るのか、自分の心の通りに動いて居るのか、何も知らずに居ると云ふところまで来ないと、本物ではない(65頁)」といいつつ、エックハルトが仏教の極意とあるていど同じ境地に到達したことを認めている。
 鈴木は同書において、宗教が成立する要素として、伝統的なものと知的なもの、そして神秘的なものの三つが必要であるとしている。そして神秘とは隠そうとして隠すのではなく、現わそうとしても現わすことができないものであると説明する。さらに「禅と云ふのは、即ち神秘的経験と云ふことである。神秘的経験とはどう云ふことになるかと云ふと、人の心の働きには理窟で説くことの出来ない一の経験がある。その経験と云ふものを経て来なければ人間と云ふものの生命がのらぬ。形式になつてしまふ。只その経験にふれたならば形式其者さへも変つて来る。しかして生命が流れる、その経験と云ふことのみに力を集中してかからうと云ふのが禅である(97頁)」といっており、「神秘と云ふものがそのままで伝はらないで、茲(ここ)に何か他物を借りなくてはならないのである。禅宗の方でも、隻手に何の声ありやと云ふ塩梅に、何か物を借りなくてはならぬ。さうでないと、これがどうしても外に現はれて来ない、即ち人に伝へられない(204頁)」と書き、表現されたものはあくまでも本質ではないと断っている。
 「隻手」は「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案のことで、両手をたたけば音が鳴るが、片手だけで鳴らない音を聴いてこいという問いである。しかしどんな立派な解答でも頭で考えて作ったものではだめで、自己の直接経験がその中に表現されていなければならない。つまり実存の問題であろう。
 ミハイル・バフチンは『詩学』の中で、ドストエフスキイの小説における登場人物たちの声を、それぞれ独立してけしてたがいに融け合わない複数の声と意識であり、それぞれがれっきとした独自の価値を持ち、それらの声は作者からも自立した対等なものであるという。
 しかし作者と切り離された独立した声というものが小説の中に存在するであろうか。禅ではそのような発語を、空疎で無意味なものとして拒否する。頭で捏ね上げた空理空論は否定され、自己の存在をかけた重みのある言葉のみが採用される。したがって禅の考えからすれば、バフチンの考えはドストエフスキイの言葉を生きた言葉でなく死んだ言葉にしてしまう。禅では言葉は主体の責任において発することを厳しく要求する。『碧巌録』には解答が悪いといって弟子の片腕を切り落とす逸話が載っている。ところが切られたほうもその瞬間に悟ったというから凄まじい。儒教でいう言行一致に一脈通じるものがあり、軽々しいデペートは禁じられる。つまり禅では言葉の重みは自分の片腕に匹敵するほど重いものなのである。ドストエフスキイの小説における登場人物たちの声が我々読者の心にしっかりと落ちてくるのも、それが頭で考えられた作者から自立したものではなく、作者の実存をかけた体と心で体験したこと(父親殺しや癲癇、キリスト教の問題をはじめとして)が表現されているからにほかならない。ドストエフスキイは体験したことをそのまま小説に書いたのではなく、バラバラの要素に分解し、それらを別のものと組み合わせることによって、集合のイメージ(デイヴィッド・ヒュームのいうところの複合観念)に作り変えた。
 そしてドストエフスキイは誰よりも鋭くものごとに感じ、それを言葉で表現する優れた能力をもっていた。E・H・カーは「ドストエフスキーの世界は、われわれの住む世界よりももっと原始的で、もっと根源的な世界である(松村達雄訳「ドストエフスキー」『文芸読本 ドストエーフスキイ』河出書房新社)」といっている。ドストエフスキイの思考と言語は、両義的という以上に原始的で根源的な彩りに満ちている。

   神秘主義における多義性とメタファー(隠喩)
 神秘主義では言葉にならないものを言葉にするため、象徴と※逆説が多用される。神秘主義者は聖と俗の世界を、象徴を媒介として同時に関与しようとする。象徴は人間が意図的に作り出すことのできない原型的なイメージで、それは象徴自体を超える向こう側にあるものを指し示し、それに参与する。象徴はそれ以外には人間に開示されえない実在を表象している。
 神秘体験の表現は相反する言葉が補いあって両立する。『ディオニュシオス偽書』では、知られざるものを知るためには問うことをやめ、「光り輝く闇」を見よ、と説き、逆説的に禅の公案のような表現をとる。
   ※キリスト教神秘主義の本源といわれるアレオパギータのディオニュシオスは、絶対的真
    理を否定のみによって逆説的に表現する。「万物の原因は魂でもなければ精神でもない
    。それは、想像力も悟性も理性も英知ももっていない。それは理性でも英知でもない。
    話されもしないし考えられもしない。数でもなく、秩序でもなく、大きさでもなく、小
    ささでもなく、平等でもなく、不平等でもなく、類似でもなく、相違でもない。立ちも
    動きも休みもしない。……それは存在でもなく、永遠でもなく、時間でもない。知的接
    触さえそれには属していない。学問でもなく、真理でもない。忠誠でも知恵でさえもな
    い。一でもない。統一でもない。神性でも善でもない。私たちの知っているような霊で
    さえもない。(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(下)』240頁より引用)」
 古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(前535頃~前475頃)は、これを言葉のもつ※多義性(ポリセミー)から説明し、多義性こそが固定されたものではなく、流動的で、自己自身の限界性を繰りかえし突破していく積極的な契機であるという。そして、「神は昼にして夜、冬にして夏、戦いにして平和、飽食にして飢えである。(中略)不死のものは可死的なもの、可死的なものは不死なるものであり、両者はたがいに相手の死を生き、相手の生を死ぬのだ。それゆえ、理性をもって語ろうとする人は個々の語の特殊性によって欺かれることなく、その特殊性を突き破ってその背後にあるすべて〔の語〕に※共通なもの〔共通にして神的なもの〕に迫らなければならない(『シンボル形式の哲学(一)』105~106頁より引用)」と論じて、物ごとの真の本質について深い認識に進みたいならば、反対語を対置し、その緊張をはらんだ調和から万物の根本法則が表れてくると説明する。
   ※バフチンのいう多声性(ポリフォニー)は、基本的にはヘラクレイトスの多義性(ポリ
    セミー)の理解に近い。バフチンはドストエフスキイの多義性は、読者がさまざまな主
    観や論理で解釈することを可能にし、主体的判断をもって参加できる開かれた場を提供
    しているという。しかしドストエフスキイの多義性は、このような開かれた空間を設定
    するだけでなく、逆に読者を極度の緊張と混乱に陥れる両義性、ベイトソンのいうとこ
    ろの二重拘束(ダブル・バインド)としても仕掛けられている。それについてはすでに
    R.D.レインが『自己と他者』(みすず書房)において、ラスコーリニコフに宛てた母
    プリヘーリヤの手紙で分析している(208~219頁)。ここにはこうすべきであるとい
    う命令と同時に、命令に従ってはならないという相矛盾したメッセージが込められてい
    て、それらは全く両立しがたく、読者の参加をも厳しく拒絶する。したがってドストエ
    フスキイの多義性はバフチンの理解をはるかに超えている。
   ※バフチンのポリフォニー論では、共通のものはなくバラバラであるという。これはバフ
    チンの世界観を反映しており、ポストモダンの哲学に繋がっている。それにたいし、古
    典的な哲学では通底するものを重視する。
 そしてカッシーラーはヨーハン・ゲオルク・ハーマンの言った言語についての、「自然と同じく封印された本であり、蔽い隠された証(しるし)であり、一つの謎であり、これを解きあかすには、われわれの理性とは別の手を使って耕さねばならない」を引用して、言語とは「いたるところで見え隠れしつつ、われわれを秘かにまた公然ととりまいている同じ神的生命のシンボルであり、かつまたその敵対者だからである。したがって、ヘラクレイトスにとってと同様ハーマンにとっても、およそ言語にあってはすべてが表示するものであると同時に隠蔽するものでもあり、覆いを取り除くものであると同時に覆うものでもあるのだ(『同書』161~162頁)」と述べて、神秘主義的な思考がすでに言語の構造に内在すると主張する。
 カッシーラーはマックス・ミュラーが、「語とその多義性とが神話的概念形成の最初のきっかけであることを証明しようと試みるというかたちで、神話と言語とを結びつけようとした。彼にとって両者をつなぐ連結環となるのは隠喩(メタファ)である。隠喩は言語そのものの本質と機能に根ざしていながら、一方では表象作用そのものにも神話の諸形成体へゆきつくような方向を与えるのである」といったと紹介したあと、「同一語根語からの〔派生(パロニミー)〕の事実、つまり同一の単語がまったく異なった表象像に用いられるという事情が、ここでの神話解釈の鍵となる。すべての神話的意味の源泉・根源は言語の二重語義である(『シンボル形式の哲学(二)』59頁)」と解説する。
 また、クヴィントによれば、神秘主義者は言葉で言い表せないことがらを、パラドックス(逆説)的に言語と敵対しながら言語の創造者になるという。鈴木大拙はこの逆説的表現を、「大体に宗教は論理の域外に出ているものですから、自然逆説的になるのが常なのです。矛盾に満ちているということが、ほとんど宗教の一特色と見られているくらいです(『無心ということ』128頁角川文庫)」と説明する。
 そしてこの神秘主義と言語との象徴的関係は、すでに聖書の中に潜在している。『ルカによる福音書』(第八章九‐一〇)には、「弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。そこで言われた、〈あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために譬で話すのである〉」と書かれている。しかし喩え話にはこれが正解であるという解釈はなく、多義的である。
 『ヨハネによる福音書』(第六章五四)では、イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」と説くと、多くの弟子たちはこれを人肉を食べる話と思い、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」というので、イエスは、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と答えたが、※メタファーを解さない合理的なユダヤ人の弟子たちはイエスのもとを去ったという。
   ※聖書が人類に投げかけた偉大な謎「原罪」や「罪」、「贖罪」、「三位一体」、「十字
    架」、「復活」も、メタファーとして捉えなければならない。キルケゴールが歴史から
    キリストについてなにも学ぶことはできないといったのは、イエスの存在そのものがメ
    タファーであり、キリスト教そのものが一つのメタファーだからである。つまりメタフ
    ァーが解らなければキリスト教は理解できない。さらにいえば、メタファーが読めなけ
    れば文学や哲学、宗教、心理学も理解できないだろう。
 ドストエフスキイの小説もまた、このメタファーの多用によって、作者の言い表しがたい思想を表現しようとしている。それが作者にとって意図的であれ無意識的であれ、それを読み解く努力が批評という行為にほかならない。つまりドストエフスキイは聖書のモチーフを祖型としているだけでなく、表現方法として聖書の重層的なメタファー構造を踏襲しているのである。
 今まで多くの人によって論じられてきた「大審問官」、「スタヴローギンの告白」、「ラスコーリニコフの殺人」、「ネヴァ河の鬼気せまる光景」などの重要な逸話や、「痩せ馬の夢」、「繊毛虫」、「多島海」などの夢に隠された数々のメタファーが、読者に深い謎をかけている。これらは聖書のメタファーで見たように、多義的で正解というものはない。したがって、これらのメタファーが解釈され、言葉となって発せられた瞬間、その本来のものからズレてしまうのである。しかし、メタファーに描かれたものは※本質ではない。言葉で表現されたものはあくまでも「雙手音声」にすぎないのである。禅では問いそのものが答えであるという。問いが答えであるということは、答えもまた問いであるという逆説的関係にある。「大審問官」の逸話はそれ自体が問いでもあり、答えでもあって、禅の公案のようでもあり、またその解答のようでもある。したがってドストエフスキイのメタファーは問いであると同時にそれ自体が答えでもあるわけである。つまり謎は永遠に解けることはなく、ただ直感的に感知することができるばかりである。このように見てくると、結論はメタファーを解釈しても無意味である、ということになる。しかしそれにもかかわらず、エックハルトが「沈黙せよ!」といいつつ「私は神を語ることを好む」と逆説的に述べたように、それらを読み解く努力は続けられるのである。
    ※神秘主義では神は本質をも超越するという言い方もする。つまり神は本質でもない。
 そこでふたたび禅の方法論について立ち返ることにする。
 『碧巌録』は、圜悟克勤(えんごこくぐん1063~1135)が雪竇重顕(せっとうちょうけん)の公案集『景徳伝灯録』から100則の禅話を選んで、それに評を加えたものである。禅の根本的な原典であるが、分かる人はわずかしかいないといわれているので、もとより我々素人に理解できるものではない。しかしその方法論は示唆に富んでいる。なお、模範とするべき古人の言行を古則といい、1則は一つの禅話にあたる。
 『碧巌録』は一種の教科書で、古人の全人格をもってする体験の軌跡が記され、読者はそれを追体験することを求められる。ここには雪竇による模範解答的なものが提案されているが、禅ではこのような教条的、一義的な正解を拒否し、読者に自己の見地で読むという主体性を要求する。つまり雪竇の解答ばかりでなく、古人の悟りそのものも各人各様であって、その人ならではの独自の個性によっているという。そしてこの悟りなるものはもともと言葉を超えたものであるから、明示的であることができず、メタファーを含んだ暗示的なものにならざるを得ない。
 禅では「不立文字」といって、心や体で体験したこと、つまり悟りは言葉や文字によっては伝えることはできず、心から心へ伝えるものであるとする。そのため経典(テクスト)を重んじず、幼い子供に月を指さして教えても、子供は月を見ないで指を見てしまうように、指をささないと方向が分からないが、さすとこんどはそれに捉われてしまうところから、釈迦の言葉を記録したとされる経典はあくまでも月をさす指にすぎないのだという。

   ドストエフスキイの義認論
 義認はプロテスタントの用語で、神が現実には義でない人間を、キリストのゆえに※義(ただしい)と認めるというもので、罪の赦しに関わっている。旧約聖書において律法を行う者が、義とさせるということに対して、新約聖書でパウロがこの神の義を現世の道徳的、法律的な義にまで拡大解釈して発展させた。パウロは「ローマ人への手紙」(第三章二一‐二五)において、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」という真理を明らかにし、人が義とされるのは律法を守って正しい行いをするからではなく、イエスを信じるという信仰によると説いた。したがって義認は人間になんの条件も要求しない恵みの賜物として、すべての人々に及ぶという、救済の教説であった。つまり福音である。
   ※義は旧約聖書においては「聖」とならび、またそれと結びついて、神の本質をあらわす
    重要な概念のひとつで、正義、公義、公平、公正、勝利、救い、助け、繁栄など、さま
    ざまな意味を含む多義的な語である。
 それに対し、イエスの跡を継いだ弟のヤコブは、パウロと異なり、人が義とされるのは行いによるのであって、信仰だけによるものではないという。そして霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのであるといって、義は無条件に神から与えられるのでないとする。カトリック教会の見解はこのヤコブの考えに近く、「義認」ではなく「成義」という語を用いる。成義は単に罪の赦しだけではなく、また聖化および内的人間の更新でもあるとして、この成義は神と教会との戒律を守ることにより、信仰によって善き行為と協働しながら増加していくと主張する。
 宗教改革はこのようなカトリック教会の成義論に対する戦いでもあった。ルターは、神はわれわれの行為なしに、信仰によってのみ義としてくれると主張し、われわれは律法の行為なしに、信仰から義とされると述べて、義認を赦罪として理解した。つまり神は自らの義をもって罪人を審くものではなく、キリストにおいて自らの義を罪人に与え、罪人を義とするという恵みの神であるという福音の再発見をした。そしてルターの理解はさらに先鋭化されて、「同時に罪人にして義人」、「常に罪人にして義人」と表現される。この命題は義認における神の恵みが人間の立場を判断の基準にしないことになり、ここに神の愛の純粋性が保たれることになる。
 ギリシャ正教では、人間はキリストにあって堕落前の状態に回復され、さらに神化され得るものになるという。この神化とは『キリスト教大事典』では義認と同義語としているが、救いのために人間の努力と神の共働的恩恵がともに働くという共働説である点で、プロテスタントの義認とは少し異なっている。
 ところが御子柴道夫の論文「アレクセイ・ホミャコーフのキリスト論」によれば、1858年にロシア正教のホミャコーフの書いた神学論文「信仰問題に関するカトリック教徒とプロテスタントたちの諸著作について」は、カトリシズムとプロテスタンチズムの著作を批判しているにも関わらず、プロテスタントの神学に似ていると指摘している。そしてその義認論はルターのものに非常に近い。
 ゾシマは次ぎのような義認論を説教の中で述べている。

 地上においてわれとわが身をほろぼした人達は禍なるかな! 自殺者は実に可哀そうだ! こ
 れより不幸なものは他にあり得ないと思う。かれらのために神に祈りを捧げるのは、罪過であ
 ると人々は説く。また教会も表面的にはかれらを破門するように観取される。しかしわたしは
 心ひそかに、かかる人々のためにだって、祈ってやることが許されるものと考える。銘記せよ
  。キリストはどんな場合にも愛にたいして、ぜったいにお怒りにはならぬだろう(『カラマ
 ーゾフの兄弟』第六篇三-[I])。

 といって、教会が破門する自殺者でも、救われるべきではないかと主張する。
 ロシアでの大地によって罪が赦されるという考えは異教的で義認にあたらない。しかしゾシマの教説は明らかにペテロ→ルターの義認論にほかならない。ドストエフスキイの描く自殺の場面は冷酷であるが、その奥底に人間存在そのものに対する深い憐憫を見ることができる。
 それに対し、イヴァンの語る大審問官の義認論は、「われわれはかれ等の罪過も赦してやる。かれ等は力弱き存在じゃ。だによって、おのが罪過を赦されたことにたいして、かれ等はまるで子供のように、われわれを愛慕するにいたるじゃろう。われわれはかれ等にむかって、われわれの許しを得てのち行なうならば、いかなる罪過も贖われると言うてきかせる。われわれはお前たちを愛するが故に、お前たちが、罪過によろめくのも赦してやるのだ、だからお前たちの侵す罪過は、当然われわれが身に引きうけてやるのじゃよ(『同書』第五編五)」といって、偽キリストによる偽りの義認論を展開する。
 この大審問官の劇詩を語る前に、イヴァンは人間の子供に対する暴虐の数々を並べたて、人間にはそれを赦す資格はないと断言する。しかしアリョーシャは、「兄さんはいま、赦すことのできる者、そういう資格を持つ者が、この世にいるだろうかとおっしゃいましたがね。しかし、それは厳存するんです。そしてこの存在者はすべてに対してすべてを赦すことができるんです。この存在者はすべてに対して、すべてに代って、自分自身の無辜の血を流したからです(『同書』第五編四)」と反論して、ルターの義認論を剽窃する。しかしルター流にいえば、イヴァンの義はあくまでも人間の義であって、人間には認識不可能という神の義ではない。
 『罪と罰』のマルメラードフは、地下の安酒場でラスコーリニコフを相手に義認論を打つ。最後の審判にあたって、「神さまは万人を裁いて、万人を赦される、善人も悪人も、智慧ある者もへりくだれるものもな……そしてみんなを一巡すまされると、今度はわれわれをも召し出されて、『そちたちも出い!』と仰せられる。『酒のみも出い、意気地なしも出い、恥知らずも出い』そこで、われわれが臆面もなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども!そちたちは獣の相をその面に印しておるが、しかしそちたちも来るがよい!』(米川正夫訳 第一篇二)」といって赦すという。これは明らかにルターの義認であって、純粋なロシア正教の教義に反している。
 料理屋で大学生が語る万人に有害な金貸しの老婆を殺して奪った金によって、「数百数千の生活が、正しい道に向けられるかもしれないんだ。貧困、腐敗、破滅、堕落、花柳病院などから幾十の家族が救われるかもしれない――(中略)後でその金を利用して、全人類への奉仕、共同の事業への奉仕に身を捧げる(第一編六)」というのは、人間の義であって、神の義ではない。この大学生の考えはラスコーリニコフの考えでもあるが、それに対しソーニャは、「神様の御心を知るわけに行いきませんもの……(中略)誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、いったい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでしょう?(第五篇四)」といって、神の義を主張する。そしてこのソーニャの誰のことも裁かないという考えは、ムイシュキンとともにイエスや聖フランチェスコの生き方に繋がっている。
 『悪霊』のスタヴローギンはティホン僧正への告白の終わりに、「ぼくは自分で自分を赦したい。これがぼくの最大の目的、目的のすべてなのです!」というが、自分で自分を赦すというのは自家撞着で救いはない。
 また、義や義認の概念は「和解」の概念に結びついている。パウロの「ローマ人への手紙」(第五章九‐一〇)は、「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と述べている。
 同じことを「コリント人への第二の手紙」(第五章一八‐二〇)では、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、(中略)わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」と説いている。
 ドストエフスキイは晩年の1880年6月8日に行われたプーシキン記念祭の公開演説会において、西欧派とスラブ派の和解を説き、人類の全世界的結合を唱えて聴衆に深い感銘を与えた。「和解」は彼にとって重要な概念の一つであった。講演のあとで熱狂した群集から、「あなたはわたしたちの聖者です、予言者です!」という叫び声が起った。しかしこの講演も、シベリアでの死刑の茶番劇のあと神と和解した、という体験がなければ、これほど聴衆を感動させることはなかったであろう。この講演を西欧派のグラドーフスキイは、「空想と現実」という論文を書いて批判した。理性的に見ればこの批判は全く正しい。しかしドストエフスキイはキリストの刑死と似た体験を経て生きた言葉を語ったのであり、禅の考えからすればグラドーフスキイの方が空論ということになる。

   まとめ、ドストエフスキイが言葉で言い表しえなかったもの
   ――その観念と思想
 ドストエフスキイは兄ミハイル宛の手紙に、「人間は神秘です。この神秘の謎はどうしても解き明かさなければなりません。それを解き明かすためにたとえ全生涯をついやしたにしても、決して時間を無駄にしたとは言えません。僕はいまこの神秘と取り組んでいます。なぜならば人間になりたいからです(『書簡集』一八三九年八月十六日)」と書いている。また同じくミハイルへの手紙で、「詩人はインスピレーションに打たれて神の謎を解く、したがって哲学の使命を果たすということです。したがって詩的感激こそは哲学の感激ということになります……。したがって哲学はやはり詩であるということになります(『書簡集』一八三八年十月三十一日)」と述べている。もしドストエフスキイの生涯の仕事がこの人間の謎と神の謎を解くことであったとするならば、個々の作品やエピソードはまさに公案(聖書)に対する解答だったことになる。ハーマンは「哲人たちの見解とは自然の判読であり、神学者たちの教えとは聖書の判読である。これを書いた著者こそが、その言葉の最上の解釈者であろう(『シンボル形式の哲学(一)』162頁より引用)」といっているが、さしずめ、ドストエフスキイは哲人と神学者と詩人を同時に生きたといえよう。そして本稿で考察しているのは文学、哲学、宗教についての本質論である。
 このうち哲人的なものは、トレルス―ルントが、「存在がわれわれの一人ひとりになげかける三つの大いなる問い――汝はどこにいるのか、汝はなに者か、汝はなにをなすべきか、――に対する答えはつねにここから得られる(『シンボル形式の哲学(二)』197頁より引用)」として、人間のすべての文化的発展のもっとも内奥の脈絡をなすものについて考察しているのに対応する。
 金子晴勇は『ルターの人間学』の中で、「人間学的方法とは人間が自己自身を自覚的に、つまり〈生を生そのものから理解する〉基本的理念から生じている(『同書』5頁)」といって、グレートイゼンの哲学的人間学の定義「汝自身を知れというのがすべての哲学的人間学のテーマである。哲学的人間学は自己省察であり、自己自身を捉えようとする人間の絶えず新たになされる試みである」を紹介している。それにひきかえ、ルターの人間学は「宗教的汝としての神との関係の中での自己認識である」と捉え、「この神との関係は彼自身の生の実存の苦悩を伴う底知れない深みをもった体験として表出され」ているとしている。そして個人的な体験が思想を形成するが、「基礎体験は多くの場合※基底の危機であって、これまで育てられてきた環境世界が実に多くの問題をはらんでいることの認識である。一言でいうなら地盤の喪失の感得であり、ここから世界も自己も問われるべきものとして現われてくる(『同書』8~9頁)」と説明している。それはドストエフスキイにおける擬似死刑の体験であり、ルターにおける落雷による死の恐怖の体験であり、キルケゴールにおける地震の体験に相当する。
   ※ドストエフスキイの小説における「基底の危機」の深層心理学的側面については、筆者
    がすでに「ドストエーフスキイとアイデンティティ」(『ドストエーフスキイ研究 創刊
     号』海燕書房)で論じている。
 そして金子は「人間学は自覚という次元における人間の全体的なる自己反省であり、それにより自己の実質的本質が問われている。人間とは何かという問いはこの自己の本質についての問いかけである(『同書』56頁)」といって、キルケゴールの『不安の概念』から、「自己自身に注目する人間ならすべて、その人は彼自身が何者であるかを知っているから、如何なる〔概念的〕学問も知らないことを知っているということこそ、人生の驚異事である。このことがあのギリシア的命題〈汝自身を知れ〉のもつ深い意味である(『同書』56頁)」を紹介している。
 『弱い心』の主人公アルカージイは、ネワ河畔で見る神秘的な光景に、「私はその瞬間、今まで心の中にうごめいていたばかりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それはさながら、何か、新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世界を洞察したかのようであった。その世界はただ何かぼんやりしたうわさによって、何か、神秘的なしるしによって、かすかに知っていたものである。ほかならぬその時以来、私の存在がはじまったものと考える(『ドストエーフスキイ広場 №14』木下豊房訳より引用)」といって、未知の感触を得たという。
 ドストエフスキイの小説にはこのような悟りに近い感触の記述が多い。これは癲癇の既視体験にも似て、感覚が先行する。
 『主婦』のオルドゥイノフも、「彼自身は自分なりに体系を作っていた。それは何年も彼の内部に生き残っていて、ぼんやりとして明確ではないが、新しい光り輝く形式をもって肉付けされた、何か驚くほど楽しいイデエの形象が彼の精神の中で少しずつ創られつつあった。そしてこの形式は彼の精神を苦しめながらも、その精神から出かかっていたのだ。彼は控え目ながらも、この形式の独創性、正当性、自立性を感じ取っていた。これを創造することは彼の能力に応じながら、しっかりと形成されつつあった。しかし具体化し完成する時期はまだ遠く、もしかしたらずっと先で、全く不可能かもしれないのだった!(『ドストエーフスキイ広場 №15』近藤大介訳から引用)」という。
 さらに『カラマーゾフの兄弟』の中で、アリョーシャは、「無数の神の世界から投げられた光の糸が、一斉にかれの心で合致したもののごとく、そしてかれのその心は、《他界との接触に》ふるえおののく思いであった。(中略)労固として微動だにしない何者かの、心の中にしのび入るのが、刻一刻とあきらかに、まざまざと感じられるようになってきた。まるである種の理念が知性を領したかのようであった(第七篇四)」といって、新しい理念の感触を啓示される。
 心理学者で哲学者W・ジェイムズの『宗教的経験の諸相(下)』(194頁)には、亜酸化窒素の吸引により恍惚の中で異常に神秘的な意識が高まり、深遠な真理が啓示されたような形而上学的な確信をもつ人がいると報告されている。そしてその基調は世界のさまざまな対立が融け合って一体となる「和解」の気分であるという。ドストエフスキイのプーシキン記念祭での演説がまさにこれで、癲癇のアウラとの関連で見ることもできる。このような神秘的な気分は宗教家や芸術家の中にだけでなく、ジェイムズによればヘーゲルの哲学をも支配しているという。したがってこの感触はたんに妄想や幻覚として終わることもあるが、優れた創造者の思索を経て、宗教や芸術、哲学へと昇華することもあるわけである。
 ドストエフスキイ自身、『白痴』の中で癲癇のアウラについて、ムイシュキンに次ぎのように語らせている(第二篇五)。「叡知と感情とはこの世のものとも思われぬ光明にさっと照らし出される。あらゆる胸のざわめき、あらゆる疑惑、あらゆる不安はまるで一時に鎮まったようになり、水のように澄んだハーモニイに充ちた喜びと希望に溢れる、※理性と神性に充ちた、なにか知れない崇高な平静な境地へと解き放たれる。(中略)その感覚の一瞬が、高度のハーモニイであり、美であることがわかり、いままで耳にしたこともなく想像もつかなかったような充実、リズム、融和、及び最高の生の綜合との高められた祈りに似た融合の感覚を与えてくれる」。そして、「この一瞬のためなら全生涯を捧げてもいい!」と最大級の評価をする。
   ※アウグスティヌスやエックハルトをはじめ、多くの神秘主義者は理性を伴わない信仰は
    狂信にすぎないとして理性を重要視した。ルターもまた「理性はすべてのもののうち最
    も重要なもの」といっている。ドストエフスキイの「理性と神性に充ちた」という表現
    に、神秘主義との共通性を見てとることができる。これも秘蹟的なロシア正教の考えに
    はなかったものだろう。
 この美と調和の感覚は、小説の中の地下室人や二重人格者がついに得られなかった世界との和解を果たしている。しかし癲癇の場合はその感触は瞬間的なものにすぎない。それを定着し、永続させ、普遍化させるためには、確固としたシステムが必要であった。そこからドストエフスキイの言葉との闘いがはじまるわけだが、彼が論文や日記、手紙などの中で語った思想は現実的・即物的なものばかりで、いわゆる評者たちが論じているような宗教や哲学に関わるような形而上学的なものではない。それらは小説において暗示的に語られた「言葉で言い表せないもの」、「隠されたもの」を読み解くことによって我々の前におぼろげながら立ち現われてくる。しかしそれはゲーテが芸術と宗教は「概念によらざる世界把握である」と言っているように、簡単に言葉や概念に翻訳することは難しい。
 そして聖書やドストエフスキイの小説における多義性は、ヘラクレイトスがいったように、「固定されたものではなく、流動的で、自己自身の限界性を繰りかえし突破していく積極的な契機」であり、いつの時代においても新しく意味づけされ、生まれかわり、創造し、発展していく神話の基本原理なのである。したがってドストエフスキイの小説がこれからも成長していく素因は、言葉で言い表せないもの、隠されたものの構造に求めることができるのである。

   〈主な参考および引用文献〉
上田閑照著『人類の知的遺産21 マイスター・エックハルト』講談社 昭和58年
植田義兼訳『キリスト教神秘主義著作集6 エックハルトⅠ』教文館 1989年
中山義治訳『キリスト教神秘主義著作集7 エックハルトⅡ』教文館 1993年
エックハルト著『エックハルト論述集』川崎幸夫訳 創文社 1991年
エックハルト述『エックハルト説教集』岩波文庫 1990年
今井晋著『人類の知的遺産26 ルター』講談社 1968年
金子晴勇著『ルターの人間学』創文社 昭和50年
小川圭治著『人類の知的遺産48 キルケゴール』講談社 昭和54年
山崎庸佑著『人類の知的遺産 54 ニーチェ』講談社 昭和53年
ニーチェ『ニーチェ全集14 偶像の黄昏 反キリスト者』原佑訳 ちくま学芸文庫 1895年
ルドルフ・オットー著『聖なるもの』山谷省吾訳 岩波文庫 1968年
カッシーラー著『シンボル形式の哲学(一)――第一巻 言語』生松敬三・木田元訳 岩波文庫 1989年
カッシーラー著『シンボル形式の哲学(二)――第二巻 神話的思考』木田元訳 岩波文庫 1991年
W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(下)』桝田啓三郎訳 岩波文庫 1976年
鈴木大拙著『禅とは何か』角川文庫 昭和40年
唐木順三編『ドストエフスキイー全集 別巻』筑摩書房 昭和39年
三浦雅士編『現代思想――特集=ドストエフスキー』青土社 1979年
『旧約聖書 出エジプト記』関根正雄訳 岩波文庫 2006年版
『新約聖書』日本聖書協会 1974年
ジョン・ボウカー編著『聖書百科全書』荒井献・池田裕・井谷嘉男監訳 三省堂 2000年
日本基督教協議会文書事業部編『キリスト教大事典』教文館 昭和58年
新谷敬三郎教授古稀記念論文集刊行委員会編『交錯する言語 新谷敬三郎教授古稀記念論文集』名著普及会 1992年

(2008年4月19日 ドストエーフスキイの会発行の『ドストエーフスキイ広場 №17号』に発表した論文の元原稿です。2019年6月27日up.)